始まりの記憶
その日から、雨は私の中で特別な意味を持ち始めた。
とある夏の日。蝉の声が時雨と注いで、朝からうだるように暑かったのを覚えてる。あれは私が管轄する土地を、一度自分の目で確かめておくよう皆に連れ出された時の事だった。
それまでの私は生まれてからまだ外に出たことが殆どなくて、何も分かってないまま皆に言われる通りに力を振るって、皆に言われるままに雨を降らせるだけだった。自分が何を護っているかもその行為が何の為のものなのかも、知らずに機械的に言い付けられたことをこなすだけ。それを嫌だとは思わなかったし、特に何を学ぼうともしなかったし、あまり知らないことに興味も無かった。
ただ少し、決まり事の多い生活は窮屈だし息苦しくて、もっと自由に色んなことが出来る場所に行ってみたいとはずっと心の奥で思っていた。そう、例えば海。どこまでも果てなく見渡す限り、青く広がっているのだという海みたいな自由に憧れた。私の生活はそれこそ山に囲まれたこの土地みたいに、鳥籠に囚われたようなものだったから。
兎も角そんな、自主性の無い私の働きぶりは皆も問題視していたのだろう。人間の生活圏に私が立ち入ることはこれも決まりで制限されていることだったけど、この日だけは特例として私は山から下ろされて、日々を営む人間を観察するよう課題を課された。
人間には、皆は見えても私の姿は見えないらしい。私のような存在を視覚として認知するには特別な縁や資質が必要で、例えばそう、『真名を口にする』なんて条件があったりする。そんなもの、今更知っている人なんて居ないだろうけど。遠い昔の人間と私たちの距離が近かった時代なら多少は流布されていたらしいけど、今になってはそれも捻じ曲がって伝わって正確な呼称は喪失されてしまっていた。
少し話が逸れたけど、大事なことは人間に私が見えないのだと云う事で。そしてそれを、初めて人間たちの生活へと下りた私はまだ理解していなかったという事だ。
初めて見る景色や光景はそのどれもが新鮮で、私にとっては強烈な衝撃の連続だった。今まで興味は無かったけれど、そんな自分を悔やむくらいには私は彼らに憧れた。
そう、憧れだ。私なんかよりもずっと自由に伸び伸びと過ごす人間たちの生活に、笑い合って助け合って日々を送る人の営みというものに、私は強い憧れを抱いたのだ。
だから、つい見惚れてしまって。道を歩く家族連れを、井戸端に集まって話に花を咲かせるご婦人がたを、田んぼの縁に腰を下ろしてのんびり笑い合う初老の夫婦を。見ている内に、ふと気が付くと周りから皆の姿が消えていた。
はぐれたのだと、思い至ったのは直ぐだった。知らない場所。知らない人々。知らない景色。皆について来ただけの私は皆が何処へ向かっていたかもどっちに行けば帰れるのかも分からなくて、ただ焦燥に駆られるままにめちゃくちゃに走り回って、結局どこにも行き着けなくて疲れ切った頃にぺたんと膝をついて倒れ込んだ。
棒切れ同然の足を引き摺りながらのそのそと道際へと身を寄せる。偶然そこにあった古い水車小屋の軒下へと身体を凭せる。
途中、何度かすれ違った道行く人々に助けを求めもしたけれど、皆みんな私の声なんて聴こえていないとばかりに無視して素通りしていく。誰も一人と振り返らない。誰も一人と聞いてくれない。誰も一人と、私のことなんて助けてくれない。そのことが悲しくて、寂しくて、堪え切れなくなって、私は膝をぎゅっと抱き込んでも抑えきれない涙と嗚咽をポロポロと溢れさせた。
まるで心へ直接ナイフを滑らせるみたいにあまりに鮮烈な孤独の痛み。辛い気持ちをひっくひっくと洩らす私に蝉だけが喚き立てながら寄り添って、それも何だか嘲笑うみたいに聴こえてくるから余計に悲しさが嵩を増す。
あんまりに涙が止まらなくって、多分そのせい。意図せず力が洩れ出して、まるで大粒の涙みたいに空から雨が降り出した。
ひっくひっくと啜り泣き。
みぃんみぃんと蝉の嗤い。
パチパチパチと薄雨の音。
直ぐ目の前の道には少ないとは云え雑踏の織り成す色んな音が行き交うのに、私の周りだけは線を引いて切り抜かれたみたいに単調な騒がしさだけが渦巻いている。
ひっくひっく。
みぃんみぃん。
パチパチパチ。
私の世界はたった三つだけの音に満たされていて、蹲って目に蓋をした私にはそれだけが世界の全てで、だけど不意に、そこへ新しい声が差し挟まれた。
「ねえ、何で泣いてるの?」
ビクリと反射的に肩が跳ねた。
待ち望んでいた筈の救いの声は、けれど実際に耳にすれば恐怖が胸の中へと忍び込む。強ばる体は動かせない。知らない誰かに声をかけられたという緊張から。何をされるか分からないという不安から。あるいは、怖かったのは芽生えた希望を裏切られることだったのかもしれない。
このまま誰も話しかけてくれなかったら、悲しいけれど、辛いけれど、それ以上の虚しさを覚えることもなかったから。もし一度でも希望の味を知ってしまえば、掬い上げられた後にはたとえそこが元いた場所でも、絶望の底までは落差があるから。突き落とされればきっともう、潰れた私は起き上がれない。
聞き間違いか、そうじゃなければ偶然近くに居た別の誰かへ呼び掛けただけなのだろうと期待混じりの諦めが胸に淀む。ぎゅっと膝を抱く両の腕に力が籠もる。
「どこか痛いの? それとも迷子?」
だけど、たった一滴だけの期待でも、無視することはできなかったから。確かめもしないで捨て去るには惜しかったから。恐る恐ると見上げた先で、潤んだ視界で、果たして此方を見据える瞳と真っ正面からかち合った。
ひくっと嗚咽混じりに喉が鳴る。
蟠る不安はまだ消えない。信じたいと祈る気持ちと信じられないと疑る気持ちがぶつかり合う。私はまだ、恐怖も緊張も拭えない。
「だいじょうぶ。ほら、泣かないで」
私が顔を上げたことで、声の主である男の子の方は幾らかほっとしたらしかった。まだ数歩と空いていた距離をてってと歩み寄ってきて、視線を合わせるようにしゃがんで私へ向けて手を差し伸べてくる。
「立てる?」
そう言われた時。漸く男の子が本当に私へ話しかけているのだと自覚した時。パチリと弾けるみたいに両目の奥で火花が散った。
もう、堪えるのは無理だった。
溢れ返る。感情が。淋しさが。辛さが。悲しさが。抱いていた全部の苦しさの、揺り戻しが奔流となって暴れ出す。
そうして私は泣いた。精一杯に声を振り絞って、次から次へと湧き出してくる涙を拭いもしないで、体裁も恥じらいも一切合切関係なしに泣き叫んだ。
泣いていたのは今までだって同じだけど理由が違う。辛いんじゃない。苦しいんじゃない。悲しいんじゃなくて、この時の私はただ、冷めきっていた心を満たす安堵の温もりに、たまらなくなって泣いたのだ。
「わ、ちょ、なんで泣くの……。ほら、だいじょうぶだから。泣かないでってば」
突然に泣き喚き始めた私には、きっと男の子も面食らったことだろう。困ったようにおろおろして、焦ったようにきょろきょろと辺りを見回して、それから男の子は、少し迷った末に私の頭へと手を乗せた。
きっと、自分がお母さんにしてもらっていたことなのだろう。わしわしと私の頭の上を不慣れに行ったり来たりする男の子の手。真似るだけの仕草は下手くそで、くしゃくしゃに髪を掻き混ぜるみたいな手付きに私は頭ごと揺さぶられる。
ぐわんぐわんと脳みそから平衡感覚を揺すられて、くらくらとしてちょっと気持ち悪い。だけど決して、嫌な感じはしなかった。男の子がどうしてそんなことをしたのかは伝わったから。その優しさが胸に滲みたから。孤独を癒す手のひらの暖かさが心地よかったから。だから私は拒むことなく、乱れた気持ちが鎮まるまでずっと、されるがままになっていた。
男の子もまた、そんな私にいつまでも付き合ってくれていた。手付きは相変わらず下手くそだったけど。どうしようとばかりに眉を寄せながらではあったけど。私が落ち着くまでずっと、手を止めることなく黙って頭を撫でてくれていた。
それから。
かなりの時間をかけてやっと涙が収まってくれてから、男の子は私に帰り道を訊いてきた。どうやら道案内してくれるつもりらしい。その申し出は有り難くって、物凄く嬉しかったけど、同時に〝良いのかな〟という気持ちも顔を出した。私たちの居場所を人間に教えてしまって良いものか。それも決まりで禁じられてるんじゃ──そう考えて、心の中でぷるりと首を振って掻き消した。
そういうのはもう、今は良いかなと思ったのだ。決まりは窮屈で詰まらなくって、そんなものに拘泥するくらいなら私はこの男の子の親切心に報いたい。温もりに、優しさに、浸っていたい。
だから私はうろ覚えながらもどうにか思い出した山の場所とか特徴とかを男の子に伝えて、偶然知っている場所なのだと言う男の子に連れられて帰って来た。それから別れ際になって、もう一歩だけ勇気を絞って『明日も会いたい』と約束をした。
一方的に切り出したそれに何と言われるのかが怖くって、震えて、ドキドキして。だけど私の恐れなんて何のそのと男の子が快諾してくれた時、私は初めて、『自由』の味をほんの少し知った気がした。
それからの一週間、男の子が自分の家に帰るまで、私はずっと男の子と一緒に過ごした。決まりで人間とは必要以上に関わってはいけないと言われていたけど、この時の私には関係なかった。話をした。名前を教えた。お菓子を食べた。この村以外の場所についての話を聞いた。今まで誰にも言ったことない、私の叶う筈無い夢の話なんかもした。
そんな毎日が楽しくて、時間が流れるものだなんてことも忘れて、このままずっと一緒に居たいと、帰らないでと気持ちを込めて雨も降らせた。
それでも別れは訪れて、それはどうしようも無かったけれど。男の子が居なくなってからも、『またね』と次の約束があったから。だから私はそれを楽しみにしながら、男の子との運命みたいな出逢いを回想する。
誰も見向きもしない私をたった一人助けてくれて。
私の凝り固まった価値観を塗り替えられて。
きっと誰も許しはしない私の夢を、叶える為にと考えてくれた。
まるで正義の味方だとふと思って、それからぷるぷると首を振って自分で浮かべた考えを否定した。
否定というか、拒否。その喩えは嫌だったから。私の勝手なイメージの話なのだとしても、そんな風にあの男の子を見たくはなかった。
だって正義の味方はあまねく皆を救うものだから。
私はあの男の子に、私に手を差し伸べてくれた、私にとって唯一無二の救世主に、他の誰かのことなんて見て欲しくはなかったから。
誰もをではなくただ一人だけに目を向ける存在として彼のことを想いたかったから。
そういう人を、外国の童話では王子様だとかナイトだとか呼ぶのだと知ったのは後の話。これもまた、皆が『外』の文化を敬遠していると気付いて反骨心から読み漁っていた物語の中での発見だった。
ナイト、と馬に跨り全身にきらきら光る鎧を纏った騎士の挿絵を指でなぞりながら言葉の形を唇で作る。誰かに気付かれないよう声には出さずに、だけど口には動きを刷り込ませるよう何度も何度も声なき暗唱を繰り返す。
思えばこの時点でもう、私の気持ちは固まっていたのだろう。決め手はやっぱり海へ行ってみたいという夢を打ち明けた時。あそこで笑わず、ただ真っ直ぐに実現を願ってくれる姿にこそ、私は墜ちてしまったのだろうと思う。
「すき。すき。すき……」
私は密やかな彼への好意を、口許に知らず笑みを湛えながら噛み締める。
『これ以上、あの少年と接触することは禁じます』
感情のこもっていない冷たい声でそう告げられたのは、男の子と別れと約束を交わして自分の気持ちに浮かれながら帰って来た、その直ぐ後でのことだった。
『貴女様は人間と、あの様に関わり合うべきではありません』
どうしてと不服いっぱいに尋ねた私に、返ってくるのはこれもやっぱり抑揚の無い平坦な声。決して無感情な訳ではなくて、ただ感情の発露の仕方が人とは違っているだけなのは知っているけど。だとしてもすっかりあの男の子の感情豊かな声に耳が慣れてしまった私にとって、それはあまりにも冷たく感じられる響きだった。
『御自身の立場を、存在意義を、もう一度よくお考え下さい』
そんな言葉と共に無情に扉を閉ざされたその空間は、一人残された私の全てを抑圧せんと働きかける。
此処は正しく鳥籠だ。羽を捥いだ上で決して逃げ出すことなど叶わないよう格子で囲った狭い牢獄。閉じ込められる憐れな鳥は他でもない私自身で、自由意思を赦すことのない堅固な檻に囚われの私は感情すらも制限される。
余分なものを仕舞い込まれた箱の中。固く鍵を閉ざされたそこに、私はけれど捨てるのではなくて失くさない為に大切なものを封じ込める。
感じなくても忘れないよう。触れることがなくても消えないよう。飛ばないよう。散らないよう。厳しい風雨に晒されて擦り切れないよう。どんな時でも其処にあるのだと分かるように、大事に大事に保っておく。
いつかきっと、もう一度そこから取り出せる日が来ることを夢に見て。
次の夏。その年もまた両親に連れられこの土地にやって来た男の子に、私は姿を見せなかった。律儀にもいつもの待ち合わせ場所で私が現れるのを待つ男の子に声をかけることはしなかった。
『またね』だなんてたかが一年前に交わした口約束、忘れていても良かったろうに。むしろ忘れていてくれれば楽なのにという祈りに反して、男の子は待ち合わせ場所に現れない私のことを探し回ってくれたのに。何処を探せば良いかも分からないだろうに村中あちこちを走り回る男の子を、私は木陰の隙間から眺めていた。
何度も陰から出ようとして、何度も手を振ろうとして、何度も此処にいるよと叫ぼうとして、それでも私はしなかった。
出来なかったと、言うのはきっと言い訳だろう。
確かに監視の目には付き纏われていた。何処にいるのかは見えないけど気配まで隠すつもりがないのは丸分かりで、そうしていれば私が決して動けないことも知られている。この時の私はまだ勇気が足りなかったから。周りの皆に逆らってまで自分を貫く覚悟が無かったから。
たったの一歩足を前に出すだけなのに。
たったの一振り手をかざすだけなのに。
たったの一つ言葉を絞り出すだけなのに。
駄目だと言われてこんな風に視られていれば、弱い私はたったのそれだけのことすら出来なくなる。
悔しかった。辛かった。苦しかった。情けなかった。痛かった。惜しかった。虚しかった。恨めしかった。やるせなかった。消えてしまいたかった。そして何より、堪らないほど悲しかった。
だから私は地面へ蹲るようにしゃがみ込んで、嫌な感情の全部を溢れさせるみたいに泣いたのだ。
初めて男の子と出会ったあの時みたいに。
あの時とは違って決して男の子が私を見付けることが無いように。
私は声が漏れないように口を抑えて、声を殺して泣きじゃくった。両方の目から絶え間なく流れ出る涙は頬から顎に伝って地面に滴る。土に落ちた涙の染みはまるで雨が降ったよう。去年と違って今年はからりと晴れているのに、私の足許にだけは今日もあの日々みたいに雨の跡が遺っている。
ふと、塩辛い味が舌に触れた。どうやら拭っても拭っても溢れ出てくる涙が口の中に入ったらしい。海の味ってこんななのかなとふと思ったけど、きっと違うと首を振る。
意図せず飲み込んだ涙の味。しょっぱいようで、辛いようで、酸っぱいようで、甘いようで、薄いようで、水っぽいようで、色んな味が混ざってよく分からなかったけど、それでも一つだけ分かったこと。
私の感情の結晶は、今までに味わったことのないくらい哀しく虚しい味がした。
これが私の初めての記憶。
初めて誰かを好きになった。初めてこんなにも恋い焦がれた。初めて失いたくないと、諦めたくないと切に感じた。
だから、そう。
これは私にとっての、いつまでも終わることのない初恋の、始まりの記憶なのだった。
そしてそれはどれだけの事があったとしても変わらない。
人間の感覚で十年以上の月日が過ぎ去る中ですら。
信奉する人間が居なくなった私が消えてしまうのを防ぐ為に、別の土地から私の婚約者になるのだという相手が連れられてきた時ですら。
私が口を挟むことなんて許されないままに着々と婚儀の支度が整っていく間すら。
最後の最後の反発だと開式直後に逃げ出して、先のことなんて考えずに山を駆け下りながらすら。
私の気持ちは微塵たりとも揺らいでなんかいなかった。
……長い時間と有り余る不自由と重責は、心の箱にかけた鍵の在り処をとうに忘れさせていたとしても。
私の中にはいつだってあの男の子の影があった。私の根底にはいつだってあの男の子の言葉があった。私の理由にはいつだって、あの男の子との約束があったのだ。
だから振り返ることなんてしない。だから諦めることなんてしない。弱音は吐かず妥協もせずに、雨にも負けず風にも負けず、こればっかりは譲れないたった一つの憧れを胸に抱いて走り続けた。
──そして
そして、その道中で。
「────あ」
とても懐かしい気配を携えた少年を見かけた時、鍵は独りでに開いたのだった。




