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別れの記憶

『サチ』と呼んで欲しいのだと。名前を訊くと、女の子は少し迷った末にそう言った。


 その年の夏はいつにもなく雨の多い季節だった。

 窓の外に見える空はくもってばかり。しとしとと地面に降り注いでくる雨の音もすっかり聞き飽きてしまったし、じめっと重たく暗い空気も幾らか気持ちを沈み込ませる。

 せっかくおばあちゃんの家に来ているのに。せっかく年に一度のお泊まりなのに。

 塀と垣根を一枚抜けたすぐ外にはいくつもの遊び場が待っているのに、自由が許されるのは家の中という狭い空間。こんなのってない。あんまりだと。ずっと楽しみにしてきた反動も相まって、普段だったらきっと行き場の無い苛立ちの矛先を誰かに求めて駄々でもこねていたに違いない。不満いっぱいにわめき立てて、せめて家の中でだけでも楽しもうとかそういうことは思いもしないで限りある時間をふいにして。帰る日になっても未練たらたらで柱にしがみついてでも留まろうとしたかもしれない。

 けれど今年のぼくはそんな〝いつも〟とは少し違った。

 朝ごはんを味わいもせずにお腹の中につめ込んで、ごちそうさまと言うが早いか席を立っては部屋に戻って身支度する。できる限り急いでかっちかっちと壁で音を鳴らしている時計の針と競走して、ドタバタと部屋から廊下へと走り抜ける勢いそのまま、ゆるめることなく爪先にサンダルを引っかけて外へと飛び出す。その途中、電車の時間! とお母さんの声が背中に飛んで、それにわかってる! と反射で叫んでぼくは後ろ手に扉を閉める。ありあまる勢いで叩き付けられた玄関の引き戸はパシャンと高い音を響かせてから反動で半開きにまで戻ったところで放っておかれる。

 そんなことにも気が付かないで、というよりは気にもしないで、ぼくは大急ぎで道を走る。目指す先はぼくが初めてあの女の子を見つけた水車小屋。別に言葉をかわして決めた訳ではなかったけれど、自然とぼくたちはあそこで待ち合わせるようになっていた。

 しとしとと降る、強くはないけど弱いということもない雨の中。傘さえあれば特に不都合なく出歩ける程度のそこを、傘はさしていながらも意味をなさなくなるくらいびしょ濡れになりながらぼくは走った。

 別に待ち合わせの時間に遅れそうだったとかじゃない。なんならぼくらは時間も場所もはっきり決めずに集まるから、〝遅れる〟なんてことはそもそも無い。それでもぼくは純粋に、少しでも早くあの女の子に会いたいからと、少しでも長くいっしょにいられる時間を伸ばしたくて。そんな為に必死になって待ち合わせの場所へと急ぐのだ。

 女の子と出会ってからの一週間。昨日も一昨日もそのまた前もずっといっしょに遊んでいたのに、それでもぼくは飽き足らないで今日も早くと走っている。

 会いたい。会いたい。はやく会いたい。釣り針に引っかけられて引かれるみたいに心臓が前へ前へとつんのめる。逸って高鳴ってたまらなくて。

 そう感じている自分の気持ちの正体には、この時の僕はまだ気付けないまま。

 口に入った雨粒を飲み込みながら。ドキドキと弾む鼓動に急かされながら。ぬかるむあぜ道に足を取られそうになるのはすんでのところで堪えながら。走って急いで駆けてそして──

「──『サチ』!」

 道の向こうに見えてきた小屋の陰に、いつも先に待っている彼女の姿を見つけた時。『サチ』もまたぼくに気づいて手を振ってくれるのを見た時に。

 ぼくはいつも不思議なくらい、たまらなく嬉しく感じるのだ。


 言わずもがな、季節というのは巡るものだ。秋が過ぎれば冬が来る。冬が過ぎれば春が来る。春が過ぎれば夏が来る。そして夏もまた時間と共に過ぎ去っていくのが当然で、こうして四季は終わることなく廻り続ける。

 その摂理に例外が差し挟まれる余地など無い。どれだけ楽しい時間だろうと有限で、どれだけ惜しんだところで戻らない。人間が定めたのでなく自然が行き着いた在り方に異を唱えることはヒトには出来ない。

 そうしてあの夏も終わりを迎えた。僕にとっては特別なものだったあの季節もまた等しく覆水と流れていく。

 祖母の家へ泊まっているのは盆休みを合わせて一週間。これが毎年変わらない当たり前。その期間が過ぎれば僕たちはここを離れて自分の家に帰らないといけなくなる。

 そして当たり前の流れとして。ここで出会った女の子とも、この時間が終わればお別れをしないといけないのだった。


「そっか、もう帰っちゃうんだ」

 いつだって泣きたくなるくらいに胸を裂かれる別れをぼくは切り出して、返す『サチ』は何処か遠くの星が爆発するのを眺めるみたいな、現実味を感じ取れないとでも言いたげな顔をしていた。

 それは内面に宿る感情を読みとるのが難しくて、だけどぼくの方もそれを気にとめられないくらいには気持ちがいっぱいに詰まっていたから。

「休みの時間って、何でこんなに短いんだろ」

「……時間。そっか、そうだよね。気にしなきゃなんだった。みんな足りてないもんね」

『サチ』がもらしたひとりごとは、ぼくには意味がわからなかったけど。それでも声ににじんだ気持ちなら、ぼくが感じてるのと同じな気がした。

「さみしくなるね……」

 だからぼくは、少しずつ目元をしょんぼりとさせ始めていた『サチ』にたまらず言ったのだ。

「来年も!」

 いきなり叫んで立ち上がったぼくに、『サチ』はびっくりして目を丸くさせていた。

「来年も来るから。その時また、いっしょに遊ぼう」

 ぼくはそう身を乗り出すみたいにしながら熱っぽく訴えて、『サチ』はしばらく面食らったみたいに黙りこくって。

 それからおそるおそると、石橋の落ちないのを念入りに確かめるみたいな調子で口を開く。

「…………いいの?」

「いいも何も、ぼくだって会いたいから。もっとしたかったこと、いっぱいあるし」

『サチ』といられて嬉しかったのは本当だけど、満足したかと言えばそれは違う。今年はずっと雨が降ってたから出来ることはどうしたって少なかったし。

『サチ』と話したいことはもっとあった。

『サチ』と行きたいところはもっとあった。

『サチ』としたいことはもっとあった。

 今年だけじゃ足りないくらい。来年を使っても晴れてても、きっと幾ら時間があってもやり切るなんて出来ないくらいにたくさんあるから。

 だから約束、と言ったぼくに『サチ』はようやく、ゆっくりと顔に笑顔をにじませた。

「きっと来てね」と『サチ』は言って。

「絶対来るから」とぼくは答えて。

 二人で「またね」と指切りしてから、ぼくは『サチ』とさよならをした。


 それからの一年は取り立てて特別なことの無い日々だった。

 いや、この言い方には些か語弊があるだろうか。決して何も無かった訳ではない。むしろ起伏は幾つもあって、そういう何某かの出来事というのは普通に過ごしてさえいえば嫌でも日々へと付き纏ってくるものなのだ。

 運動会とか。遠足とか。テストの点数が良かっただとか悪かったとか。

 その度に楽しいも悔しいも色々あって、けれど僕にはそんなどれもが霞んで見えた。まるで強すぎる光に眩んだみたいに。遥かに強い衝撃に神経が麻痺してしまったかのように。眼の前の出来事に気は向けながらも、心の奥ではいつも夏の景色だけを想っていたから。それらの日々も出来事も、〝僕にとっては〟特別輝いて見えることが無かったという話なのだった。

 味気がなくて取るに足らない砂を噛むような日常が一年続いて。それを気の抜けたままに何となくで消費して、秋が流れて冬が過ぎて春も飛ばして、また新しい夏が巡ってきて。

 夏休みになっておばあちゃんの家へ泊まりに来たぼくは、そうして一年越しに待ち合わせ場所へと足を運んだのだった。

『サチ』と出逢ったあの場所に。『サチ』と出逢ったのと同じ季節に。待ちに待った再開の瞬間を今か今かと心待ちにして、ぼくは水車小屋の陰で腰を下ろして『サチ』が現れるのを待っていた。

 結論から言うと、『サチ』が待ち合わせに姿を見せることは無かった。

 一日待って、おかしいなと首をひねった。

 二日待って、そういえば日付がいつだと言っていなかったなと思い出した。

 三日待って、そういうものかとざわつく胸を誤魔化した。

 四日待って、焦りか苛立ちかわからないけど心が火にあぶられるみたいな気持ちになった。

 五日待って、六日待って、一週間が何もないまま過ぎ去って、ぼくはぽっかり穴が空いたみたいな胸をかかえておばあちゃんの家を後にした。

 帰り際、おばあちゃんに『サチ』という名前の女の子のことを訊いてみたけど、知らない名前だと首を横へと振っていた。

 その次の年も、そのまた次の年も、僕は『サチ』には会えなかった。引っ越したのか、『サチ』も僕みたく余所から来ていただけだったのか。それともあれは、ほんの一夏の夢だったのか。どうにかこうにか理由をこじつけ、僕がもう『サチ』には会えないものだと諦めた──諦めざるを得なくなった頃。夏の風を浴びて一人虚しく帰り道を歩きながら、ふと、そうだったのかと得心した。

 どうして僕がこんなにも、『サチ』に会いたいと思っていたのか。どうしてあの七日間だけの短い日々が何より輝いて見えたのか。それは答えを得てみれば簡単なこと。単純で明快な心の動き。

 要するに、僕は恋をしていたらしいと。

 心の虚を吹き抜けていく風のひゅうと鳴った淋しい響きに、僕は手遅れの初恋を知るのだった。

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