第4節 雨降りの町の逃避行(後)
「それならもし、好きって言ったら。キミは私と逃げてくれるの?」
頼りなく袖を引くようなその声が、言葉が、眼差しが、まるで麻薬のように僕の中を犯していく。何かを嚥下するみたいに独りでに喉がコクリと鳴った。ドクリと騒いだ心臓は、今度こそ誤魔化しを許さない。
嗚呼、そうだ。
あの山で初めて彼女を見た時、僕は確かに見惚れていた。
高鳴る鼓動。集う熱。茹だった頭はまともな思考を放棄する。
間違いない。あの瞬間に胸から湧き出た哀憐にも似た情動のざわめき。まるで閉じていた箱の開くように。裡から溢れて壊すように。其処に芽吹いた感情へと名前を付けるとするならば、それはきっと『一目惚れ』なんて言葉になる筈だ。
「────」
息を吸って、深く吐く。自覚してしまった自分の気持ちを表層へは顕れないよう押し込める。
今は、この感情は関係ない。話の主題は僕ではなくて彼女の気持ち。彼女が何を思ってこんな事を言っているのかが、一番大切なことなんだから。
「だからさ。そういう冗談はあまり軽々しく口にしない方が良いんだってば」
声に震えが乗らないように、平静を装って口にできただけ僕は自分を褒めても良い。
「ふぅん、そっか」
対して彼女は。僕の言葉をどんな風に受け取ったのか。内心の今ひとつ伝わってこない短い呟きを枝に残して、ふっと風に花弁の攫われるように視線が離れる。
斜め下を向いた彼女の顔はまた少し詰まらなさそうで。そんな表情に僕も決まりの悪さを感じて持ち上げた視線の先で、傘の露先から滴る雫を無為に眺めてみたりする。
かける言葉も見付けられずにどうするべきかと困惑する。手持ち無沙汰な手でくしくしと首の後ろを掻いたりして、そんな僕へと、不意にぷっと吹き出す声が聞こえてきた。
まるで僕の反応を面白がるみたいに彼女が笑う。花瓶から水を溢れさせるようにして、ふふっと笑みがこぼれ落ちる。
「キミは本当に優しいんだね」
そう呟いて、僕が彼女の言葉に、態度に、微笑みに、何かを思うよりも寸分早く、彼女は身を翻してもう一度と地面を蹴った。
「あ、ちょっと!」
軽やかな足取りで傘から飛び出していく彼女の背中へ伸ばした手は、届くことなく空を切る。
傘によって切り取られていた空間から外へと出る。世界の薄膜は破かれて二人きりの幻想は呆気なくも終わりを迎える。今まで意識の外へと追いやられていた雑踏が、無遠慮に僕たちの間へと滑り込む。
言いようのない焦りが胸に湧き出て、必死に呼び止めようとした先で、遠く離れて行ってしまいそうに思えた背中はけれど数歩と地を踏んだところで立ち止まった。
ざあと繁吹く雨の音。伸ばした指先に降りかかる雨水の冷たく虚ろな感触。
そんな所にいては濡れるだろうに。初夏と言っても降り続ける雨に熱を奪われた空気は肌寒いだろうに。そんな事は気にもしないで、髪についた水滴を払うみたいにぷるぷると頭を振ってから、彼女は半身だけ僕の方を振り返る。
笑ったまま。花弁のほころぶような笑みを湛えたまま。彼女は僕に問い掛ける。
「ね。キミはさ、恋ってしたことある?」
その問いに、ギクリと心臓が嫌な音を響かせたのは言うまでもないことだろう。
恋。ついさっき自覚したばかりの僕の気持ち。彼女へ向ける焦がれる情動。
まさか見透かされたのかと取り繕った表情の裏側でじっとりと汗を滲ませて、そうじゃないと内心だけで頭を振る。タイミングの悪さからつい結び付けてしまっただけで、今は別に彼女に対する気持ちを問い質されている訳じゃない。彼女が訊いているのは僕の経験。あくまで過去の体験についての質問なのだ。
穿ちすぎるなと自分を諌める。考えを巡らせるのは悪くなくても、変に意識しすぎるのも良くはない。
気付かれないよう密かに深呼吸して、僕もまた彼女に笑みを浮かべて返す。
作り物ではなくて自然と零れていったそれ。こんな時だけど、思い出して懐かしくなってしまったから。遠い遠い昔の記憶。幼い頃に胸に抱いた、今にして思い返せば朧で拙い、僕にとっての『初恋』を。
「あるよ。随分むかしの話しだけど」
「えっ」
僕の答えに、訊いてきた割には想定していない回答だったか、予想外と言わんばかりの声が上がった。
少し揺らいで、「へぇ」と面食らったような顔をして、「ふぅん」と彷徨った視線を脇へと伏せて、「あるんだ」と溜め息みたいな吐息が洩れる。
「別に、そんな大した話じゃないよ。あるってだけで面白みもなければ盛り上がりもしない、短さだけが取り柄の話」
決してそう、大袈裟に取り上げる程のエピソードでもこれはない。変に期待されても拍子抜けと落胆させるしか出来ないし。だから予め釘だけは刺しておきたいと言い足した僕の弁明に、けれど彼女はふるりと首を横へと振った。
「それは良くて……ううん、今のはただ、私が驚いただけだから」
さながら予期せぬ動揺に、自分自身で戸惑うように。
まだ幾分か揺れる声音でそれだけ零して、けれどぱちりと深く瞬きながら上げられた彼女の顔は、既に元の明るさを取り戻していた。
ついさっき。ほんの一瞬瞳に陰った仄暗さはもう、見間違いを疑わせるほど綺麗さっぱり消えている。
「じゃあ折角だし、訊いても良いかな」
そうして彼女は次の問いを向けてくる。好奇心か、或いはそちらが主題でもあったのか。恋を知っていると答えた僕に、彼女は更に一歩と踏み込んでくる。
「恋をするって──誰かのことを好きになるって、どんな事だとキミは思う?」
「どんなこと、か……」
「難しく考えなくて良いよ。何ならキミが恋してどんな風に感じたか、みたいな話でも良いし」
問いの内容を聞いて眉を寄せた僕を見て、答えに窮していると思ったらしく彼女はそう付け加えた。
つまるところ、恋バナめいた話がしたいという事なのだろうか。僕にとってそれがどんな出来事だったのか。どんな意味を僕の中に残しているのか。どんな事を僕は感じて、どんな風に刻み付けて、どんな感慨を以て思い返すか。そういう事をきっと彼女は聞きたいのだろう。
とは云え正直、その補足なら余計に応えられそうにないなと僕は思わず苦笑した。
なにせこれは本当に昔の話なのだ。僕がまだ小学生だった頃。数えれば実に十年以上も遡ることになる回顧録。流れた月日に洗い流されるように記憶は薄れて当時の事はもう殆ど覚えていない。意味だとか感慨だとか言ったって、そんな心のさざ波なんて思い出せない。
「ごめん。悪いんだけど──」
もう忘れてしまったと、そう素直に告白しようとして。
それは単なる言い訳だと、思い留まって口を噤んだ。
「……いや。本当に詰まらない答えになっちゃうけど、特に何を感じたりもしなかったかな」
言いかけた言葉を軌道修正してそう改めて口にする。
中身の無さで言えば大差は無いけど込めた意味はまるで違う。忘れたなんて、そんな筈は無かったのだ。そう思おうとしていたのはもう終わったことだと自分自身で区切りを付けて、諦めて蓋を閉じようとしていたから。忘れたんじゃなくて忘れようとしていたから。二度と戻らない時間を悔いることの無いように、消し去ってしまおうとしていたからだ。
それでも、こうして簡単に思い返せるくらいには拭えてなんていなかったらしい。問われて即答できてしまったのが良い証明だ。きっかけがあればこうも容易く蘇る。彼女の問いを呼び水に、乾こうとしていた沢へと再び清水が流れ込む。
「あの時の僕はさ、色んなことに気付くのが遅すぎたんだ。自分の気持ちも、他人との関わりが自分の理想通りにはいかないことも、自分が何をどのくらい、大切に思っていたのかも。そのせいで何かを残す暇も無く、僕の初恋は始まりもしないで終わってたんだ」
実感も手触りも知ることが無いままに終わりだけをもたらされたかつての恋。それはまるで、乗り込んでいたことにも気付かなかった列車に揺られて、いつの間にか終着駅まで連れて来られていたみたいに。ただ茫然と、自分の居場所すらも分からず立ち尽くすしか無いような感覚だった。
「だから僕は、恋の意味も感傷も何も知らない。恋をするのがどんなことかなんて分からない。どこまでも無味でしかなかったから、僕に言えることなんて、実らない恋の空しさくらいのものなんだ」
初恋はレモンの味とか、甘いだとかほろ苦いとか言うけれど。そう例えるなら、僕の恋は味の抜けたガムみたいなものだった。味に頓着しない内から噛み続けていたガムが、味覚を得た頃にはもう甘味料の溶け切った只の樹脂へと成り下がっていたかのように。
僕は恋をしていながら、ついぞ恋を味わうことは無かったのだ。
「そっか。キミはそれが、心残りなんだ」
僕の話を聞き終えて、彼女は短く息をつきながら僕の心を読み解いた。
「難しいね、恋をするって。それが幸せなことだなんて限らないのに。むしろ理不尽とか報われないこととかの方が多いのに。それでも気持ちは止められないんだから」
本当に、厄介だよね──と噛み締めて。
「もしも次の機会があったなら。その時こそ、ちゃんと味わえると良いね」
そう言ってふわりと笑った彼女に僕は、どんな顔をしていたのだろう。
次の機会が正しく今だと気付くことのない彼女は酷く無防備で、そんなつもりが無いからこそ余計に僕のことを揺さぶってくる。
本当に、恋をするというのは厄介だと。
僕はきつく傘を掴む手を握り籠める。
「……そう言う君は、どうだった?」
これ以上は良くないと、気付けばなんの用意もしないままに自衛心が勝手に口を開けていた。
このまま話を引き摺ればきっと自分は間違える。晒してしまう。留めておけずに、零して、強いて、貶してしまう。そんな予感に駆られて僕は、話の切っ先を彼女の方へと指し向ける。
「君の方こそ。誰かに恋したことはある?」
そうして自然と口を衝いて出た言葉は、彼女が繰り出してきた質問をそのままの形で返していた。
「私?」
少しだけ驚いたように彼女の目が開かれる。まさか、こうも急に自分へ鉢が回ってくるとは思わなかったか。彼女は一呼吸分面食らうように息を呑み──それから細く、口端へ滲ませるようにして吐き出した。
「私か……」
惑っていたのは本当に一瞬だけでその次にはもう動揺の色は微塵だって窺えない。
言葉を迷うように目は逸らされているけれど、それも直ぐに「そうだね」と頷いて戻される。顔が上がる。胸に手を添え、吐いた息の音は雨を縫って微かに届く。
それだけ気を固めねばならないことだったのか。彼女は心做しか平坦な、感情の覗かない声で語り始めた。
「私の恋はね、さっきも言った通り理不尽なもの。望まれないし、許されないし、祝われないし、報われないし……叶わない。それなのにすごく厄介で、想うことだけはどうしたって止められなかった」
ぽつりぽつりと回想から零れ落ちる言葉は雨粒なんかと比べ物にならないくらいの大きさを伴って地面へ落ちる。
両手を広げて空を見上げて、くるりくるりと踊るみたいに彼女は回る。その度に、足がステップを踏む度に、水溜りがぱしゃりと水面を弾けさせた。
「キミは自分の恋を無味だなんて言ってたけど。もしかするとあの頃の私が聞いたら、むしろ羨ましいなんて思ったかもね。だって私の恋は甘いだとか酸っぱいだとか全然ないし。痛くて、切なくて、寂しくて。私が感じていたのはたまらないくらいの悲しさだけ」
そう、言うなれば──
ざあと音を鳴らしながら雨は尚も降っている。傘から飛び出した彼女は吹きっさらしに打たれたままで、せっかく家で風呂に入ったと云うのにまた全身濡れそぼってしまっている。
水を孕んだズボンが服が肌に張り付く。濡れた髪は幾つかの房ごとに束になってくっついて、顔や頬へと絡み付く。肌へと乗った水の珠は大きなものから重力に引かれ輪郭をなぞりながら落ちていき──ふと、額の方から流れてきた一粒の雫がまつ毛へ触れた。
水滴は毛を伝いながら目尻の方へと流れていき、下瞼の縁へと一度溜まって、ふるりと震えてから堪えかねたとばかりに零れ落ちる。
目尻から頬を伝う雫の一粒。その軌跡だけは、他の雨粒からも切り離されるみたいにハッキリと目に焼き付いて。
「私の恋は、涙の味だったから」
最後にそう付け足した静やかな彼女の声に、知らず僕は、はっと息を呑んでいた。
雨に打たれた彼女の泣き顔じみたその表情。それを見詰めて、見惚れて、惹き付けられて。まるで精緻な意匠の施された硝子細工を前にしたかのように触れることはおろか指を向けることすら躊躇われて。
けれど直ぐ、呑んだ息は僕の妄想と共に溜め息の形で吐き出された。
彼女の口許に湛えられた笑みの形。泣き顔みたいに見えたのは所詮は僕のイメージで、笑った彼女の表情は少しも哀しさなんて感じさせはしなかった。
それに気付いた僕は呆れて──それから一拍高鳴ってしまった鼓動を鎮める為にと息を吐いた。
「ほら、あんまり濡れると風邪ひくよ」
彼女の発言に対する感想は、そちらはやっぱり何と言うべきか思い浮かばなかったから。遅すぎるとは思いながらも話題を逸らすように彼女の方へと傘を差し出そうとして。
「あっ」
突然彼女が僕の後ろへと目を向けてそう声を上げるから、まさかと思ってげんなりした。
「まずい、もう追いついてきた。ほら、走るよ!」
「うわっ。だからまた、そんなに引っ張らないで欲しいんだけど!」
嬉しくはないながらも的中してしまった予感の通り、駆け出した彼女に手を引かれて一緒に走る。僕は気付けなかったけれどまた、いつの間にか追手が迫っていたらしい。
と云うかここまで彼女の逃走に何の貢献も出来ていない僕が一緒に逃げる必要なんてあるんだろうか。まさか本気でナイト役を担わせたい訳でもあるまいし。むしろ今は足手まといで、彼女一人の方がまだ逃げやすいんじゃないかとすらも思うのだけど。
そんな事を頭の片隅で考えながら、足は緩めないまま背後の町並みを振り返る。この先も連れ回されるならせめて追手の姿くらいは目に納めておきたいと、僕たちを追ってきているらしい影を探そうとして。
けれど見回した視界の中にはそんな人影は映らなかった。僕たちの他に走ってくる誰かの姿も、目標を発見した追跡者らしい反応を示す誰かの姿も見付けられない。あるとすればすれ違う人たちの視線だけど、それだって突然走り出した僕たちに何事かと驚く眼差しばかり。そこに獲物を見付けた狩人のそれは含まれない。こうも気配すら感じられずに、本当に追手なんているのかと懐疑すら浮かび始めて──そんな時だった。
ふと、此方へと黒い双眸を向ける狐と目があった。八百屋の陰と、それから服屋の軒の上に一匹ずつ。
まさか、と一瞬浮かびかかった考えは頭を振って払い除ける。さっきも同じ理由で自分を律したばかりだろう。考え事には穿ち過ぎも意識のし過ぎも良くはない。
此処は都会から遠く離れた田舎町。山野からもそう隔てられてはいない自然が身近なこの土地で、町中に狐の一匹や二匹が紛れ込んでいることくらい、そう珍しいことでも無いのだから。




