出会いの記憶
思えばあの日も、雨が降っていたんだったかと思い出す。
道際へとしゃがみ込んで泣いているその女の子を見つけたのは、やたらとセミがうるさいとある夏の日のことだった。
小学三年生の夏休み。毎年恒例のお泊まりで訪れたおばあちゃんの家で、お母さんたちが楽しそうに話し込んでいたからと一人で遊びに出かけた昼下り。アスファルトに覆われていないおかげで熱気の照り返しの幾らか弱い地面の上を歩きながら何処に行こうかと思い悩んで、けれど不意に降り始めた雨に驚いて慌てて家への道を走り出そうかとした、それは間際の出来事だった。
古くてもう誰にも使われていない水車小屋。名前に反して面する川には水車はなくて、朽ちたそれが入り口の横合いに立てかけてあるだけのおんぼろ小屋。壊しも建て直しもされずに放っておかれた、この辺りではさして珍しいものでもない古びたそれの建つ脇に。
例えるなら、道沿いに置かれたお地蔵さんみたいに。決して通行を妨げることはなく、だけど確かな存在感を持ちながら。
土へ直接おしりをつけて。三角座りで、両腕で膝を抱き込むようにして縮こまって。腕へ額をくっつける形で閉じこもって。ひっくひっくと足の間から声を漏らして、その女の子は一人ぼっちで泣いていた。
一度、確かめるように周りを見回す。この辺りは家も住んでいる人も少ないけれど、決して道行く人がいなんてことはない。今だって向かいからはおじいさんが歩いて来ているし、後ろからも立ち止まった僕を追い越す形で作業着を着たおじさんが通り過ぎていく。
だけどおじいさんもおじさんも、まったく女の子の方へは見向きもしない。
まるで見えていないかのように。聞こえていないかのように。そこには誰も、いないかのように。皆みんな女の子を無視して過ぎ去っていく。
今にして思えば眉をしかめる光景でもあったけど、この時の僕は大して疑問には思わなかった。みぃんみぃんとけたたましく泣き喚くセミの声。きっとこの、いつになくやかましいセミの鳴き声にかき消されて。もしくは予報にも無かった雨にびっくりしていて、みんなは気づいていないだけなんだろうと一人勝手に納得して。
「ねえ、何で泣いてるの?」
声をかけた途端、ビクリと女の子の肩が跳ねた。じいっとしばらく眺めていた僕に対して、女の子は僕に気づいてはいなかったらしい。驚いたせいか強張った身体で腕を掴む手に力を込めて、泣き声は引っ込んでも代わりに喉の奥からしゃくり上げるような嗚咽がこぼれる。
「どこか痛いの? それとも迷子?」
固まったまま動こうとしない女の子に僕から言葉を重ねれば、ようやく女の子に動きが生じた。
おそるおそるとばかりに顔が上がる。前髪の隙間から覗くようにして大きな瞳がこちらを窺う。その、涙に潤むせいでより一層の輝きを帯びた宝石と、真っ正面から視線がかち合う。
ほっと胸をなで下ろす。
やっと見れた女の子の顔だとか。珍しい色彩を宿した瞳だとか。普通だったら一番に目が向くだろうそういったものに対する感想は今はない。どちらかと言えばやっと女の子がまともな反応を返してくれたことに安心する気持ちが先に来て、他の色々は全部後へと回されてしまっていた。
女の子へと近づいていく。顔を向けてくれたのを許しがもらえたと受け取って歩み寄る。また幾つか言葉を投げかけながら、視線をあわせるように僕もしゃがんで手を差し出した。
「立てる?」
これからどうすれば良いかはまだ迷いながらではあったけど。いつまでもここにいたままでは濡れてしまうから、とりあえず動こうと呼びかける。
もしも怪我をしているのなら支えてあげなきゃと差し伸べた手を、けれど女の子は見向きもしないで僕の目をばかり眺めていた。揺れる瞳以外はじっと固まったままに寸分すらも動かない。顔を上げてからはまた示されることのない反応に、せっかく芽生えていた安心が少しずつ余所へと追いやられる。
また不安と困惑が少しずつ忍び寄り始めていて、だけどそんな中でふと、女の子の表情に変化があった。待ち望んでいた女の子の側からのリアクション。ただし決して、それは期待していたようなもう一度安心を連れて来てくれる、対話の手応えではなかったけれど。
くしゃりと目許を歪ませるようにして頬が引きつる。ひくりと女の子の喉が鳴って、瞳がじわりと潤いを増したのを見た瞬間、まずいと反射的に焦りが生じた。頭に浮かんだ一瞬先の展開に、為す術なんてある筈もなくあっという間に現実は予想へと追いついてくる。
そうして女の子は泣き叫んだ。何がきっかけで何を感じてそうなったのかは僕にはついぞ分からなかったけど、とにかく女の子は大声を上げて大粒の涙を両目から溢れさせて、力の限りとばかりに大泣きした。
そんな女の子に、僕はどうしようとおろおろしながら辺りを見回す。泣き止ませる方法を必死に探して、だけど慌てるせいで何も思いつかずに思考が無意味に空回る。
偶然にも、今は近くにほとんど人はいなかった。唯一男の人が後ろを通り過ぎていったけど、ちらと一度僕の方へと目を向けただけでさして何かを気にすることもなくそのまま歩いて離れていく。たったそれだけ。それでこの場は僕と女の子の二人きりへと早変わりしてしまう。
結局何もしてくれなかった男の人に対しては、何か手を貸して欲しかったという気持ちと何も言わずに立ち去ってくれて助かったという気持ちが相反したまま真っ正面から食い違う。優勢なのは、実のところ二つ目だった。女の子を泣き止ませようとしていたのは何も女の子を慮ってのことじゃない。本音を言えば僕がいじわるをして泣かせたのだと周りの人に勘違いされたくないという気持ちが一番で、だから誰にも見られていないというのは反って心を落ち着かせる方へと働いてくれた。
冷静にさえなれば、頭も少しはマシな動きをするらしい。
女の子へと向き直る。周りへ配っていた目を女の子の方へと改める。中腰くらいの体勢だったところから膝を地面につけて完全にしゃがむ。そうして段階を踏みながら気持ちを固めて、少しためらいながらもいざと女の子へと手を伸ばして──手のひらで触れたその頭を、僕はわしわしと撫でた。
それはいつも、お母さんが僕にしてくれることだ。泣いてしまった時だとか、嬉しいことがあった時だとか、お母さんはいつもこうして僕の頭を撫でてくれる。
頭の上をふわりと滑るお母さんの手。髪の毛越しにも伝わってくる柔らかさ、温もり、それに優しさ。そういったものを感じていると、悲しい気持ちや荒ぶった心は不思議と鎮まっていってくれて、喜びだとか楽しさだとかは一層強くなってくれるから。女の子もそんな風に感じて泣き止んでくれることを期待して、僕は見よう見まねで女の子の頭を撫でたのだった。
それでもしばらくは泣き声が収まることはなくて、それと同じだけ休めることなく手を動かした。泣き続ける女の子に僕も負けじと撫で続ける。そうしている内に最初に抱いていた筈の理由はだんだんと擦り切れるように薄れてきて、最後の方はもはや意地だけが理由になって、腕が疲れてだるくなっても必死になって撫で続けた。
その甲斐あってか、それとも時間の問題か。
女の子はやがて、ずびずびと鼻を鳴らしながらもそれ以上涙をあふれさせることはなくなった。
「……ちょっとだけ、外を見に行くだけだったのに……。みんなとはぐれて……、あちこち探し回ってたら、帰り道が分かんなくなっちゃって……」
泣き止んで、気持ちが落ち着くまでの少しの時間を挟んでから、女の子は途切れ途切れにそんないきさつを教えてくれた。
「ここがどこかも分からないし……。それに誰も、訊いても答えてくれないから……。どうすれば良いのか分かんなくて、私、怖くなって……」
ようは女の子は迷子だったらしい。知らない場所で道に迷って、誰にも助けてもらえないまま一人で不安に怯えながら泣いていた。それをたまたま、僕が見つけて声をかけたということだ。
「じゃあさ。家の場所とか、帰り道の目印とか、何か分かることってある? この近くなんだったら連れて行ってあげられると思うから」
やっぱり立ち上がりはしてくれなかった女の子の隣へ並んで座って、僕はそんな風に訊いてみた。
おばあちゃんの家には幼稚園の頃から何度か来ていることもあって、この辺りのことなら僕にだって少しは分かる。それに僕がダメでもおばあちゃんなら絶対に分かるだろうから、きっと女の子の家だってヒントがあれば見つけられると思ったのだ。
だからと尋ねたその問いに、女の子は少しだけ悩むような迷うような素振りを挟んで、それからそろそろとした口調で大雑把ながらも帰り道の景色だとか特徴だとかを教えてくれた。
「あっ、そこなら知ってるよ。おばあちゃん家の近くだから」
「……ほんとう?」
「うん。本当」
これもまたすごい偶然で、女の子が話したのは僕もよく知っている場所だった。それだったらおばあちゃんに頼らなくても案内できると、僕はちょっとだけ鼻高な気分で地面を手で押して立ち上がった。
「じゃあ行こっか。立てる?」
そう言って、また女の子へと手を差し出す。少し前にそうしたのと同じ言葉で、同じように。だけど今はお互いの表情が違っていた。あの時は僕も迷いながらかけた言葉だったから固い顔をしていたと思うけど、今はちゃんと笑えているのが自分で分かる。
それに、女の子も。
「うん……!」
今度はちゃんと答えてくれた女の子は。
つぼみが開くみたいに笑顔を溢して、僕の手を掴み返してくれたのだった。
それから僕は女の子を、教えてもらった通りの場所まで手を引っ張って連れて行った。直接家まで送ったのでなくあくまで途中までではあったけど、ここまで来れば後は分かるから大丈夫だと言われて、そこで僕は去っていく女の子を見送ってから家へ帰った。
足は自然と、早足を通り越して駆け足になっていた。昂ぶる気持ちは前へ前へとのめりだして幾ら足を速めても追いつけない。下り坂の道を危ないけれど駆け下りて、スピードを緩めないまま家へ飛び込む。玄関で靴を脱ぎ散らかして手も洗わないまま居間へと向かう。
ふすまを開けた先ではお母さんとおばあちゃんがお茶の入った湯呑を前におしゃべりを続けていた。突然に駆け込んできた僕に二人はかなり驚いた様子で腰を浮かせていたけど、僕はそんなことを気にする余裕なんてなくお母さんへ向かって飛びついた。
胸へと直撃した頭突きにお母さんからくぐもった呻きが漏れる。お母さんは苦しそうに数回だけ咳き込んで、だけどそれでも優しい声でそんなに慌ててどうしたのと訊いてきた。
そんなお母さんに、僕は足は止めても乗ったままの勢いに気持ちを任せて、前のめりになりながらついさっきあったばかりの嬉しい出来事を報告した。
「聞いて! さっき新しい友達ができたんだ!」
何があったのかのあらましを僕は意気揚々と語って聞かせた。自分ではかいつまんでのつもりだったけど、実際には思い出した端から順々に時系列を無視して並んだ語り口は、きっとずいぶん分かりづらかったに違いない。それでもお母さんもおばあちゃんも、微笑ましそうな笑みを絶やさず最後までちゃんと聞いてくれた。
そして僕が話し終わるとそれぞれ、良かったね、大事にするんだよ、と笑顔で言って、その上でお母さんは僕の頭を撫でてくれた。
頭の上を行き来するお母さんの柔らかな手。こそばゆくて、ちょっと恥ずかしくて、だけど嬉しくて安心する。ぽかぽかと胸ににじむ温かみを感じながら、あの女の子もちゃんとこんな風に感じてくれていたのかなと思い返す。
それと同時に、頭に浮かぶのは女の子との別れ際に交わした会話だった。
道が分かるという場所まで女の子を送って、さよならを言った後。もう別れるという段になって、けれど女の子は一向に立ち去ろうとはしなかった。足は道の先へと向いているのに、何か忘れ物でも思い出した時みたいに、それが言い出せないでいる時みたいに、足は動かさないで爪先だけが迷うように揺れている。
それが何だろうと思って僕も進めようとしていた足を止める。振り向きかけていたのを途中で止める。口をもごもごとさせる女の子と、控える何かを黙ったままに待つ僕と。ただただ風と時間だけが流れてセミの声が降り注ぐのを聞きながら、それからもう少しだけ時間を使って、女の子は何かを決意するみたいな表情で落としていた視線を上げた。
胸の前で落ち着きなく指をあわせて、ちらちらうつむきかける目を必死に上へと保ちながら、反応をうかがうみたいに震える声をしぼり出す。
そうして女の子は、僕に向かって言ったのだ。
──『明日もまた、会えないかな』
女の子の側から告げられたその言葉を、取り付けた約束を、思い返してにじみ出るように嬉しさがこみ上げる。抑えきれない分は口許にまで。にやけるような笑みを堪えきれずに浮かべながら、僕は明日に早くならないかなと、普段の夏休みには思うことなんてない願いを抱きしめる。
それが、僕と女の子との出会いの記憶。とある物語の始まりの合図。いつ思い返しても輝かしい、けれど決して特別なものじゃない一夏の、一番最初の思い出だった。
その日はその後にもおばあちゃんと遊んだり色々したけど、どれもあんまり覚えていない。だってずっとそわそわとしていたから。明日がたまらなく待ち遠しかったから。ご飯を食べてお風呂に入って布団に潜って、時計の針が進むのを早く早くと待ちわびる。高揚した気分はいつもなら寝ている時間になっても目をぱっちりと開かせて、だけど電気を消して暗い中、ちっくたっくと進む秒針の音を聞いていれば次第にまぶたは重たさを増していく。
静かな部屋の中で一つ響く、外から忍び込むような水の音。ぱらぱらと庭木へ雨が当たって弾ける音が届いてきて、そんな心地よい音色もまた意識を眠りの縁へと誘ってくる。
とろんとぼやける視界と意識。そんな中でも僕はずっと、あの女の子のことを考えていた。
道端で泣いていた女の子。話しかけると見上げてきたあの瞳。だけどすぐにまた泣き出して、その後で見せてくれた笑顔。声。表情。約束。色んなものを思い出して、明日を楽しみにしながら眠りに落ちる。
……ああ、でも。そういえば一つだけ。
どれだけ考えても分からなくて、ずっと不思議なままなのだけど。
女の子はどうしてあの時、帰り道と言ってあんな、何もない筈の山の奥を示したんだろう。




