かみさまの記憶
なんでキツネがかみさまなのかとぼくが訊くと、おばあちゃんはそうじゃないよと笑って首を横へと振った。
それは僕が『サチ』と出会う以前の話。もう一年だけ遡った夏の一幕。地主神の祠へお参りに行くのだと言う祖母に、「ぼくも!」とついて行った先での事だ。
「お狐さまは神様じゃなくて、神様からのお使いなんだよ」
そう言いながらおばあちゃんは、石でできたキツネの鼻先へとピッと突き立てていたぼくの指を優しく制した。祠の左右にこぢんまりと並んだキツネの石像。赤い前掛けを首から下げた、両手に抱えられるサイズのそれら。
お墓やかみさまの前では指をさしてはいけないよというおばあちゃんの注意を、ぼくは度々忘れてしまう。
「じゃあかみさまって、どんな見た目なの?」
ハッとしながら指を引っ込め、それならと尋ねた僕におばあちゃんは優しく笑みを浮かべて「さてね」と小さく首を振った。
「なにせあたしらには神様の御姿は見えないからね。どんな形なのかもどんな大きさなのかも、どんな色かも分からないのさ」
「形も色も?」
なんとなく、よく分からないなりに人と同じ姿なのだとばかり思っていたぼくに、おばあちゃんの話は新しい驚きの連続だった。
「そうさ。神様はね、正しい名前を呼んだ者にしか御姿をお見せにはならないからね」
人間みたいかもしれないし狐みたいかもしれないけれど、だから結局、想像するしかないのだと。
そんな風に話すおばあちゃんに、ぼくはふと気が付いて訊いてみる。
「名前って、もしかしてこれ?」
祠のすぐそばで地面へ突き立ててある四角い石の棒を指でさしてから、さっき注意されたばっかりなのを思い出して慌ててそらして折り曲げる。だけどぼくにとっては大発見で、興奮したまま鼻息荒くおばあちゃんに報告する。
「ここに書いてあるのって、かみさまの名前じゃないの?」
ずっと昔に立てられたものなのか、表面には拭っても取れない汚れがいくつも付いた石の棒。ぼくの胸くらいまでの高さがあるそれは、上から下までいっぱいに文字が彫りこまれていた。漢字やカタカナをいくつも使って書き連ねられた何かの言葉。難しい漢字なんかもあって、なんて書いてあるのかわからないものも多かったけど、少しだけならぼくにも読めるものがあったから。
これでかみさまが見えるのだとはしゃぐぼくに、おばあちゃんは今度は呵々と声を上げて笑った。
「それが正解なんだとしたら、あたしは今頃神様とは随分と長い付き合いになれてただろうねぇ」
言って、ほれと文字の中の数個を広げた手の平で示してみせる。
「『センヤ』様。それが神様の名前だって書いてあるけど、あたしには一度も御姿を見せてくれたことは無いからね」
残念だけどね、と言葉にするのとは裏腹におかしそうな顔をしているおばあちゃんに、ちょっぴりからかわれたのだと気付いたぼくは上がった気持ちを逆に沈めてぶすっと顔を膨らませた。
そんなぼくにおばあちゃんは「ごめんね」とまた頭を撫でて、だけど口元はまだ微笑ましげに緩んでいた。
「『センヤ』様って云うのも一つの呼び名ではあるんだろうけどね。きっと、本当の名前は別にあるのさ」
それを誰も知らないから、誰も神様を見たことがないのだろうと。
そんな風に話を区切って、おばあちゃんは祠の手入れをしていた手を今度はお使いだというキツネたちの方へと移していた。
狐と言えば、とふと思い出したようにおばあちゃんが話を変えた。
「狐の嫁入りは見たことあるかい? ほら、晴れてるのに雨が降ってくる天気のことだよ」
「知ってるけど、見たことない。……あ、そう言えば一回、テレビで見たかも」
ぼくの答えにおばあちゃんは「そうかい」と短く返してから、きっとそれを話したかったのだろう、思い出を懐かしむみたいな顔で話を続けた。
「この辺りじゃ特に起こるのは珍しいけどねぇ。あたしも昔、一度だけ見たことがあってね」
あれはほんにめでたかったねぇ、とおばあちゃんはしみじみ語る。
その話なら、ぼくも何度か聞かされたことがあった。偶然にもちょうどおとうさんとおかあさんが結婚式を挙げた日の事で、印象深くてよく覚えているのだとおかあさんが教えてくれた。
「『狐の嫁入り』なんて名前で言われてるけど、あれはお狐さまが姿を隠す為に天気を変えてるなんて話もあってね。この辺りだと少し違って、神様が結婚式を挙げるところを人間から隠してるんだ、なんて言い伝えもあるんだよ」
「結婚? かみさまが?」
「そう。神様だって結婚して、子供を作って家族を増やす。そういう見方じゃ、人間も神様も変わらないねぇ」
さて──とそこまで話して、おばあちゃんはポンッと膝をたたいてキツネの前から腰を上げた。
「そろそろお参りしようかね」
口は動かしながら、ぼくがキツネとにらめっこをしている間にも、おばあちゃんは手を休ませずに掃除を続けていたらしい。ガサゴソと荷物を探る音に反応してそっちを向けば、おばあちゃんはとっくに片付けまで済ませてしまってお供えものの準備にかかっていた。
「かみさまにお参りって、しなきゃだめなの?」
きびきび動くおばあちゃんとは反対に、ぼくはほんのりとかったるい気持ちを抱きながら移動する。
神社とかに行けばお参りするのが当たり前なのはわかるけど、ぼくはあんまりあの時間が好きじゃない。だってお参りしても何をお祈りすれば良いのかわからないから。ただ目を閉じているだけなのがつまらないから。初詣なら一年のお願い事をするんだって知ってるけど、そうじゃなかったら何なのか。この祠にいるのだという『センヤ』様とやらに、一体全体何を祈れば良いのやら。
「そんな風に言っちゃいけないよ。神様にはお願い事をするだけじゃなくて、ちゃんと感謝の気持ちを伝えることも大切だからね」
そんなぼくを、たしなめるみたいに真面目な声色でおばあちゃんは言う。
「感謝?」
「そう。神様が守ってくれてるから、あたしたちは怪我も病気も大事なくて済んでるのさ。それに、雨を降らせてくれてるのも神様だからね。雨がないと畑は上手く育ってくれないんだから、神様には幾ら感謝したって足りないくらいなんだよ」
「ふうん」
おばあちゃんの説明はわかりやすくはあったけど、ぼくにはあまり実感が持てなくってぼんやりとした返事しかできなかった。
一方のおばあちゃんは、この先こそが本題なのだと言うかのように表情へと更に真剣味を追加している。
「それに、神様は人間が覚えていないとこの世界には存在していられないからね。認知や信仰を失くせばその神様は力も存在も保てない。そうなれば、いくら神様だって消えてしまうだけだからね」
「消えるって、死んじゃうってこと?」
「そうだねぇ。意味は少し違うけど、大まかには間違ってもないかもね」
「忘れられただけで死ぬの? なんで?」
あれこれおばあちゃんは説明してくれたけど、結局はよくわからないままにぼくは首をひねって訊き返す。きっとこの時、ぼくは相当に訝しげな顔をしていたのだろう。おばあちゃんはぼくを見ると顔に笑みを戻して、難しかったねとあやすようにまた頭を撫でた。
「そうだねぇ。ほら、誰も見ないで気にしてもくれなくなると、神様だって淋しいからね。ちゃんとわたしたちは覚えていますって、こうして伝えてるのさ」
いつも守ってくれてありがとうって、感謝の気持ちも一緒にね。
そう言っておばあちゃんは祠へ向けて手を合わせて、目を閉じ何事かを口の中で小さく呟く。それを横目に、納得はまだできないながらも、ぼくも見真似て同じように手を合わせた。
目を閉じたところで何を思い浮かべるべきかは分からないまま。時間を置いて片目だけを薄く開けた霞んだ視界で、おばあちゃんがまだ手を合わせているのを見て慌ててぎゅっと目をつむる。そんなことを何度か繰り返した後に隣からもぞりと動く気配がして、もう一度と覗いてみればやっとおばあちゃんも顔を上げていた。
「それじゃ、そろそろ帰ろうかね」
最後にお供えしていたカステラを片付けてから、おばあちゃんは祠に一礼だけしてさっさとその場を後にする。一通りの手入れとお参りを済ませてしまって、もうこれ以上は留まっていてもすることは無い。お参りにかける時間は何なのやら、帰る時はやけにあっさりと立ち去るおばあちゃんにぼくは出遅れながらもついて行こうと立ち上がって。
ふと、視界の隅へと引っかかった石の棒へと目を向ける。
何やらあれこれと書かれているたくさんの文字。その中に漢字を使って『センヤ』と記されているのだと、おばあちゃんの言う神様の名前。
それを改めて見返して、ぼくはうぅむと唸って首をかしげる。
きっと、古びて掠れてしまっているからなのだろうけど。
もしくは使われている漢字に馴染みが無くて読めないからなのだろうけど。
達筆すぎる筆文字だから、崩れているから、ぼくにはそうと読み取れないだけなのかもしれないけれど。
それでもぼくにはどうしても、それを『センヤ』と読むことは出来なかった。違う言葉に、違う文字に、どうしたって思えて仕方ないから。
「───」
思う文字列を口にしてみて。
やっぱりそうとしか見えないと、ぼくは繰り返し頷くのだった。




