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第3節 雨降りの町の逃避行(前)

「要するに、周りの都合で結婚させられそうになったから逃げてきた、ってことで合ってる?」

「そういう事。今どき許嫁とか閨閥とかさ、時代遅れで流行らないってのに」

 簡潔ながらも漸く彼女が自身の事情を説明してくれたのは、唐突に幕を開けた逃避行に一段落がついた後だった。

 場所は移って村から少し離れた隣町。古めかしい商店街になっている通りを二人、僕たちは一つ傘の下に身を寄せ合いながら歩いていた。

 家から連れ出された時に辛うじて掴んでくることに成功した雨傘一本。僕の戦利品をさも使ってくれと言わんばかりに、あれからも雨は鎮まる気配を見せずに降り続けていた。空と太陽は分厚い雲に覆われ地上も薄暗い影で包まれている。強くなる一方の雨脚に合わせるように、天気雨もまたとうに月並みな雨へと変わっていた。

 悪天候が連れてきた暗がりは心做しか町からも活気を奪っている。平日の昼下がりという時間帯も影響してはいるのだろうか。ただでさえ少ない人影は更に減り、疎らに行き交っている人々も正しく『影』と言わんばかりに足許へと重く暗い雰囲気を引き摺っていた。

「よく分からないけど、複雑な家庭なんだね」

「そう! しきたりだとか決まりだとか事あるごとに押し付けられて、息苦しいなんてものじゃないんだから!」

 まだ共感としては曖昧ながら、彼女の口振りから伝わってきた家庭環境の煩雑さに素直な感想として口にすれば、思いの外に強いリアクションが返って来た。それだけ彼女の中では重大な事柄だったのか。今までのことを一つ一つ思い返していくみたいに指を折って、彼女は積年の不満を吐露していく。

「ああしろこうしろ、あれはダメだこれはするなってそんなのばっかり。友達も恋人も一人だって自分じゃ選べなくて、挙げ句は結婚まで勝手に取り付けてくるなんてさ、ホントに信じられないでしょ」

「それはまた……確かに随分と時代錯誤な」

 思わず言葉に滲み出てしまった煙たげな厭忌。聞いているだけでも息が詰まりそうになる窮屈さに、今度の感想はもう少しだけ同情の気持ちが強く出た。

 この時代に現存していたのかとすら驚く程の古式で厳格なお家柄。古いものは保護すべきだと盲目的にも言われるけど、こうした実例を前にすれば断捨離もやはり大切なのだと改めて思い至らされる。

 少なくとも、相克する伝統と価値観を同じ器へと混ぜ合わせたところで互いに反発しあうだけだろう。それが感情へと折り合いの付け難い人間社会ならば尚の事。水と油であれば分離するだけで済むものを、いがみ合えば板挟みに遭う誰かが一身に害を受けるだけなのだから。

「別に結婚そのものが嫌だなんて言わないよ。むしろ憧れる気持ちだってあるくらいだし。だけどさ……だけど、やっぱり私はそういうの、ちゃんと自分が好きになった人としたいから」

 理想というか、運命の人、みたいなの──そう語る彼女の思想は、言葉面だけを捉えるならば拙い夢見がちなばかりの憧憬だ。まるで童話の中にでも綴られるのに似た幼稚なロマンス。けれど恥じらうこともてらうことも無く前を向いて言い放たれたそれはきっと、彼女にとっては一つの譲れない境界だったのだろう。

 決して彼女の願望は軽侮も異端視もされるようなものじゃない。二昔くらい前の硬派なお国柄ならいざ知らず、今は個々人の自由と自主性が尊重される柔和な時代だ。当然ながら人生を添い遂げるパートナーを選ぶ権利だって当人たちだけのものであり、周囲が一方的に簒奪して良いものじゃない。誰も彼も当たり前すぎて敢えて口に出すことの無いだけで、胸の裡の何処かには彼女と同じ願いを抱いている人だって大勢いる。

 だから彼女にとって本当の意味で不幸だったのは、現代の感性に理解を示してくれるマジョリティが周囲には一人として居なかったことであり。

 同時にそんな環境下でただ一人、『普通』に育ってしまったことなのだ。

「それで。僕にさらってだなんて言ったのは、逃げる為の協力者が欲しかったから?」

「そうなるかな。ほら、悪者からお姫様が逃げるには、ナイトの助けは必須でしょ」

「そんな重要な役どころ、見ず知らずの相手に押し付けるのは流石にどうかと思うけどな……」

 はぁと嘆息。

 すぐ横を、買い物帰りらしく長ネギの覗く袋を肩から提げたおばさんがすれ違っていくのを流し見ながら、僕は彼女の言い分にほとほと呆れさせられる。

「もし良からぬことにでもなってたらどうするつもりだったのさ。あんな誘い方して、相手が相手なら君に変なことしようって考えてたかもしれないのに」

 ついさっきは普通の感性だと評したばかりではあるけれど、やはり彼女も相当な箱入りであることには違いないらしかった。

 幾ら何でもナイトは無い。そんな騎士道精神なんて利他主義の塊みたいなものは中世へと置き去りにされた遺物に過ぎず、時間に追われて生き急ぐ現代人に無償で他者へと尽くす心の余裕を求めることは根本からの間違いなのだ。むしろそんなお眼鏡に適う理想像がいたとして、そいつは十中八九で騎士の鎧を被った野党の類に違いあるまい。

 だから、素性も知れない赤の他人なんかにあんな、色々と勘違いさせてしまうような事を言うべきではないのだと。少し先にある民家の軒先で傘を畳んでいるおじいさんへも気をやりながら、僕は世間知らずなお嬢様に対する忠言のつもりで言ったのだけど。

「良からぬこと……?」

 僕の二の腕に触れていた彼女の肩がもぞりと動く。

 相合い傘を差す下で、彼女が濡れないようにと気を付けるならこれ以上は離れることの出来ない距離。半身が密着して、もうほんの少しでも顔を寄せれば息と息が触れ合ってしまいかねない微かな空隙。

 キョトンと傾げられた首が廻る。ぼんやりとした表情の顔が向く。少しだけ見開かれた、心の底から浮かび上がった不思議を乗せた目が僕を向く。

「するの? ヘンなこと」

 まるで今の今まで思いもしていなかった可能性を急に突き付けられたと言わんばかりに、驚きと訝りの多分に混じった声だった。

 思わず周囲へ巡らせていた目を彼女に戻せば、鏡面のように僕を映す無垢な瞳とかち合った。

 彼女の瞳の中に住まう──琥珀の中に閉じ込められた僕という存在の人間像とお互い真っ直ぐ見詰め合う。何処で形成されたか現実の僕には不釣り合いな理想と信頼。普段だったら勝手な妄想と一蹴するところなのだけど、こんなにも純粋な眼差しで問い返されてしまっては、何も間違ったことなど言ってはいない筈の僕の方が窮してしまう。

 うっ、と喉が詰まって小さく呻いた。

「……僕はしないけどさ。もう少しくらい危機感は持った方が良いってこと」

 どうにかそれだけ答えてから、堪え切れなくなって絡まっていた視線を切る。見せ付けられた高嶺の理想に、手を伸ばしたって届きそうもない自分の低俗さを思い知らされて気まずさから目を逸らす。

「そっか。それなら安心だ」

 そんな僕の意気地なしを、まるで揶揄うように彼女は笑った。僕の心配は何一つとして伝わっていないみたいな顔をして、可笑しそうに、意味を取り違えたまま的外れな安寧に浸っている。

 そんな彼女に僕はむっと眉根を寄せて──ふと、後ろから駆け足で僕たちを追い越していった男性に驚いてそちらの方に意識を向けた。

 ここで改めて言わせてもらうと、僕はまだ彼女のことを詳しく知らない。多少の事情や逃避行の理由なら聞いてはいるけどそれらはあくまで表層だ。踏み込んだ部分まで問い直すには余裕が足りずに、僕は未だにどんな人々が彼女を追いかけてきているのかも分かっていない。

 追手の特徴も人数も知らないで、僕としては何にどれだけ意識を割けば良いのかを測りかねて気が滅入る。その上で更に好ましくないのはこの天候だ。降りしきる雨の中で道を行き交う人々は皆、僕たち同様に傘の中へと身をうずめている。視界を遮る傘と雨霧。人々の顔も視線も表情すらも傘の下へと隠されて、相合い傘なんてしている僕たちが目立つ反面、僕にとっては数少ない情報源を機能できなくしてしまっている。

 見える筈のものが見えないというのは存外に神経を擦り減らしてくるものだ。本来は気に留める必要の無いものを、脇へと流すだけだったものを一つ一つ拾い上げていれば尚更に。そのもどかしさは癒えることの無いままにじりじりと心を削り取る。

 人々の生活が根ざした商店街にはどれだけ減ろうと決して人通りが途絶えることは無い。だから僕は何処へ注力すべきかも定まらない警戒を常に全周へと張り巡らせておかねばならず。視界の悪さから来る不快感といつ何時肩を叩いて呼び留められるかと慄く緊張感とに、周囲の人間に対してはかなり過敏になっていて。

「だって」

 だからこの時、僕はつい聞き漏らしてしまっていた。

 ポツリと彼女が洩らした呟きを。安心だと、彼女が笑った本当の意味を。

「私を見付けてくれるのは、この世界でキミだけなんだから」

 仮に聞こえていたとして。この逃避行が行き着く未来が変わるだなんて、そんな事も無いのだけど。

「ごめん。いま何か言った?」

「ううん、何でもない。それよりさ、ふと思ったんだけど」

 言いながら、彼女は急に僕の方へと思い切り身を寄せてきた。相合い傘には最低限必要だった距離感よりも更に内側。傘を持っているせいで逃げられない僕の腕へと抱きつくようにして、彼女はにまっと悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 肘の辺りに押し付けられる柔い温もり。さらりと靡いた髪から漂う淡い香り。触れ合う吐息に間近で見据える朽葉色。

 思いがけない不意打ちに、うわっと声を洩らしながらもドクリと鼓動が高鳴ってしまったのは、不可抗力だと弁明したい。

「なに、急に」

「なんかさ。こうしてるとデートみたいじゃない?」

「デートって……そんな暢気に言ってて良いの? 追われてるくせに」

「良いの良いの。楽しいことは楽しまないと。勿体ないでしょ」

 現状を楽しいと捉えているならそれはそれで、かなり楽天的に過ぎると思うのだけど。

 そんな気持ちを込めてじとっと向けた僕の視線は意にも介さず、僕とは正反対に周りを気にすらしない彼女は更に身を詰め、にんまりと笑みを深めて下から覗き込むように僕のことを見上げてきた。

「それとも。駆け落ちみたい、なんて言った方がキミの好みだったりした?」

「好みとか、そういう話じゃないから」

 言葉選びとしては、確かに的を射ているとは思わないでもないけれど。

 そう喩えるには僕たちの関係は浅薄に過ぎる。出会ってからまだ数時間と経っていないことを思えば進展の具合としてはある意味深いのかもしれないけれど、少なくともこうして腕を組んでくっつき合える間柄にまでなった覚えはない。

「そういうのはちゃんと、好きになった人に言いなよ」

 理想とか運命とか、ロマンス宜しい恋愛に憧れているなら尚の事。こんな所で出会ったばかりの男に粉をかけるくらいなら、ちゃんとした相手が見付かった時の為に取っておいた方が良い。

 行為だけじゃなく言葉の一つ取ってもそう。大切にした上で本当の使い時を迎えた方が、喜びも感慨もひとしおなのだろうから。

 だからそんな風に安売りすべきじゃないと、傘を持っているのとは反対の手で抱きついている彼女を引き剥がす。傘の外には出ないように、だけど決して、関係性を違えることも無い程度に。僕らがあるべき適切な距離感へと身を戻す。

 ……そうしなければきっと直ぐ、僕の方が誤魔化しを効かせられなくなっていただろうから。

「むぅ」

 そんな態度が、彼女にとっては些か気に入らなかったのか。表面的には動じていない僕の様子が不満だったのだろう。彼女はつまらなさそうに頬を膨れさせて、それからたんっと地面を蹴った。

 髪がなびく。亜麻色をした、艷やかな麻織物を思わせる髪がふわりと浮いて、その上で一本一本ほぐれるように揺れていく。

 彼女の身体が僕の前へと躍り出る。くるりと回って、僕の進路を阻むようにして立ち塞がる。

 自然、足が止まった。

 正面に立つ彼女と向かい合う。僕を見据える琥珀色は、何か一種の、縋るような輝きを宿しているようにも見えた。

「それなら」

 雨が降る中。無数の雨粒が地面に傘に屋根瓦に、落ちて弾けるロンドの中。全ての音がくぐもって聞こえる湿度の高い空気の中で彼女の声だけは不思議と鮮明に僕の耳へと届けられる。

 道の真ん中で立ち止まった僕たちに、けれど邪険に突き刺す視線は無い。これが都会の喧騒の渦中だったりしたならばいざ知らず。投げ込まれた岩に一点だけ堰き止められた川の流れさながらに、煩わしげな視線を伴う人の波が左右を流れていったことだろうけど。

 だけど道をすし詰めに出来る程も人の居ない地方都市ではそんな光景は縁遠い。あったにしても不審や好奇に由来する眼差しの一つや二つ程度のものだ。都市圏と比べて近隣との距離感が狭い田舎にありがちの過干渉気味な他者への関心。それも今は雨やら傘やらが遮ってくれるから、結果として僕の意識に上ってくるのは眼の前にあるたった一つの双眸だけ。

 周りには何も視えないで。

 何も誰も感じること無く隔絶されて。

 たった一本の傘がくるむ小さな空間。僕と彼女の二人だけしか存在し得ない世界の中で、僕は彼女から目を離すことが出来ずにいる。

 さっきは出来た筈なのに。同じように絡み付く視線を振り切れば良いだけのことなのに。

 琥珀に沈む自分の姿は今は見ないで、この時の僕はただ一心に、彼女のことだけを見詰めていた。

「それならもし、好きって言ったら。キミは私と逃げてくれるの?」

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