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第1節 雨降りの山と白無垢

明日以降は毎日20時頃に続きを投下していく予定です。是非、よろしくお願いします。

 先触れの無かった祖母の訃報に久方振りと母の生家へ足を運ぶことになったのは、木々が新緑を纏い始める夏の入り口での事だった。

 祖母の家があるのは人の手による開発の波も遥か遠い小さな田舎の村落だ。すぐ後背には山嶺の連なる平地と山との境界線。そして眼前に広がるのは何枚もの田んぼが一面並べられた平らな景観。そんな昔話にでも聞くような風景をそのまま残したこの土地が、祖母の暮らしていた村落だった。

 とは云えそれも、今となっては過去形だ。

 祖母が居なくなったからというだけじゃない。この地域に『村』という機能が保たれていたのはもう何年も前までだ。人の手が届いていないという事はありのままを保つと同時、それだけ現代の人間が住み辛いという事と同義なのだ。近隣にあるのは田んぼと畑、少し離れたところに町こそあれど、細々とした其処には娯楽も贅沢も求め難い。何なら祖母の家ではインターネットの受信すらも覚束無いと言ったなら、この不便さも幾ばくなりかは伝わるだろうか。

 そんな土地から次第に人足が遠退いていくのは寧ろ自然でさえあって、見事に過疎化を果たすこととなった村の中、放棄されたものも数多い田園の中にポツンと残った祖母の家は言葉通りの最後の砦だったらしい。そうして孤城も崩れ去り、最後の住人が旅立ったことで村は本当の意味で歴史に幕を下ろしたのだった。

 齢九十を超える大往生。長寿ながらも天命に抗うことはしなかった祖母を送り出し、故人の意向もあって近縁の親類だけを集めて小さく催された葬儀が済んだのが昨日の話。それから一夜が明けて今日になり、僕は一人で村の中を散策しているのだった。


 この近辺の地理に関しては、慣れているとは言い過ぎであれそれなりには見知っている。幼い頃から母の帰省に連れられて来ては祖母や母を連れ回して遊んでいたのだから当然だ。

 田んぼの形。道の形。水路に架かった小さな橋やら今は廃墟となっている民家やら。更にはそれらの背景に佇む山の位置でも。都会と違って特徴の薄い平坦な景色ではあるけれど、そうと見れば細かな標徴なんて幾らだって見出だせる。

 それらを頼りにかつての自分の足跡を辿っていれば、案外、覚えているものなんだなと噛み締めるような笑みが自然と口端に零れ出た。

 都会と違う空気の味。遮るもの無く彼方の空まで通る視界。見慣れない野生の生き物たちやのどかで独特な暮らしの形。それに何より、いつも優しく出迎えてくれる祖母の姿。

そういった諸々に、日常から切り離された田舎へと、幼かった頃程の魅力を感じなくなってしまったのは果たしていつからだったのだろう。

 久し振りに訪れた場所に対する懐かしさと、訪れる理由を喪ってしまったことに対する寂しさと、こんな事を思うくらいならもう少しくらい足を向けるように心掛ければ良かったというほんの少しの後悔と。混ざり合った幾つもの感情が喉に詰まって、仮初めの息苦しさを誤魔化すみたいに僕は田園風景から視線を切って大きく吸った息を吐き出した。

 そもそもとして懐かしさを抱く分にはまだ、こうして最後の機会を与えられた僕は恵まれている。本当なら一番寂寥を噛み締めたかったのは母だろうに。僕たちにとっても突然に過ぎた祖母の逝去に、こう言っては何だけど都合を合わせるのは難しかった。通夜と葬儀に二日を使った次の日に、大学の講義の関係で一日空いていた僕が例外だったのであり、仕事を休めなかった両親は共に式の後には息つく間もなく足早に駅へと向かっていった。

 なんて云うのが、僕が一人で郷愁を噛み締めていた理由だった。見納めになるだろう多くのものを自分の中へと刻み付けるように広くはない村を時間をかけて練り歩く。田んぼを道を水路を家屋を、思い出の中にあるそれらと照らし合わせながら改めてと記憶に収める。今度こそ思い残すものが無いよう思い付く限りの場所を隅まで巡って、そうして最後に足を向けたのは家の裏手にある山だった。

 幼少期から蓄積された思い出は数あれど、一番印象に残っている場所を訊かれたならば真っ先に思い浮かぶのは間違いなくこの裏山だ。家から近く、人が通る為の道があって、山腰までなら山と呼ぶより丘にも近い斜面の緩やかなこの場所は、自然に憧れる子供の遊び場として最適だった。外へと出れば足の向く先は大概ここで、祖母の家へと行くのを楽しみにしていた理由の半分くらいはコレだと言っても過言ではなかったように思う。

 それに、この山道はよく祖母と一緒に登っていたから。裏山の中腹の、村を一望できる場所にはこの辺りの土地を守るのだと云う地主神の祀られた小さな祠が置かれていて、祖母はよく掃除やお参りをしに行っていた。僕も決まってそれについて行ったものだから、余計に祖母との思い出に紐付けられた場所になっているのかもしれない。

 そんな裏山は、今は初夏の季節も相まって一際緑に溢れていた。一本だけ道を空けて左右に何処までも続いていく山林は、枝先に新緑を芽吹かせて爽やかな緑の影を落としている。さあ、と吹いた風に梢がなびいて葉擦れの音で森を満たす。天然自然が織り成す一種の神聖な空気感。人が居なくなったことで村は寂れた様子が目立っていたけど、此処だけは今も昔も変わらない姿を見せてくれていた。

 その事に、安堵にも似た感慨が胸の奥へと染み出してくるのを感じながら山道を行く。目的地は言うまでもなく件の祠。一番最後に立ち寄るならばあそこしか無いだろうと、かねてから決めていた場所を目指して僕は坂道を登っていく。

 ──ポツリと。

 不意に首筋へと水滴の落ちる感触があったのは、まだ斜面の傾斜が険しさを増し始める前のことだった。ビクリと反射的に肩が跳ねる。何事かと上を向けば今度は頬にも水が当たり、それを皮切りとするかのように見上げた空からは無数の雫が溢れ始めた。

 今朝の予報では一日晴れると言っていたけど運の悪いことにどうやら外れていたらしい。思いもしない白雨に備えなんてある筈もなく、慌てて僕は道脇の木陰へと駆け込む羽目になったのだった。

 深緑までは一足ばかり遠くとも木々を彩る数多の結葉。頭上で折り重なるように伸びる枝には、隙間を埋め尽くさんばかりに青々とした葉が茂っている。これなら小雨を凌ぐ分には充分だろうと一息ついて、それから僕は、どうするべきかと辺りへ視線を巡らせた。

 さあさあとしめやかに降る弱い雨。急ではなくとも斜面の山道。土が剥き出しのせいで泥濘む地面。ここまでやってきた目的。そう遠くない家までの距離と、目的地までのおおよその距離。それらを含めて勘案して、二者択一で少し迷って──その末でこれが通り雨であることを願いながら、止むまで待ってみることにしたのだった。

 パラパラと、雨粒が枝葉を叩く音が森の中で反響する。しっとりと湿った空気の中で音は速く広く伝わっていく。パチンと山林の何処かで葉を弾いた水滴が、まるで耳元へと落ちてきたみたいに錯覚した。聴覚が捉える距離感が現実よりも狭められて山全体に自分の意識が拡がる感覚。対して普段よりも鮮明さを欠いてこもって聞こえる音たちは、まるで小さな檻の中に閉じ込められているみたいな相反する幻象をも押し付けてくる。

 ──パラパラ

   ──ポツポツ

     ──ザアザアと。

 辺りを包む音は少しずつ少しずつ大きなものへと移ろっていく。期待に反して強まる雨脚。木の葉に打ち付け奏でられる自然の音楽は聞いている分には心地よくて、けれどちりちりと胸を炙る焦燥に、これは身動きが取れなくなる前に引き返すのが吉だったかと思い直して。

 木陰の安全地帯から飛び出す決意を固めていざと意気込んだのと──ぱしゃぱしゃと何処からともなく水を踏む足音らしきものが聴こえてきたのは、殆ど同じタイミングでのことだった。

 走り出すべく足許を確かめていた視線を上げる。

 眼前に捉えたのは雨霧に沈む森の姿。霞がかった景色の中には見回そうとも人影どころか動物たちの影の一つも見当たらない。

 発する源も定かではなく、けれど確かに聞こえた音。その一方で何処にも変わったものなど見受けられない風景に首を傾げようとして──次の瞬間。何も無いと思っていたのは単なる錯覚だったらしいと気付かされた。

「……え?」

 ぱしゃりと、一際高い音を響かせながら目の前にあった水溜りが弾けていた。

 浅い水底をまるで無色の脚が踏み抜くように、誰も何も触れないままに飛び散っていく水のクラウン。違う。ほんの一瞬前には影も形も無かったように思えたけれどそれは錯誤で、単に今の今まで見えてはいなかっただけのこと。何故なら今、其処には確かに、一人の少女の姿があったのだから。

「────」

 きっと上の方まで登っていて、急に降り始めた雨に慌てて下ってきたところなのだろうと。普通ならば浮かんだ筈の推察が、今ばかりは木っ端も同然に吹き飛ばされる。そんな見たままの感想も、どうしてこんな場所に人が居るのかという疑問すらも、湧かないくらいにこの瞬間の僕は自失していた。

 なにせ彼女の纏う服装が、山中で見るにはあまりにも似つかわしくないものだったから。

 さらりと流れる長い袖。足許を隠し地面を擦るまでに伸びる裾。巻き付けるように胴を包む幾重の布に、浴衣のように胸の前で合わせられた左右の襟。胸元は組紐の紅色に彩られ、けれどそれすら意識の隅へと追いやる程に印象的な、全てを染め上げる眩いまでの純白色。

 ふと、道の先を見据えていた彼女の瞳が脇へと逸れた。先程漏らした声が聞こえていたか、或いは姿を視界の片隅にでも捉えたか。何にせよ彼女もまた僕の存在に気付いたらしい。薄い朽葉色を宿した瞳が、意識の向きが、横合いに佇んでいた僕の方へと向けられる。

 目を見開いたのはお互いに。きっと理由は違うだろうけど、同質の驚きを乗せた眼差しどうしがぶつかり合う。

 眩しいと、飛び込んできた光にけれど見張った眼は閉ざせない。

 梢の隙間から射し込んでいた木洩れ日が少女の髪を照らしている。陽光を受けて髪や肌を濡らしていた水の玉が煌めいて、虹色に反射させながら彼女の装束を彩っている。

 その輝きに、僕は初めて空が晴れていることに気が付いた。

 雨が止んでいた訳ではない。青い空からはこうする今も、ざあざあと無数の雨粒が降り注いでいる。

 雨と青空。本来は両立することの無い二つが同時に起こる天気雨。俗に狐の嫁入りに際して現れる天候だったかと──少女の纏う白無垢へ、連ねるように僕はそんな事を想ったのだった。

「──あ」

 声は、果たしてどちらの上げたものか。

 まるで永遠へと切り抜かれたかにも感じられた刹那の時間。コマ送りのように引き伸ばされていた須臾の間は、それでも一瞬であることに変わりは無い。さながら機能を忘れていた映写機が再びフィルムを回し始めたかのように。時間の流れは途端に正しい運行へと戻される。

 契機は明らか。理由は単純明快に。

 僕の見ている目の前で、少女が水溜りに取られた足をずるりと滑らせたのだった。

「ぅわ、────!?」

 今度の声は間違えようもなく彼女のもの。

 改めて言うまでもないことだけど、此処は山道なのである。幼い子供が遊び場に出来る程度に危険は無くとも、天候が変われば温厚に見えた自然も容易く掌を返して牙を剥く。舗装も整備もされていない土砂が剥き出しの地面は雨で泥濘めば滑りやすいし、そこに傾斜が加われば尚更だ。僕自身も小さい頃は祖母直々に、天気が優れない日は遊びに行ってはいけないよ、ときつく言い付けられていたものだ。

 そしてそんな環境下で、脇へと気を散らしてしまったのが致命的だったに違いない。足許を疎かにした報いとでも云わんばかりに、少女は派手な音とともに泥やら水やらを撒き散らしながら下の方へと転がっていった。

 そんな様子に僕は一瞬、事態を正常には飲み込みきれずに滑っていく少女を見送ってから。

「……あ。え、ちょっ! 大丈夫ですか!?」

 黙って眺めている場合では無かったと慌てて彼女の下へと駆け寄った。

 少女は数メートルと転がった先で漸く止まり、上半身だけを起こしてぺたりと地面の上にへたり込んでいる。突然の展開に何が起きたのかを自分でも分かってはいないのか。頬に付いた泥を拭いもしないで、彼女は近付いてきた僕を呆然とした目で見返していた。

 その表情に、何か既視感めいたものを覚えたのは何故だったのだろう。

 黒よりも色素の薄い亜麻色を宿した彼女の髪が。僕の顔を真っ直ぐに見上げてくる彼女の瞳が。その、琥珀色をした眼差しが。僕の中にある何かへと爪を立てるようにして重なり合う。

 熱いと、そう感じたのは何故だろう。

 胸が苦しくなるのはどうしてだろう。

 降って湧いた正体不明の自分の感情。素性も原因も不明のそれに、戸惑う僕は声も動作も次のものへと繋げられない。

 中途半端に固まって、中途半端に黙ったまま、浅い呼吸を重ねるだけで説明も折り合いも付けられない感情と頭の中で競り合って。

 パシリ、と伸ばし切れずにいた手を不意に彼女が掴んでいた。

「みつけた」

 そう呟かれた言葉には、果たしてどんな意味が込もっていたのか。未だ抑揚の戻り切らない声に見出だせるものも無いままに、僕はずいと距離の詰められた彼女の瞳を見返すことしか出来やしない。

 彼女の声に、彼女の目に、彼女の全部に、何故だか心が揺さぶられる。

 理解も把握も後回し。確かなものは胸に湧いた奇妙に心地よい懐かしさ。それも得体の知れないものだから、つまりは手の中に収まっているものなんて一つもないということだ。

「ね、お願い」

 何もかもを置いてけぼりに、少女の声だけが先に進む。

 雪の止んだ冬暁を思わせる声の玲瓏が、澄んだ響きに反した強引さで掴んだ腕を引いていく。

 心の底から困惑している僕のことなんかは完全に余所にして、心の底から嬉しそうに口端へ花を咲かせながら。

「私のこと、さらってほしいの」

 彼女は噛み締めるように笑みを浮かべて、そんなことを言い放った。

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