第9節 雨降りの真実と初恋(後)
「そんなの」
それを僕は、最後の最後まで聞き届けて、その上で軽い嘆息を以て応えた。
肩へと手を添えて寄せ合っていた身体を離す。慌てたように服を掴もうとする手をするりと躱して対面する。所在なさげに揺れる瞳を真正面へと再びやって、怯えたような色を宿す琥珀を見据える。
忘れないで。一番に好きでいて欲しい。傷になりたい。
反芻してもなんて願いだと改めて思う。
なんて我が儘。なんて呪い。なんて、なんて。
それはなんて、拙い望みなのだろう。
「そんなの、今更すぎる」
「…………え」
微かに震える頬へと掌を寄せて柔らかな感触を指でなぞる
まだ、意味が分からないと呆然としている彼女に笑いかける。
「君は分かってない。昔、君と会えなくなってから。君への気持ちが恋だったって気付いてから。十年も僕はその気持ちを抱えてきたんだ。忘れようとして、蓋を閉じようとして、それでも絶対に消えなかった」
消せなかった。忘れられなかった。十年も。それだけの月日の重みを以てしても、薄れることさえしなかった。
それが僕にとっての証明だ。それが僕にとっての答えなのだ。
彼女がどんなに呪いを課そうと僕にとってはまるで足りない。だって僕は、僕はもう。
「僕はとっくに君のせいで重傷だから。今更そんなこと言われても、始めからそのつもりだとしか言えないよ」
失笑混じりの僕の返答に、──ぅあ、と喉の奥で呻きを洩らして彼女は一瞬見開いた目を直ぐに細めた。そうしないと溢れてしまうのだと云わんばかりに。その甲斐虚しく、有り余る感情を両の眼から流しながら。
彼女は照れくさそうに、それでもやっぱり嬉しそうに笑って言った。
「キミ、私のこと好きすぎるでしょ」
「それは君には言われたくない」
言い合って。
また吹き出して。
また、僕たちは声を張り上げて笑い合った。
「──あぁ、安心した」
響く笑声の吸い込まれていく空は藍よりも濃く紫がかった瑠璃色に。刻々と夜に侵されていく空へと彼女は不意に手を伸ばす。
その手と腕は光をほどけさせながら、既に半ば薄れかかって向こうの景色を透かしていた。
「本当にもう、思い残すことなくなっちゃった」
心の底から身体の端まで染み渡らせるようにして、呟いた彼女に僕は『そうか』と悟らされた。
もう、終わりが訪れようとしているのだと。日が沈むのだと。今度こそ二度と取り返しの付けられない、別れの瞬間が来るのだと。
「サチ──」
「──ん」
その前に、これが最後と惜しむようにもう一度唇を触れ合わせる。三度目の口付け。今度は僕から仕掛けたキス。離れたくないと乞うように、一緒にいたいと意思を形にするように。この時間がずっとずっと続くようにと祈りながら、僕たちは長く深く交わし続ける。
けれど、ふと息継ぎの為にと僅かに唇の離れたタイミング。
「私、本当にキミと出会えて幸せだったよ」
ありがとう、と彼女は声を弾ませて。
だけどね、と彼女は声を沈ませて。
光が膨れる。彼女の中から、消える間際に一瞬だけ光を増す蝋燭さながら眩い煌めきが溢れ出す。地上に下りた光源に、けれど対して空の端では山並みが遂に陽光の残滓を削り尽くす。
待って、と言おうとした声は喉に詰まる。其処はとっくに言い切れなかった幾万の言葉が塞いでいるから、今更何を思ったところで時間切れまで順番待ちだ。ただ、競り合う最前列すらぎゅうぎゅう詰めで出てこれないで、はく──と口が無為に開いて閉じるだけ。
涙が落ちる。彼女か僕か、或いは二人揃ってか。雨も止んで乾くのを待つばかりとなった地面を新たに濡らして、ぽたりぽたりと染みを作る。
そんなあれこれがほんの刹那に詰め込まれ、流れて去った次の瞬間。何もかもがもう後の祭りとなった後。
透けて薄れて粒へと解けて──泡へと還る人魚姫のさながらに──消える寸前、最後の最期で困り眉の微苦笑に口端を曲げて。
「贅沢言うなら、キミが死ぬまで私も同じ時間にいたかったなぁ」
そんな夢を孕んだ言葉が僕の耳に届いた時には、既に光は一粒たりとも残さないで空へ上って消えていた。
「────っあ」
がく、っと彼女の頬に添えていた筈の手が空を切って、触れていた感覚の全てが消え去った。
はさり、と彼女の身に着けていた僕の服だけが実体を保ったままに地面に落ちる。太陽の山際へと没した今、間近の光を失った僕の周囲には急激に夜の帳が滑り込む。いつの間にこうも暗く翳っていたのか。空の色はついさっき見た瑠璃で変わらないのに、今はそれが地中で見上げた岩盤ながらの無明に感じた。
風が吹く。風が吹いて梢が揺れる。梢が揺れて葉が擦れる。葉が擦れて音が鳴る。音が鳴って、その音だけが、彼女の居た時と変わらず淋しげだった。
立ち上がる。今は何をする気にもなれないけれど、この場に留まっていたって何も無いから無気力な身体に鞭を打って足を起こす。そうやって、鞭を打てるだけの気概が自分の中に残っていたことにすら驚きを抜けて戸惑いながら、ふらふらと夢遊病すら思わせるような足取りで祠を離れる。帰り道は直ぐそこに、ほんの少し歩いた先に山の上下を繋ぐ一本道が走っている。其処まで行けば後は足の覚えているまま何を考えずとも祖母の家まで辿り着いていることだろう。そんな算段を頭の片隅で考えながら──大部分は機能を落として使えないけど──ふと、村を一望する景色が意識に掛かった。
地主神の祠から村を見渡すことの出来るこの眺望。彼女が此処から、きっといつも眺めていたのだろう風景を、そうと考えながら同じように見て回す。
見渡す限りの全景を山嶺に囲われ閉じた世界。伸びゆく空を切り取るものは稜線ばかりで、微かな弧を描く水平線も果てなく続く碧海も、成る程確かに此処にあっては夢語の一幕にしか過ぎないのだろう。
風が吹く。まるで夏嵐を思わせる、今度は一際強い風。右から左へ木々の隙間を吹き抜ける風に煽られて、ざわりざわりと響き渡る葉擦れの輪唱。辺り一帯、まるで音が何もかもを包み込もうとするかのように空気そのものが啼いている。
そこへふと、差し込むようにみぃんと何処かで声が鳴いた。
今はまだ蝉の時期には早いとばかり思っていたけど、もうそんな季節だったのか。西の空に仄かに残る紅色の燃えるような色合いと重なるように、夜気を孕んで吹き付けてくる風も心做しか生温い。
──そうか、今年も。
そんなことを思いながら、僕は足を前へと進ませる。家への道へ、諸々の未練は引き摺りながら重い足で、決して荷物は下ろせないし下ろさないまま、僕は最後の思い出の地を後にする。
途中、頬を伝っていた涙がなにかの拍子で口に入った。涙の味は薄くて何と言い表せば正しいのかが難しくて、だけどほんのり、甘いような気がしたのだった。
こうして僕の語る物語は全て終わり。語り残しは一遍も無いし、後には何も始まらない。ただ、続くものはいつもと変わらず。取り留めの無い日々が際限なくも連綿と繰り返されていくばかり。その手始めとして、そう。
今年もまた、彼女の居ない夏が始まろうとしていたのだ。
彼と彼女の物語はこれにて『完』にはなりますが、あと1つだけ、大切な記憶が残っています。エピローグのようにはなりますが、最後までどうぞお付き合い下さい!




