海の記憶
いつか海を見るのが夢なのだと、彼女は躊躇いがちに打ち明けた。
ぼくが『サチ』と出逢って二日後くらい。この間家族で海に行った時の話をしたぼくに、『サチ』はほんのりと羨ましそうにそう言ったのだ。
「海。ここからじゃ見えないから」
見たことないんだ、と『サチ』は言う。
「青くて、広くて、しょっぱくて。そういうものだって聞いたことならあるけど、本当なのかな」
「本当だよ。ずぅっと先まで青い水が広がってて、なめたらすごくしょっぱかった」
「いいなぁ。私も見てみたい」
説明になっているかも怪しいぼくの説明を、そんなぼんやりとした内容を聞いただけでも『サチ』はこの上なく眩しいものを見るみたいに目を細める。
それからしばらく『サチ』の疑問に答えるとかして海について話していって、そんな中で、ふと一拍黙った『サチ』が勇気をしぼってといった風に言葉をこぼした。
──もし、行ってみたいって言ったら。
ためらいがちに『サチ』は呟く。まるで口にしてはいけないことを話すみたいに。車の来ない赤信号にそろそろ足を踏み出すみたいに。
「キミも、私といっしょに来てくれる?」
「もちろん。絶対いく」
おっかなびっくり尋ねるそれに、ぼくは一も二もなく即答した。
深くは意味を考えないで。ぼくに行ったことがあるのだからそれくらいは出来るだろうと程度の低い皮算用で。ただ、彼女の夢を叶えてあげたい一心で。
「いつにする?」
「えっ」
すっかりその気で前のめりになって尋ね返したぼくに、むしろ『サチ』の方がびっくりしたみたいに声をもらす。
憧憬の実る可能性を、他ならない彼女自身が心の底では信じていないという事実には、この時の僕はまだ気付けていない。
「い、いいよ。言ってみただけだから」
「でも──」
「ほんとう。本当に、話を聞いてるだけで十分だから」
ぼくの提案がそこまで思いもしないものだったのか。『サチ』は心底あわてたみたいに、頭が取れちゃうんじゃないかと心配になるくらいぶんぶんと左右に首を振る。
夢だと言っていたのになんでだろう、とは不思議に思いながらもぼくは頭が取れる前に『サチ』を止める。幸い、『サチ』はくらりと目を回しながらも首はつながっている内にやめてくれた。
「それにね。そんな風に言ってもらえたの、初めてだから」
頭をふらふらとはさせながら。視線が定まりはしないながらも、『サチ』はそんな風に言葉をつなぐ。
「そんなことって思うかもしれないけど、たったそれだけをくれたのはキミだけだから。だから、だからね」
最後だけは二回くらいつっかえながら。
それでも大切な何かを噛みしめるようにして、そこだけは間違えないよう慎重に、『サチ』は心ににじむ色へと言葉という形を与えて口にした。
「そうやってキミが想ってくれるのが、わたしは一番うれしいんだ」
にへら、と笑んだその顔には、満面ですらも描ききれない心を波立てる無数の波紋が詰めこまれているようにぼくには思えた。
ドキリと胸が高鳴った。一瞬息が苦しくなって、だけど次の瞬間には何もなかったみたいに戻っている。ほんの刹那、たったそれだけの短い隙間、気を緩めたせいで忍び込んできた情動に、今はまだ気付けないで。
今にして思い返せば『そうだ』と分かる運命の時。この瞬間にこそ僕は、彼女に恋をしたのだろう。
囚われて、のめり込んで、没頭して、沢山の喜楽を生み出して、惹き付けられて夢中になって一緒にいるだけで嬉しくなって──行き着く先では無味に終わる、そんな徒花めいた顛末なんて知らないまま。彼女から手向けられる言葉に、笑みに、感情に。
僕は無邪気に、海月の骨のような恋をしたのだ。




