表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

第2節 雨降りの屋敷の中で

「……はぁ」

 祖母の家の居間の中。敷き詰められた畳の上に一人座って、天井から吊り下げられている電灯を見上げながら、僕は深々と溜め息を吐き出した。

「これはまた」

 どうしたものかと途方に暮れて、声が霧散すれば再び耳へと滑り込んでくる水音を聞きながら、どうしてこんな事になったのかとぼんやり思う。

 外から忍び込んでくる雨音とはまた違う、数枚壁を隔てた先から伝わってくるシャワーの音。

 既に何度か語った通り、この近隣には住んでいる人も通りかかる人ももう居ない。だから空気を支配しているのは話し声も物音も差し挟まれない深閑で、この天候ではそろそろ姿を見せ始めていた蝉も鳴かずに、静かだからこそその中で響く音というのは余計に意識させられるものなのだった。

 あの後。

 山で出会った少女に謎のお願いをされた後、とりあえずと僕は彼女を連れて祖母の家まで戻ってきた。元々帰ろうとしていたところだったし、何より全身泥だらけの彼女をそのままにはしておけない。話も何も汚れを落として身体を温めてからだと風呂に通して、上がるのを待っているのが現状という訳だ。

 風呂場から響いてくるシャワーの音は未だ途切れず少女が出てくる気配は無い。そのことを再認しながら、僕は山で聞いた少女の言葉を思い出していた。

『さらってほしい』と、そんな言葉で求められた願いに対する返答は出来ていない。風呂を言い訳に後へと回した回答は今もまだ僕の中ですら出せないでいる。彼女の事情は知らないまま、それでも明らかな面倒事の予感の中で、是と否の二者択一は一度進めば引き返せないと分かるからこそ選びかねる。

 はぁ、と行き詰まった葛藤にもう何度目とも知れない吐息が再び洩れる。傾いだ頭へ伴うように視線も揺れて、ふと、壁際で異彩を放つ白色へと引き寄せられた。

 彼女が身に着けていた白無垢は、今はこうして衣桁に掛けて干してある。彼女と同じく泥まみれになってしまった憐れな白布。和服の洗い方なんて知らないし、けれども泥汚れは直ぐに水洗いすべきでないなんて言うのも聞き齧ったことはあったから。言い換えれば放置になってしまうもこれ以上はしようの無い処置なのだった。

 とは云えどうしたところで、ここまで染み込んでしまった汚れを落とすことも出来そうには無いと思うのだけど。

 白一色に薄い色味で菊や鶴やの描かれていた打掛は美しいものだったのに。斑模様となってしまったそれはもう、公の儀礼には使えないだろう。純白を汚す土色の染み。婚家の色に染まる意思と覚悟の象徴であるとされる白無垢に、べっとりと付けられてしまった泥の色。それは純真無垢な白色を、さながら何かに穢されてしまう前に自分色へと染め上げてしまおうと目論むような。そんな意思の表れなのだと勘繰ってしまうのは果たして穿ち過ぎなのだろうか。

 だとするならば。

『私のこと、さらってほしいの』

 そんな願いをあんな顔で口にした、彼女の抱く真意というのは──

「お風呂ありがと。うん、さっぱりしたー」

 あれこれと巡らせていた考えが一つ所へ落ち着こうとして、寸前に背後から投げ掛けられた声に思考は暗幕を下ろされた。

 カラリと鳴った襖の音で我に返る。振り向けば、ちょうど懊悩の源泉たる件の少女が板張りの廊下から居間の中へと入ってくるところだった。

 少女の足が敷居を跨ぐ。思索に耽っていたせいで気付かなかったか、いつの間にやらシャワーの音は止んでいた。

「ごめんね、わざわざ沸かしてもらっちゃって」

「いや、それは全然気にしないで。というかむしろ、着替えがそんなのしか無くて此方こそ申し訳ない限りなんだけど……」

「ううん、貸してもらえて助かっちゃった。あんなに濡れたのそのまま着てる訳にもいかなかったし」

 言いながら、少女は両腕を広げるようにして自分の姿へ目を落とす。

 彼女の今の格好は、裾を折って丈を調節した黒のスキニーパンツに緩い着こなしになっている半袖シャツ。それに七分袖だったのが長袖へと変わったアウターの薄手のカーディガン。

 見るからにサイズの合っていないそれら一式は言うまでもなく……というか声を大にしては言いたくないけど、僕から貸した服装だった。せめて補足だけはしておくけれど、あくまで予備として持ってきた分で最後に洗濯してから袖はまだ通していない。

 他に用意できるものが無かったとは云え、自分の衣服を異性に着せるというのは言い知れない抵抗と背徳感に苛まれるものだ。じくりと嫌な拍動を訴える心臓を胸の上から軽く押さえる。仕方ないでは折り合いの付けられない感情に、僕は努めて意識しないよう心掛けながら平静を取り戻すべく密やかに深く息を吐き出した。

「着心地は悪かったりしない? 多分サイズは大きかったと思うんだけど」

「うん。ぶかっとはしてるけど、このくらいなら大丈夫かな。そんなに着てても不自由ないし」

 気を紛らわす目的で訪ねた僕の問いに彼女は幾らか身体を捻りながらそう答え、それから用意してあった座布団へと腰を下ろした。それを見て、僕もまた居住まいを正して彼女と正面から向かい合う。

 彼女に訊きたいことなら幾らでもある。どうして住人も居ないこんな村に来ていたのか。どうして山の上に登っていたのか。どうしてあんな格好をしていたのか。何処から来たのか。何者なのか。どうして行きずりでしかない僕なんかに、あんな願いを口にしたのか。

 それらの疑問を晴らさない限りは話は先に進まない。願いを聞くとか聞かないとか、それ以前にこれ以上この少女と関わりをもつべきかという問題だ。仮に本当に手に負えない程の厄介事を抱えていた場合、成り行き任せで首を突っ込むべきじゃない。事が事なら踏み込む先も深度も考えもの。興味本位で他人の事情に介入するのは勇敢でも親切でもなく厭うべき行いだ。

 だから、ちゃんと一つ一つ問い直して行かなければならないのに。

 そう、分かっていた筈なのに。

「────」

 喉がひりつく。乾いた咽頭が言葉を貼り付かせて声が出ない。舌の根っこが痺れるように、声の鋳型を取り落とす。

 改めて対面した彼女を見ていると、また記憶の奥底を引っ掻かれるような感覚がした。懐かしさに似た、忘れている何かを思い出せない、気付けていない何かの影だけがチラつくような、何とも言えないもどかしさ。それが胸を満たした瞬間、僕の口は理性を振り切って独りでに動き出していた。

「君の名前、聞いても良いかな」

 そうして口を衝いた質問は、用意していた何れとも丸きり違うものだった。

 訊かなきゃいけなかったどれでもなくて、だけど初対面の相手に対する質問としては他の何より正しいそれ。自然と唇から零れた問いを僕自身も他人事みたいに聞いている。

 名前。彼女という存在の外縁を象る記号。無意識に出た問い掛けはきっと僕の奥深くから滲んだものだ。だとすれば。そんなものを求めて僕は、一体何を確かめようとしているのか。

「名前?」

 ほんの少し驚くように、少女の声が僕と同じ言葉を紡いだ。意表に出たと気抜けた心を代弁するようにコトリと首が傾げられる。何かを追いかけるように目が宙を彷徨って、斜め上を向いた先で果たして得るものがあったのか。視線の遊泳は其処で止まってああと得心するような吐息が洩れた。

 ふっと笑みが深まる。弧を描く唇にそっと一本立てた指が添えられる。カランと鈴の音色を鳴らすようにして、少女の舌が言葉を造る。

「ひみつ」

 たった三音しか無いそれを、しかし僕が認識するのは鼓膜が奮えてからたっぷり三度と瞬いた後だった。

「え」

 思いがけない返答に意味を解した後にすらも再び固まる。まさか答えてすらくれないものとは思いもしなくて、想定外に揺れる心は硬直を解けずに痺れたまま。ただ、穿たれた空虚な風穴だけが、鼓膜の内側で淋しげな風音を響かせていた。

「ごめん、それだけは私の口から言えないの。他言しないって決まりだから、もし破ったらしかられちゃう」

「……そう、なんだ」

 見兼ねたように言い添えられた理由の補足に、わだかまったまま凝っていた感情が行き場を与えられて漸く褪める。詰まった喉が声を通して呼吸の往来を再開させる。

 暴く為の問いから裏目に、更に重ねられてしまった謎という名の厚い暗幕。言葉の上では謝りながらも悪戯めいた色を頬へと引いたままの彼女の笑み。それらの理不尽を前へと置いて、僕は再三の溜め息混じりに苦々しさを、気まずさやら気恥ずかしさやらと一緒くたに吐き出した。

 名前なんて、特段この場で明らかにする必要も無かったものだ。気にすべきことは幾らだって他にある。優先順位を付けるとすれば下位に回るのは明白で、知らなくたってさした不都合は起きなくて、不満には思っても暗愁を抱く道理もないだろうに。

 ……それなのに。

 なのに何故だか。チクリと針の刺さるような感覚が、手の届かない胸の奥で小さく疼いた。

「他のことなら良いけどね。訊いてくれれば何だって、キミの知りたがってる事は答えてあげられる筈だから」

「そっか……。うん、分かった。それじゃお言葉に甘えて本題から」

 相も変わらず謎めいた彼女の物言いには、もう惑わされてなるものかと心を固めて。

 そこまで言うなら何もかもを詳らかにしてやるとまで息巻く程の勢いで。

「『さらってほしい』なんて言ってたの、あれはどういう──」

「あっ」

 その上で折られた話の腰には、如何せん辟易してしまうのも無理は無いと思いたい。

「まず、見付かった」

「見付かったって何に……ってうわっ!?」

「良いから早く! 今はとにかく逃げるのが先!」

 逃げるだなんて、一体何から逃げると言うのか。

 そんな疑問は突然立ち上がった彼女に腕を引かれた拍子に落っことした。

 彼女は僕を連れ立ち慌てた様子で居間を出ていく。そのまま玄関を目指す彼女に引き摺られながら、僕は何度も転びそうになりながらどうにか体勢を整えて少女に続いて廊下を走る。

 気付かないまま遷移していたらしい状況に、僕は完全に置いてけぼりを食らっている。疑問は何一つとして明らかにされないまま、十二単よろしく何重にも謎を纏った少女は厚着のままで、僕の重い気もどこ吹く風と軽やかな足取りで駆けて行く。

 そう焦らなくとも誰が追いかけてくると言うのだろう。

 古風ゆかしい日本家屋である祖母の家は、玄関から門までの間に生け垣と塀とで囲まれた広い庭を内包している。居間からでも縁側を挟んで一望できる雅致ある空間。少女が飛び出す直前にちらちらと気を向けていた其処。玉砂利が敷かれて庭木やら飛び石やらが配置されている前庭は、家の内側と互いに開けたような造りになっていて、だから仮に侵入者でもあろうものなら直ぐに知れる。その上身を隠せる程の物陰も少ないから彼女が気付いて僕に気付けないなんて事は無い筈で、そして居間から連れ出される瞬間に見た限りでは庭に人影なんて見えなかった。

 だから本当に、僕には彼女が逃げ出した理由が分からない。現実に追手は居ない。僕たちを追い縋る何者かなんて存在しない。

 それこそ。

 きっと生け垣の小さな隙間からでも忍び込んでいたのだろう。走っていく僕たちを見詰めていたのは、庭の片隅で木陰に身を潜めるように佇んでいた、狐の一匹くらいのものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ