第5節 雨降りの駅と、海(前)
バラバラと、雨がトタン製の屋根に当たって弾けて音が響く。薄い金属屋根が奏でるリズミカルな即興曲。騒がしいのに同時に何処か心地良くもあるその演奏を、彼女と僕は駅のホームに備え付けられたベンチに並んで聞いていた。
結果として、商店街を始点として繰り広げられた逃走劇は町中を半刻ばかり駆け回ったところで終わりを迎えた。彼女によって達せられた「もう大丈夫かな」の一声で僕たちは走り詰めていた足を止め、僕は最後まで追手らしき姿を拝む事は叶わなかった。
その後のことについては特筆するようなものもこれと無い。乱れた息を整えて、傘も意味を成さずに彼女同様水浸しになってしまった僕は何処かで雨宿りしようと提案した。その意見が採択されて、休憩場所として選ばれたのがこの駅だったという訳だ。
町と村との境目の、どちらかと言えば村寄りに位置する無人駅。
駅と言っても利用客は殆ど居ない。上下で幾らか発展した地域を繋いでいるから路線としての本数や乗客ならある程度はいるけれど、それも中継地点でしかないこの場所には当て嵌まらない。時代の流れに食らいついてICカードの読み取り機なら辛うじて設置されてはいるものの、乗り越し精算機どころか自動改札機すらもありはしない。
無人の駅舎。僕たち以外に人が訪れる気配の無いプラットフォーム。雲が空を覆い隠して薄暗い中、構内の片隅に置かれた自動販売機だけが眩しい光を放っている。
「……君はもう少しくらい、計画とか算段とかを考えた方が良いと思う」
この駅にホームがあるのは片側だけで、一条だけ伸びる線路の反対側には細い畔を挟んだ直ぐそこから長閑な田園風景が見渡せる。遠景に望む建物へと行き当たるまでは延々続く緑の景観。雨に打たれながら倒れてしまわないよう必死に耐える稲穂たちを眺めながら、僕はいよいよ隠せなくなってそうぼやいた。
「こんな調子で、いつまでも逃げてられるとは思えないけど」
彼女と出会ってから今に至るまで、殆ど息つく暇も無いような慌ただしい時間が続いている。時間にしては半日にも満たない数時間での出来事だ。たったそれだけ。そんな短い間だけでも僕たちは、彼女によればではあるが二度も見付かり、その度にあちこちへと走り回る羽目になったのだ。
正直言っていつまでも続けられるようなものじゃない。追う側と逃げる側のどちらか一方が折れるまでは終わることの無い逃避行。他の協力者も後ろ盾も無く、一寸先すら見通せない五里霧中。駆け落ちなんて彼女は軽い調子で言ってもいたけど、事はそんなに軽視して良い状況でも無い筈だ。
「そう? 今の感じならどうにかはなりそうだと思うけど。夕方だってそろそろだし」
けれど彼女の側から返ってくるのは暗澹たる不安が渦巻く僕の胸中なんて知る由も無いと暢気なばかりの答えだった。
その声に焦りや憂いといった暗い感情は滲んでこない。琥珀色の瞳はいつだって、宝石のように濁りない輝きだけを宿している。
「夕方?」
「あれ、言ってなかった? 逃げれば良いのは今日の陽が暮れるまでだって」
「なにそれ初耳。聞いてない」
「む……。あ、そっか。ごめんごめん」
ここに来て急にもたらされた新情報に半眼を作って冷ややかな視線を差し向ける。そうすれば彼女は少しだけ悩む素振りを見せてから、伝え忘れていたことを思い出したのかポンと手を打ち悪びれた風も無い謝罪を返してきた。
「それで? 夕方って何」
「うん。日暮れっていうのは一つの明確な区切りだからね。明と暗の境界線で、昼の終わりで夜の始まり。私たちにとっては日付なんかよりもよっぽど馴染んだ線引きだから。太陽が沈みさえすれば全部終わりで、結婚も何もみーんな意味がなくなっちゃう」
だからそれまで逃げ切りさえすれば勝ちなのだと。
説明ながらにいぇいとばかりのピースサインまで添えてくる彼女に僕は、二本立てられた指は無視して「そっか」と一言だけを短く返す。
何と言うか、話の呑み込めなさも此処に極まったと言うべきか。元より彼女の事情は複雑に過ぎて全部に理解と納得とを示せると思っていた訳ではなかったけれど、それでも今回の話は殊更だ。
これも果たして都会と田舎、現代と古来による価値観の相違だろうか。こうまで来ると自分の中に落とし込もうとする努力の方が虚しく思えて──それに今は、少しばかり別の思索に傾倒して話半分にもなっていたから。僕は匙を投げつつベンチの背もたれに身を預け、再び雨音へと耳を傾けることにした。
「むぅ」
対して色々と流されたことに気付いたらしい彼女はピースを引っ込め微かに唸り、それからこちらも諦めたように前方へと向き直った。
それきり会話の途切れた沈黙を、まるで誤魔化すように手に持っていたオレンジジュースを口へと運ぶ。駅へと着いたばかりに買った缶ジュース。ちなみに僕の方はリンゴジュースで、どちらも彼女のチョイスで自販機が吐き出したものだった。
コクリと鳴った彼女の喉に僕も倣って自分の缶を持ち上げる。沈黙の重さと手持ち無沙汰な気まずさを払うように缶を傾け、その段になって今更ながら、とうに中身が空になっていたことに気が付いた。
口内に流れてくるのはほんの一滴分のリンゴの香り。どうやら買って直ぐに呷った時に、走り回って乾いた喉へと余すこと無く吸い込まれていたらしい。
間違えた行為に耳の後ろがざわつくような感覚を味わいながら缶を下ろす。八つ当たりながら仕返しとベンチの座面に軽く缶を打ち付けて、ほんの少し熱を帯びる頬を隠すように口許を押さえながら前へ屈んだ。
──もしもこのまま、逃げ切ることが出来たとして。
ざあと尾を引く雨音へと浸る傍ら。ふと、雨粒に混じってそんな声が耳を打った。
現実逃避へと逸れる思考。目の前のことではなく先のこと。過去へと返りがちだった無意識が、何の気無しに向いた未来のカタチ。
声なき声は無言の空気を揺さぶる事は無いままに、されど無形だからこそ手の届かない心へも広く波紋を生じさせる。
──結婚も何も無かったことに出来たとして、その先を彼女はどうしていくつもりなのだろう。
ただの推測にしかならないけれど、家族の所に戻るのかと訊けばきっと彼女はしてやったりとばかりの顔で首を横へと振るのだろう。目論見は全部台無しにしてやったと大手を振って、始めて自分の願いを突き通せたと満足して、元いた場所へと帰るだろうとは考えられない。たった一つの自由を掴んだだけで大人しく元の不自由へと立ち返るのは、ほんの数時間と一緒に居ただけの僕からしても其処に『彼女らしさ』を感じない。
ならばこれは一日二日の家出なんかとは訳が違う。口振りのせいでふとすれば軽んじてしまいそうにもなるけれど、彼女のしようとしていることは事実上の出奔なのだ。今まで自分を守っていた縁を断ち切り我が身一つで飛び出して、あらゆる安寧をかなぐり捨てて自由を選ぶ。彼女ならきっとそういう道をこそ選ぶのだろうと、僕には思えてならないから。
だとすれば。
日が暮れさえすれば全部終わりだと彼女は言うけど。その先にこそ待ち受けている筈の苦難に彼女は、どう立ち向かっていくつもりなのだろう。
それに僕も……と思考は泥濘む坂道を滑るように更に転がる。僕もまた、この先をどうしたいと考えているのかは自分自身ですら分からない。只の行きずりでなし崩し的に一緒にいるだけの僕。彼女との関わりなんて本当ならば無かった筈で、ここまでの全ては偶然の上に積み重なった虚妄でしかなく、ほんの奇跡で、ほんの少し足を踏み外したようなもの、この逃避行が終わった後には別れて二度と交わることの無い道をお互い真反対へと歩むだけ。赤の他人が運命から外れて行き逢っただけの巡り合わせなど、何をせずとも元の鞘へと戻ることこそ必定だ。
それは僕自身でも理解はしている。感情に引き摺られてあり得ない期待なんてすべきじゃない。高望みなど、したところで墜落の痛みが増すだけだ。
なのに、そう。本当に良くないのはそこなのだろう。
理解していると言いながらまるで自制できていない。言葉を重ねて振りをするだけで実は何も分かっていない。期待だ高望みだと悪し様に言っておきながら、結局一つとしてそれらを否定的に捉えていない。
だってそうだろう。
期待とか、高望みとか、そんな言葉を使うくらいに。
僕は有り得べからざる未来のもしもを、それくらい好ましいものとして想っているということなのだから──
ふと。
その時不意に、遠くから聞こえてきた踏切の下りる音が思案に埋没していた意識を現実へと引き戻した。
カンカンカンと規則的になる鐘の音とレールを伝う微かな振動。発車標もスピーカーも無いせいで気付かなかったけど、どうやらもうすぐ電車がやってくるらしい。
「そう言えば、なんだけど」
反射的に音と揺れの方向へと目を向けながら口を開く。遠くから薄ら闇を切り裂くようにして近付いてくるヘッドライト。それを見詰めて、同時に僕から見て同じ側へと座っている彼女のことも流し見ながら、ふと思い立って問い掛けた。
「そんなに捕まりたくないならさ。何で遠くに行こうとはしなかったの?」
それこそ、電車に乗って逃げるでもして。
誰も彼女のことを知らない遠い異境へと旅立てば、一番簡単に自由を手にすることが出来たんじゃないかと思うのだけど。そうすればさっきまでみたいに一々周りを気にかける必要も、追い付かれる度に走り回る必要も無かったろうに。そんな瀬戸際でする綱渡りよりも確実で、よっぽど安定した安心を掴めた筈で、余分な苦労を抱えることなく、僕も儚い恋心なんて懐くことなく、色んな荒波を立つ余地からして無くせていたかもしれないのに。
「ああ、うん。確かに。そうしてみるのも良かったかもね」
けれどそんな最適解に、彼女は曖昧な答えを返すだけだった。そんな選択肢は今の今まで思い浮かびさえしなかったとばかりの薄い反応。頷いて、認めて、噛み締めて、その上で今更だと仮定を超える話をしない。
「海に行ってみるのなんて良いかも。向こうに見える山も越えてずっと先の、こことは全然違う場所。それに私、海って見たことないからさ。一度で良いから見てみたいって、昔からの夢だったんだ」
「行きたいなら行ってみれば良いよ。今日の日暮れさえ過ぎれば自由なんでしょ? それなら何も気にかけることなんて無いんだし、したいと思ったことならそのままやってみれば良いんだよ」
「…………うん」
そうなんだろうね、とやっぱり彼女の答えは茫洋としたまま。
会話が途切れる。彼女は何かを言おうとして、けれど躊躇うように口を閉ざす。
変わらず微笑を湛える彼女の口許。手の中でペコペコと凹まされているスチール缶。弱い蛍光灯に照らされて目元に落ちる微かな影。
表面的には笑みの形で固定された唇は、その裏側でもごもごと動き出したそうにしているから邪魔をしないよう僕も黙る。
ガタンゴトンとレールの音。みるみる近付いてくる先頭車両に、いよいよ一つ隣の踏切までもが高く警鐘を鳴らし始めた。
「もし、海に行きたいって私が言ったら」
迫る鐘と光にさながら急き立てられたかのように、硬い唇をこじ開けて彼女が言葉の形を押し出した。
それでもやっぱり、仮定としてではあったけど。ついぞ実現を求めることはなかったけれど。
彼女は僕へと窺うように目を向けながら、もう一つ抱いた彼女の願いを口にした。
──もしも彼女が、自分のことを誰も知らない遠く遠くへ逃げていきたいと言ったなら。
「そしたらキミも、私と一緒に逃げてくれる?」
──そうしたら僕は、どうするのだろう。




