第8節 雨降りの真実と初恋(中)
「好きだよ、サチ。昔も今も変わらずに、僕は君のことが好きなんだ」
言葉は存外、するりと喉を滑って流れ出た。
空気へ乗った声はつっかえることも違えることも無いままに僕の気持ちを彼女へ伝える。十年越しの告白を、言葉へ籠められた万感を正しく彼女は受領して。
ふるり、と彼女の身体が一度震えた。
ひくりと喉が嗚咽を滲ませて小さく鳴る。くしゃりと歪んだ顔を隠すみたいに、暴れる激情を鎮めるみたいに、彼女は心臓の辺りを押さえて体を折って。そのまま倒れ込むようにして頭を僕の胸へと凭せてきた。
「…………わた、しも」
息をするのすら途切れ途切れになる喉で辛うじて声の形を吐き出して、それに僕は、うんと応えて続きを促す。
「……私も、すき」
「うん」
「すき。好き。大好き」
「うん」
「私を、見つけてくれたこと。私の憧れ、貶さないで真剣に、ちゃんと受け止めてくれたこと。優しいところも。たまにちょっと意固地なところも。どんな話でもまじめに聞いてくれるところも。寄り添ってくれるところも。からかったらそっぽ向いて、けど恥ずかしがってるのは隠せてない可愛いところも。全部ぜんぶ、私はキミの全部が好き」
「うん」
「好き、だった。今までずっと、大好きで、今も、今は、もっと好きで」
「うん」
「けど、好き、なんて、本当は言っちゃだめで。決まり、だから。もうずっと、言えないんだと思ってて、諦めてて」
「うん」
「だけど!」
次第に強まる語調の最後に彼女は叫ぶように言って、それからはあ────と長い、肺を裏返すみたいな吐息を溢れさせた。
「諦めるなんて無理で、無かったことにするなんて絶対嫌で。気持ちはどうしたって、止められないから」
縋るみたいに彼女は僕の服を指で掴んで、それを支えに顔を起こす。
再び僕を映した瞳は溢れんばかりに大粒の雫を湛えて、けれど彼女は決してそれを溢れさせずに、へらりと下手くそな笑顔を努めて浮かべた。
「キミが好きです。たとえ何回生まれ変わっても、他の全部を忘れても、この気持ちだけは消えも薄れもしないくらい」
「…………うん」
返事は、こういう時にどんな言葉が正しいのか分からなくて淡泊なままに返ってしまう。それでも短いなりに感じ入るものがあったのか。或いは究極、言葉は必要無かったか。
気恥ずかしさから逸れようとする目を何度もすんでで堪える僕を、彼女はこの上なく愛おしげで、この上なく嬉しげな、さながら大輪の花笑むような面差しで見返していた。
吐息が触れ合う距離で見詰め合う。ほんの数本指を隔てる程度の空隙。相合傘をした時よりも尚近く。あの時ですら気を抜けば心臓が暴れ出しそうになったのだ。ならば今、この状況で理性が保たれる道理は無い。
ドクドクと鼓動が早鐘を響かせる。思考に沈着をもたらすべく、脳へと酸素を送ろうとする不随意による身体の機能。結論から言えば、体温を上げる以上の効果は無かったけれど。送られてきたものを脳が受理するのを忘れているのか、それとも幾ら受け取ろうとも足りないのか。何にしても頭は夢見心地に耽るまま、巡る血流に熱せられて余計に理知を喪失する。
顔が熱い。赤く染まっている頬はお互い様に。吐息が帯びる熱が増すのも、僕がそうなら彼女も同じに違いない。
「────」
何をかは分からないけど言おうとして、けれど何かが声になる寸前で取り止める。
見詰め合って。
呼吸も忘れて。
浸り合って。
ふと顔を寄せたのは、どちらからとも無くだった。促したりとか示し合わせたりすることもなく。ただ純粋に、お互い同じ気持ちで通じ合っていたというだけの事。
知らず指を絡ませ合う。触れる肌の温もりは末端であれど熔鉱炉へと手を挿し込むように。溶けて。熔けて。融けて。銷けて。鎔けて。混ざり合った二つは余分を鉱滓と投げ棄てて、製錬された感情だけが最後に残る。
混ざる吐息。閉じゆく視界を最後に満たした朽葉色。胸の奥にて跳ねる鼓動は、哮りながらも奈落に墜ちるみたいに彼方へ遠く。
そして、触れ合う感触にとろけるような熱が散った。
繋がる一点から神経を伝って拡がる充足。うなじを擽る高揚感。初めての口付けは息の保つだけ長く永く──だけど苦しくなって離れてしまうと、途端に物足りなさが顔を出した。
「ねえ」
もう一度、とするには直ぐには酸素が足りず胸を上下させていた小憩に。ふと、彼女の側が思い出したように口を開いた。
「恋の味。今はちゃんと感じてる?」
昔は無味で終わったけれど。
涙の味しかしなかったけど。
気持ちを確かめ合った今ならば。
「うん、やっと分かった。意味も味も、今ならちゃんと答えられる」
「じゃあ、それってどんな?」
「たぶん君が思ってる通りだよ」
「ふうん。そう言うなら確かめてみる?」
「良いよ。それじゃあ一緒に」
言い合って、それから目配せ一つを交わして息を吸う。
せえのと合図は交わさずに。
それでもやっぱり、同時に声を揃わせて。
「みかん」
「りんご」
僕たちは互いが思い浮かべた答えを、そのまま互いの口から聞いた。
「……ぷっ」
「ふふっ……」
思わず漏れ出た目笑は二人同時に。
声を潜めて──けれど直ぐに抑え切れなくなったから、二人揃って声を張り上げて笑い合う。雨の音に負けないくらい、風の勢いに散らないくらい、僕らは互いの声を森中どこへまでも届くようにと響かせ合った。
それはきっと僕が今まで生きてきた中で一番幸福で充たされた目映い時間。
好きだと伝えた。
好きだと言われた。
それがそこはかとなく浮き立たせるから。それだけが何にも増して嬉しかったから。果てしないほど掛け替えないから。
同時にどうしようも無い程の、苦しさもまた胸へ湧くのだ。
「君はこれから、どうなるの」
未だ笑いの鎮まらないまま、僕は一番訊きたくないことを彼女に訊いた。
この幸せな時間を壊したくないのは紛れもない本心で、だけど同時に猶予が殆ど残っていないのも本当だから。
痛切に心へ血が滲む様を幻視しながら、僕はきっと返ってくるのだろう一番訊きたくない答えを待つ。
「どうにもならないよ。それもきっと、キミが考えてる通りのこと」
「それでも。それでもちゃんと、君の口から聞かせて欲しい」
分かっていても、答えを得ないことには期待という名の幻想に逃げてしまうから。全て理解している彼女は覚悟も決めているのだろうけど、そうじゃない僕は辛いだけの其処には踏み込めないから。それは嫌で、僕は彼女と対等でいたいから。
退かない僕に、彼女は悲しそうに目を伏せて。
それでも少しの間を空けてから持ち上げて、きっと一番言いたくないだろう事実を口にした。
「消えてなくなる。この世界からいなくなる。人から見離されたらそうなるのが、私たちの定めだから」
──それに、神様は人間が覚えていないとこの世界には存在していられないからね。
予期した通りの筈の答えに、それでも口内へと鉄錆びた味の染み渡っていくのが感じられた。今度のそれはイメージじゃない。無意識に、食いしばっていた歯が唇の肉を噛み切っていたらしい。
小さい頃から、祖母から幾度となく聞いた話だ。昔は微塵も呑み込めなくて、今になれば少しは理解できる事。
神は人間を凌ぐ超常的な力を有しているけど、その反面に存在を人間からの認知や信仰に依存している。謂わば一種の概念なのだ。
ならばもし、誰も信じることがなくなれば。覚えている人間が居なくなれば。例えばそう、彼女のように。自己の守護する土地から人が、一人も残らず去ってしまえば。
忘れ去られた神はこの世界とのよすがを失い、存在を保てず消えるだけだ。
「どうにかする方法は、一つも無いの」
「無い、って言ったら、まあ嘘にはなるかな。だってその為の結婚だったし。他の土地を護る神と一緒になれば、その信仰を私も共有できるから。それがきっと、一番簡単で確実な方法」
だけどそんなの論外だし、と彼女は最善手をあっさり拒む。
「それ以外だと、強いて言えばもう一つ」
「それって──」
「けど、キミだって分かってるでしょ。それが無理だってことくらい」
眼の前に垂らされた好餌へ飛びつきかけた僕に言葉を被せて、彼女は僕の浅慮を否定する。
彼女が消えずに済む方法なんて単純なことだ。ようは誰か一人でも、彼女を信奉する人間が居れば良い。終わってしまったこの村に、もう一度営みの灯をともせば済むことなのだ。
それは言葉の上ではあまりに簡易で、実現を目指せばあまりに至難に過ぎる帰結。
母が父方へと嫁いだ頃から、既にこの辺りには過疎の兆しがあったらしい。それから見る間に人が減り、そうして祖母を最後に無人となった。つまりはとうの昔から、この土地には人が営みを築く地盤そのものが保たれてはいなかったという話なのだ。
「それなら僕が覚えてる。僕がずっと君のことを見てるから。だから──」
「できるの?」
なけなしの希望として縋った僕の一縷だけの光明を、彼女はまたも切り落とす。
悲しそうな顔をして。だけどそれ以上に、幸せそうな顔をして。
「だってそれは、私のことをサチじゃなくて芊八として見るってことだよ。私のことを人間とは違う神様として崇め奉っていくってこと。これからずっと、君が満足するまで延々と。そんなこと、キミにできる?」
できないでしょ、と破顔して彼女は僕の不能を明断する。
その断定を僕は否定できずに、言い返せずに、かと言って容認することもできないで、ただただ傷口から溢れ出す血を飲み続ける。味覚を侵す鉄の味。苦くてざらつく不快な刺激。そんなもので口の中が満たされて、僕の中がいっぱいになって。
嗚呼、こんな気持になるくらいなら始めから、僕は彼女に会わなければ良かったのにと。そんな事まで思ってしまって。
「だけど、キミはそれで良いんだよ」
ふわりと風の吹くように。
花の香りが流れるように。そのくらいの自然さで彼女は再び僕の唇を奪っていった。
「────な」
突然の行為に驚かされて咄嗟には応じられずに声を洩らす。そうすれば、薄く開いた唇の隙間からちろりと伸びた舌が割り入って、舌を歯列を上顎を、舐め取るようにしてなぞっていった。
二度目のキスは、深さに反して時間をかけずに直ぐに離れる。呆気にとられて竦んだまま。夢みたいに実感の湧かないまま。流石にもう、みかんの味は薄れたらしく甘い後味は残らなかった。
「ううん、むしろそれが良いの。だってそれは、キミが私のことを想ってくれてる証明だから」
コクリと彼女の喉が鳴る。溜まった唾を飲み込むように、拭い取ったものを嚥下する。
それで気付いた。ついさっきまで味覚どころか心までをも蝕もうとしていた血の味が、鉄錆びた苦々しいばかりの不快感が、今はもう舌の上から消えていた。
「だからね、そんなに辛そうにしないでよ。私たちが出逢えたことを後悔なんかで染めないで。せっかく叶えたこの恋を、そんな苦いだけのものになんてしないでよ」
幸せだから、と彼女は懸命に訴える。
出逢って、恋して、泣いて、独りぼっちでも想い続けて、失くさないよう守り続けて、その果てで奇跡みたいに再会して、そうして気持ちを通わせられたこの運命は。全部が全部、かけがえのない宝物なのだから。
得恋を。この素晴らしい終幕を、穢すなんてして欲しくないと必死に彼女は僕へと叫んで。
「……そっか」
ぽつり、僕は脱力しながら呟いた。
──僕はこの先、どうしたいのか。
これまで幾度か繰り返してきた自問自答。その度に答えを出せずに先送りし続けてきた難問。今は少し、問いの意味は変わったけれど。やっと僕は自分の気持ちに答えを見付けられたような気がする。
「僕は……うん。僕にとっても、君といられる時間は大切だった。それを一秒だって無かったことにはしたくないし、一瞬だって悔いになんかしたくない」
もしもこの終末を否定することが、これまで辿ってきた道のりをも否定することになるのなら。
視界の端。西の空に輝いているのは稜線に切り取られた太陽の欠片。真昼の眩さは何処へやら、もはや雲の切れ間に覗く空には紺碧ではなく藍の色が散っている。
そんな赤い弱光に照らされる彼女の手からふと、淡い光の粒が零れ出すのが見えてしまった。
ぐっ、と絡ませたままだった指に力を込める。離れないよう。離さないよう。何処にも失くしはしないように、彼女の手を強く掴む。
「間違いだなんて言わないし、もしもなんて必要ない。良いとか悪いとかだって関係ない。僕はただ、これまでの時間も今の気持ちも、大切だと感じた何もかもを今のままで残していきたい」
それはきっと、辛い選択には違わないのだろうけど。辛い〝だけ〟には決してしないと、誓って僕はその未来を選び取る。
気付けばもう、雨の音はしなくなっていた。天も漸くこの地に慈雨が必要ないと気付いたか。木の葉を弾く水の音は消え去って、代わりにほんの少し淋しげに、さあと風に揺られる音だけを湿った空気へ奏でていた。
「うん。それが一番、私も嬉しい」
僕の宣誓に、彼女はふっと息を洩らすような同意を示してくれた。
今や光の粒は手にのみならず、腕に脚に肩に髪に、全身へと範囲を広げて剥がれるように舞っていく。それは何処か、砂糖の液に溶ける様を連想させた。熱い紅茶に一粒落とした角砂糖。端からほぐれてほどけて溶けていき、果てには跡も残さず消えてしまう。
浮かんだ想像に背中へ冷たい雫が落ちて、受け入れはしながらも許容しがたい顛末を拒むように彼女の身体を抱き寄せる。そんなことで何が変わるとも思わずに。ただ、少しでも永く存在を感じていられるようにと仄かな温もりを腕の檻へと閉じ込める。
「最後に、わがまま言っても良いかな」
投獄には逆らわないで身を寄せて、肩口へと押し付けた口で彼女はぼそりと囁いた。
「僕に出来ることなら、何でも聞くよ」
「キミにしかできないことだよ」
ふふっと可笑しそうに肩を揺する彼女の身体は、散りゆく粒子に包まれてもはや彼女自身が光り輝いているようでさえあった。
はらはらと空へと消える光の粒。夕暮れ時の唐紅にかかる燐光は星とするにはあまりに近い。そんな星海すらも霞める蛍光を、一身から生み出しながら彼女は最期に望む『わがまま』を口にする。
「私が消えても。私のこと、ずっと忘れないでいて欲しい」
それは願いと言うより呪いのようだと、空を見上げながら僕は思った。
「私は、忘れられるなんて嫌。キミにはずっと私のことを一番に好きでいて欲しい。もしもこの先他の誰かを好きになっても、胸が鳴るたび思い浮かべるのは私が良い。告白しても抱き合ってもキスしても、並んで歩いても手を繋いでも相合い傘しても腕を組んでも話しても、頭の中では私を思い出していて欲しい」
最初はか細く、けれど堰を壊すようにやがて苛烈に。ひらひらはらはらと逆しまに空へと昇る雪のような粒子とは正反対の荒い語調。次第に軽くなっていく身体に反して、言葉と願いはずっしり重く僕の未来を縛り付ける。
「私はもうすぐ消えるとしても。キミのこれからの人生にいられなくても。私はキミに、私のことを忘れるなんて許さない。忘れて良いなんて死んでも言わない。私は──」
猛る心臓を言葉と一緒に吐き出そうとするかのように、彼女は烈火の如く声を上げて。
「──私はキミの、傷になりたい」
続く最後の一節だけは、彼女からも腕を回して縋り付くみたいに抱き締めて。まるで燃え尽きた後の熾火のように静かな声で告げられた。




