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三都幻妖夜話 六甲アイランド編  作者: 椎堂かおる
5/5

05

 怜司の声や。それには何や、小さい鳥がさえずるような気配がする。

 俺の脳裏に、怜司のマンションで見た、暁彦様に生き写しやという本家のぼんの顔が蘇ってきた。こっちを睨みつけるような、怖い目をしてた。

 あれが、ぼんくらの坊々《ぼんぼん》の顔やろか。ほんま言うたら俺には正直、そういう風には見えへんかった。

 迂闊には近寄ったらあかん奴の目や。捕らえられてしまう。

 あいつが、あいつと同じ顔をした男が、鬼みたいな鉤爪のある手で、もがく小鳥を握りしめてるような気がした。

 怜司は、苦しんでる。ずっと苦しそうや。なんで逃がしてやってくれへんのや。

 もうとっくに死んでんのやったら、もうええやんか。もう、あいつのこと、放してやってくれ。

「京都といえば、もうすぐ祇園祭ですね」

 あっけらかんと明るい女の声が、突然ラジオから喋った。

「そうでしたっけ」

 場違いなまでにあっさり響く怜司の美声が聞こえた。綺麗な声や。いっぺん聞いたら忘れられへん。

「行かれたことありますか、湊川さん」

「ありますよ、大昔やけど。仕事でね」

ほこ引いてたんですか?」

「なんでやねん、そんなことするタイプやないでしょ」

 はははと軽快に笑う怜司の声は、元気そうに聞こえた。

「私、行ったことないんです。行ってみたいんですけど……」

「気をつけたほうがいいですよ」

 笑いながら、怜司が女をいさめていた。

「えー何をですか」

「危ないお祭りなんやもん。運命の人と出会うたりしますよ」

「えっほんまですか? ぜひ行かな!」

 急に方言丸出しになったアナウンサー声の女は、怜司の話を真面目に取ったみたいやった。それをからかってるだけなんか、怜司は笑っていた。

「湊川さんも出会ったんですか、運命の人」

 期待たっぷりの女の声がして、また笑い声がした。そんなこと聞くな。聞いてどうすんのや。

「そんなこと聞くんや」

 怜司もそう思ったんか、びっくりしたような声やった。

「そら聞きますよ」

「出会うたけど、何だかんだして、別れましたわ」

「今めっちゃ省略しましたね」

 不満げに女は言うた。口を尖らせる顔が眼に浮かぶようやった。

「あっけないね、省略すると一秒もない話や」

「それほんまに運命の人やったんですか?」

「違うかったらびっくりやな」

 はははと乾いた笑い声をたてて、怜司が驚いている。そら、びっくりやろうな。

「あっさりしすぎなんですよ、湊川さん! 何か無いんですか、もっと、リスナーが喜ぶような濃いい話は!」

「あほちゃう京子ちゃん、はよご投稿のメール読みなさい。リスナーさんの恋話コイバナ聞くコーナーなんやろ、俺のん聞いてどないすんねん」

「皆さん聞きたいですよね?」

 聞きたない。

 でも女はめっちゃ聞きたそうやった。

「京子ちゃん仕事せえへんから俺が読も。東灘区のマスカットバナナさんより。なにそれどんな味やねん……高校の時から付き合ってる彼がいます。彼が進学で東京にいってしまい、私だけ地元に残ったんですが、大学で好きな人ができました。彼も私が好きみたいで、デートに誘われたんですが、東京の彼のことを話して断ったほうがいいですか?」

「モテますね、マスカットバナナさん」

「美味いんかなそれ」

「彼氏どうしましょうね?」

「両方食うといたら? マスカットとバナナと同時に食えるんやったら、まあ、可能でしょ」

 絶対ヤル気ない、お前一ミリも考えてへんやろっていう声で怜司が答えてた。そもそもお前が人間の恋愛相談に乗るというのが噴飯もんやわ。

 それは人間どもにも噴飯もんみたいで、相方の女アナウンサーめっちゃウケてた。

「湊川さん、また苦情の電話ジャンジャンバリバリ鳴りますよ。運命の人の話したほうがマシです」

「そんなことないって。女子大生が二股かける話しようよ、京子ちゃん」

「まだかけてませんから」

「大丈夫やで、マスカットバナナさん。彼氏も東京で浮気しとうし、おあいこや」

「ほんま最低ですね。彼氏は浮気なんかしてません! ちゃんと話して、ケジメつけたほうがいいですよ、えーと、マスカットバナナさん」

「美味いんかなそれ?」

 興味なさそうに怜司がまた言うてた。

「今度食べてみましょか」

 にこやかに女が応対してた。できた女やなあ、怜司を適当にあしらえるとは。妖怪ちゃうか?

「京子ちゃんええ子やなあ、いつも感動する」

「ほな結婚します?」

「せえへん。俺、運命の人おるから」

「その話しましょうよ。何で別れたんですか、運命の人やのに」

「死んだもん」

 けろっと言う怜司に女がうぐってなってた。

「めっちゃ重い話やないですか、それ」

「そやから省略したのに京子ちゃん空気読まへんのやもん。また苦情の電話ジャンジャンバリバリ鳴っとうで。湊川さんが可哀想です! あの女ぶっ殺せ! いうて今頃もう局の出口に暗殺者アサシン五人ぐらいおるね」

「ぶっ殺されますね」

「大丈夫や。お前が死んでも代わりの後輩とよろしくやるから、安心して逝ってくれ」

「ほんま最低ですよね湊川さん」

「ごめんなー」

「それで運命の人はどんな人やったんですか?」

「折れへんね、京子ちゃんは!」

 京子ちゃん妖怪やろ。少なくとも俺の百倍は強いね。怜司の出てる番組なんか聞いたことなかったんやけど、こんなんでよく成り立っとうな。

「ほんなら言うけど、運命の人って一人だけなもんなん? 京子ちゃん」

「うわっ、突然なに相談してるんですか」

「いや、最近ほんまに悩んでんのやけどな、こいつもしかして運命の人ちゃう? っていうのが一人やないんですよ」

「えっ、最近も居るんですか?」

「居るねん、けっこう」

「けっこうって何人いてるんですか……」

「十五人とか?」

「変にリアルな数字やめてくださいよ。普通、運命の人なんて片手の指に収めるのが常識でしょ」

「ほんなら一人やけど」

「来た来た! いい話ですよね、それ! 皆さん、湊川さんがやっといい話しますよ!」

 一人って誰やねん。佐川男子か。

「そいつと今日別れてん」

「嘘っ。それ最悪の話やないですか!?」

「そうやろ? せやから俺、マスカットバナナさんの恋話コイバナに乗ってる場合と違うんやないかと思てさ。マスカットバナナさんは東京と神戸で二股かけとけばええやん。そんなん人に相談することちゃうで、勝手にせえやで。俺の気持ちもちょっとは考えて。その一もその二も両方生きてるだけ幸せやで」

「湊川さんなんて、その一死んでるんですもんね」

「そうやねん。でも俺、その一の方が好きやねん。何でか知らんけど。死んでるからかな?」

「それはあるかもしれませんね」

 京子ちゃんは真面目にしんみり答えていた。居酒屋で飲んでる女子みたいなノリやった。

「でもそういうの、困るやろ、その二のほうは。お前、その二やけどええかって言われてもさ、ええわけないやん」

「そうですかね。湊川さんやったら私、その二でもいいですけど」

「結婚する?」

「えっいいんですか?」

「冗談やろ。空気読めるようになりなさい、京子ちゃん」

「えー」

 女はほんまにガックリした声で言い、何か落としたらしくて、ドサドサいう音が電波越しに伝わってきてた。あーあー言うて慌てて拾ってる気配がする。もうグダグダや。

「その二でええかって言う男と付き合うたらあかんよ」

「うん、まあね、そうですね」

 しみじみと納得する京子ちゃんの声が重たい。

「せやしマスカットバナナさんもね、両方付き合うとけいうのが無茶苦茶やと思うんやったら、もう無茶苦茶しとうから、気いつけや、いう話ですね」

「あっ、そこへ帰ってくるんですね」

「それが仕事ですからね。綺麗に話まとめとかんと、苦情の電話ジャンジャンバリバリかかってくる言うてディレクターのおっちゃんハゲてきとうやろ。可哀想やなと思って、反省しとうねん」

「嘘ですよねそれ」

「嘘です」

 はははと軽快な男女の笑い声がラジオの中から響き、時間が尽きたようやった。

「そろそろお別れの時間になってしまいました」

 仕事用の美声で、怜司が朗らかに言うてた。

「最悪でしたね、湊川さん。今日の生放送も」

「いい仕事しましたね」

 台本かなんかをさっさと片付けるガサガサ言う音をマイクが忠実に拾っていた。

「もう帰る準備してますからね。まだあと三十六秒ありますよ湊川さん。その二はどんな人なんですか」

「人いうか虎ですね」

「えっ。あと二十五秒。人類じゃないんですか? もうちょっと誤魔化さないで何か言うてください」

「明日はまた雨になりそうですね。神戸は朧月夜です。今夜も聞いてくれてありがとう。愛してるよみんな。犬に噛まれんように気をつけて、楽しい週末をお過ごしください。ごきげんよう」

「わざと時間使い切りましたよね? もう! それでは皆様、ごきげんよう。湊川怜司と櫻井京子がお送りしました。また来週もこの時間にお会いしましょう……」

 無理やり被せられた終わりの音楽の途中で、蔦子さんがブチッとラジオの電源を切った。

 余韻も何もあらへん番組やったな。強いわあ、櫻井京子。

 俺もうちょっとマトモなん想像してた。なんでこんなのが人気あんのやろ。人間て分からんな。

「あんたの話、しとりましたやろ」

「その二か。俺らいつ別れたん。デキてもないのに」

 しょんぼりとして俺は答えた。デキてないでほんまに、その他大勢の一人やったで、俺は。

「あんたが一喜一憂するだけの脈はあったということどすなあ」

 しれっとして、蔦子さんはそう言うて、しゃなしゃなと衣摺れの音を立てながら、また俺の向かいの席に戻ってきた。

「ひどい話や」

 俺はジトッと言うた。蔦子さんと話してなければ、俺はまた違ったふうに、この放送を聞いたのかもしれへん。アホやから。ジャイアントスイングで脳みそグチャグチャなっとうからな。あいつ俺のこと、運命的な相手やと思てたんやって。ワーオ! ってなってたかもしれへんのに。

 二番やけどな。むしろ代打やけど。代打でええやん。ホームラン打てばええやん。それが俺の独りよがりでも、俺にも満塁逆転ホームランのチャンスはあるかもしれへんやないか、って。

 でもあいつが公然とそんな話をするんは、もう、そうは思ってないからやろう。運命かなって。もう思ってないんや。たとえそうでも、あいつは、その一のほうが好きな自分に気づいたんや。

 そして俺にはもう、それを逆転することはできない。あいつはもう、決心したんや。たぶん、今朝のあの時、六甲アイランドのマンションで。俺と最後に話した時に。

「怜司は死にたくないから、俺を捨てることにしたんか?」

 下手こいて虎とデキてもうて、消えてしもたら敵わんわって。

「そうやないと思いますえ。本人が理由わけを話してましたやん。その二でええかって言う男と付き合うたらあかん、て。あんたの幸せを思うてのことやろ。心底想うてる相手に一番に想われへん辛さは、あの子も骨身にしみて知ってるんやから、あんたにはそういう思いをさせとないんやろな」

 幸せ?

 確かに別れ際、そんな話してたな。俺はあいつに言うてもうた。お前といて幸せやと思ったことはないって。

 でも、それは……。

「余計なお世話や」

 あいつ、俺も今夜の放送を聴いてんのやないかという心配は全然せえへんかったんかな。それとも、あれは俺に聞かせようと思って言うてたんやろか。公共の電波を私的に使いすぎ。どうせ言うなら何かもっと、気の利いたこと言うてくれたらええのにな。

 クソ。怜司め。なんやねん、あいつ。

「自分かて坊々《ぼんぼん》の妾のくせに、よう言うわ。その二どころか背番号何番やねん、あいつ」

「そやなあ。怜司やったら、二十五番くらいやおへんか」

「最悪やろ」

 吐き捨てるように言う俺を、蔦子さんは苦笑して見ていた。

「自分はそんなんでええって、変わろうともせんくせに、俺には二番はやめとけ言うんか。ムカつくわ! 尻軽のくせに真面目ぶりやがって……」

 なんや急に腹たってきて、俺は蔦子さん相手に声を荒げてた。蔦子さんなら笑って聞いてくれる。いつもそうや。どんな怨嗟も、この人なら全部受け止めてくれた。そういう甘えが、俺ん中にはずっとあって、蔦子さんに寄りかかってたんかもしれへん。

 けどそれは、無様や。蔦子さんに無様な奴やと思われとうない。そういう、ええ格好したい思いだけで、俺は言葉を飲み込んだ。テーブルの上にある自分の手が、また硬く握り締められてるのを見つめて、俺は乱れた自分の呼吸を数えた。

「あんたはええ子や、信太。怜司も、あんたのそういうところにほだされたんどすやろ。不覚にも……」

 蔦子さんはまた、握り締めた俺の手を、ぽんぽんと優しく叩いた。

「ええことや、それは。あの子にとっても救いや。ただただ帰らぬお兄ちゃんを嘆いて生きるだけでは、あの子も虚しい」

「でも結局そうやん。暁彦様、暁彦様いうて泣いて暮らしたいんやろ、あいつは。それが結論なんや」

「せっかちどすなあ、長生きやのに。待てば海路の日和ありって言いますやろ。怜司も大戦中、大きな傷を負うたんどす。それを癒すには時間がかかる。今はまだ、そうっとしておくべき時や」

 蔦子さんに握られている手を見下ろして、俺は考えた。

 そうっと?

 霧か霞でできてるあいつが、掻き消えてしまわへんように。

 ぎゅうっと強く抱き締めたくても、あれは幻や。強く抱いたら壊れてしまう。

 そう思うと、確かに亡霊のような奴や。妄念だけが生き残って、ぼんやり待ってるような。

「他のにしなはれ、信太」

 潜めた声で、蔦子さんが俺に忠告した。それとも命令したんか。俺は蔦子さんとまた見つめ合った。

「怜司は、あんたのものにはなりまへん。諦めるんが分別ふんべつや。二度と会うなとは言いまへん。付かず離れず、戯れるんはあんたの自由やで。そやけど、あんたも言うてたように、あれはお兄ちゃんの想いものやの。その心まで奪おうとしたら、あかんえ」

 蔦子さんの話を聞いてると、戦死したという本家の当主が、まだ今も生きていて、いつまた怜司のところに通ってくるか分からへんみたいやった。

 蔦子さんも、待ってるんや。本家の坊々《ぼんぼん》が帰ってくるのを。

 俺は急にそれを悟って、驚いて自分の女主人を見た。

 帰って、くるんか? 蔦子さんにはそれが、見えてんのか?

 ずっと泣きながら待ってるあいつのところに、暁彦様が戻る日があるっていうんか。あいつが例え二十五番目やったとしても、秋津の式は戦争で全部くたばったんや。今や怜司の、一人勝ちやで。

 それを想像すると、俺には怖かった。あの男が戻ったら、怜司は悩みすらせえへんやろう。その一にするか、その二にするか。両方食うとけと思いはするかもしれへんけど。自分の心は誰のものなのか。

 それはもう、悩むまでもないことや。

「あんたを必要としてるのは怜司だけやない。信太。自分を活かす道を考えなはれ」

「そんなもんあるとは思われへんわ」

 俺は恨みがましい目で蔦子さんを見た。そんな簡単に言わんといてくれ。こっちは振られたばっかりなんや。

「おやまあ。ずいぶん弱気な虎さんやこと……」

 ふふふと笑って、蔦子さんは言うた。

「あんたには、あんたの運命があります。それが怜司とは別の道でも、定められた流れなら、逆らいようがないのや」

「なんです、それ。予言?」

 聞いてもどうせ、蔦子さんは教えてくれへんのやけど、何か掴んでるらしい女主人のことを、俺はじいっと期待の目で見た。未来が見えてるって、どんな感じなんやろう。蔦子さんも、その血を受け継ぐ息子の竜太郎も、息するみたいに未来を見るけど、それは物の怪である俺らから見ても、不思議不思議や。一体、どないなってるんか。

 不意に、床を摺足で歩く眠たげな足音がして、ダイニングルームと廊下を繋ぐ引き戸が、がらりと開いた。蔦子さんと俺がそっちを見ると、目をこすりながらボサボサの頭の寛太が立っていた。

 寛太は俺がちょっと前に長田で拾ってきた不死鳥や。まだまだ雛で、見た目は人間の大人みたいにはしてるけど、中身はアホな餓鬼んちょやねん。中一の竜太郎とええ勝負やわ。

「兄貴、帰ってたんか……」

 ふらっと部屋に入ってきて、寛太は蔦子さんに断りもなく、さも当たり前みたいに俺の隣の椅子に座った。

「どないしたんや寛太。喉でも乾いたんどすか」

 優しい口調で、蔦子さんは寛太の話を聞いてやっている。

「目え覚めたら兄貴の声したから、来てみたんや」

 さすが鳥だけに、寛太は生まれてすぐに見た俺のことを、親かなんかと思ってるらしくてな、ときどき訳もなく後追いするねん。いつまでもそれでは困るんやけどな。なんせ、蔦子さんが神戸復興のために役立てようと飼うてる不死鳥や。俺はその世話を仰せつかってるわけやけど、寛太は餌食うばっかりで、一向に何かの役には立たへんねん。

 まあ、ええけどな。可愛いから。でもそれだけやとなあ。本人もつらいやろ。つらそうにしてるの見たことないけどな。いや、まだほら、餓鬼やから。

「なんの話しとうのや」

「お前には関係ない話や」

 いきなり首突っ込んでくる寛太に、俺はビシっと言うた。関係ない話やろ?

 寛太はにこにこして俺を見るだけで、何も言わへんかった。

「この子、似てますな」

 蔦子さんが、もう冷めきったお茶で喉を潤しながら、ぽつりと言うた。

 お茶、入れ替えよかなと考えていた俺は、その話についていかれへんかった。

「ん、寛太が? 誰に?」

「怜司や。この子、あんたが拾てきたとき、顔がありまへなんだやろ」

 えっ、そうやったっけ? 寛太、のっぺらぼうやった⁉ そんな記憶はないけどな。顔あったで、ちゃんと……と、俺は思い出そうとしたけど、記憶を遡ってみても、よう思い出されへんかった。今、目の前にいてる寛太と、同じ顔やったはずや。いくら妖怪でも、そうコロコロ顔変わったりせえへんもんやで、そういう特殊系なの以外はな。

「そうやったやろう、寛太」

 蔦子さんはにこにこと、寛太に問いただしたけど、寛太はにこにこして、首を傾げただけやった。

「おぼえてへん」

 ぼんやりと、何も考えてへんみたいに、淡い表情を浮かべている寛太の顔は小作りで、華奢やった。ふにゃっとした細い赤毛が肩までのびてて、炎のようにその白い顔を縁取っている。怜司には、似てへん。あいつこんな顔せえへんもん。いつも怖い顔しとうで、性格キツいんやから。

 そやけど、言われて見れば、薄い唇に、睫毛の長い切れ長の目とか、似てへんこともないんかもしれへん。あんまり似てへん兄弟か親戚ぐらいには似てんのか? やっぱ、あれか、鳥類つながり? 鳥系はみんなこんな感じなんやろか。なんかこう、風吹いたら飛んでいきそうなんやな。

「兄貴、一緒に寝よ」

「俺まだ寝えへんで」

 まだまだ宵の口や。なんで寝なあかんねん、餓鬼か。

 隣りにいる寛太が、俺の腕に自分の腕を絡めてきて、甘えかかるんで、俺は参った。

「アホ言うとかんで、蔦子さんにお茶入れろ、寛太。お前もそれくらいできるんやろ?」

「かましまへん、うちももう湯に行くさかい。二人でゆっくりしなはれ」

 寛太のいれたお茶飲まされたらかなわんて思たんか、蔦子さんは素早く椅子から立った。風呂はいるんやって。そのまま蔦子さんは、いつも身の回りの世話してる妖怪の名を呼びながら、ダイニングルームを出て風呂場の方にいってしもた。着物の帯を解くのに、そいつの手がいるんや。何や、ぼーっとした白い着物きて立ってる、もの言わんやつやで。蔦子さんが京都から連れてきた、子供の頃から居るやつで、着物着せたり、髪結うたり、風呂で背中流したりするだけのやつで、普段はどこに居るんやら、蔦子さんが呼ばな出てけえへんねん。

 蔦子さんから、予言の話、聞きそびれたな。

 まあ、ええわ。またの機会もあるやろう。

「はらへったわ、兄貴」

 俺の腕に食いつきながら、寛太がそう強請った。

 今日の餌まだやったっけ。俺が留守やったし、誰かが代わりにやったやろうと思ってた。

「キス、して」

 頬を寄せてくる寛太の赤い唇からは、かすかに、飴が灼けるような甘い匂いがした。

 拒む理由も別にあらへん。俺は寛太のひょろっと細っこい首を引き寄せて、唇を重ね、餌やるために霊力の口移しをしてやった。寛太の舌が、唇を合わせたまま、それを舐めてる。抱きしめて、深いキスを重ねると、寛太の息が荒くなった。喘ぐような息をつく身体が、すっぽり俺の腕に収まる大きさや。

 あいつも、これぐらいやったらええのにな。丁度ええのに。

 考えるともなくそう思って、俺はふと、今朝のことを思い出した。怜司はキスを受ける時、首をかしげる癖がある。

 キスをほどいて、寛太の顔を見ると、それと二重写しになるような、全く同じ角度で首を傾げた寛太が、濡れた唇で、うっとりと俺を見ていた。

 偶然や。

 そう、心のなかで呟いたけど、何かが腑に落ちへんかった。

 潤んで煌めくような目をした寛太の、上気した肌は扇情的やった。

 昔、誰かが教えてくれた。俺がまだ中国の宮廷の虎やったころや。宮殿ののきつばめが巣を作り、親に餌をねだる声で鳴く。燕の雛の口の中は、鮮やかなあかで、それは燕の親心を煽るんやそうや。雛は可愛い。それは、親に餌を運ばせるためや。

 寛太の赤い唇を見てると、その話を思い出す。

「兄貴、抱いて。今日は兄貴がおらへんから、寂しかった」

 切なげに言う寛太の甘い息が、俺の耳元にかかり、抱きついてくる肌の滑らかさが、ゆっくりと欲を煽るようなのが、今日はどこか遠くに感じられた。

 あいつが、こんなんやったらええのにな、って、俺はときどき思ったのかもしれへんな。お前と抱き合いながら。

「お帰り、兄貴」

「ああ……ただいま」

 ここが俺の帰るところなんやろか。こういう気分をなんて言うのか、俺には分からへん。

彷徨う視線の俺の頬を、寛太の冷たい手がとらえて、自分のほうを向かせた。

「兄貴、こっち見て。俺のこと、見て」

 腕の中から俺を見ている寛太の、宝石みたいな目を、俺はじっと見下ろした。強い霊力を持っている者だけが放つ光が、寛太の目にはある。こいつはただのアホの鳥やない。何か、特別な力を持った、何者かや。

「お前はいったい、どんな化けモンになるんやろな? 寛太……」

「俺は今のままで、兄貴や皆と居れたらええねん。化けモンにはなりたない」

「そんなこと言うな。いつまでも雛のままでは困るんやで」

 ぐしゃぐしゃになってる寛太の髪を撫で付けてやりながら、俺は説教した。

 でも多分、言いたかったのは、そういうことやない。

 お前には、怜司みたいになってほしくないんや、俺は。

 俺があいつを好きなのは、あいつがあんな風やからやない。ほんま言うたら、あいつにも、お前みたいに毎日にこにこしといてほしいんや。幸せでいてほしい。あいつを、そういうふうに変えられるのが、俺でなくても、まあええわ。幸せそうにしててくれたら、そのほうがええねん。

 だから、お前はいつも、幸せそうに笑っててくれ。わかるやろ、寛太。お前の泣き顔は、もう見たくないんや。

 寛太を見つめて、俺はそう祈った。そういう俺を見上げて、寛太はじっと聞いているように、何度か目を瞬いた。

「うん……わかった。俺がんばるわ、兄貴」

 寛太はそう言うて、急にぱあっと、花が咲いたように満面の笑みになった。

 胸の奥が、ぎゅうっと痛くなるような、愛おしい顔やった。

 それを見下ろして、俺は考えないようにした。これがあいつやったら、ええのにな、とは。

 見たことない。結局。怜司が心の底から笑うてる顔は。俺は見たことがない。

 たぶん、あいつも、ほんまに笑うたらもっと綺麗なんやろな。きっと、こんなふうに。愛おしく思えたんやろう。

「寛太、お前は神戸の不死鳥になるんやって。蔦子さんがそう言うてた。その時まで、俺がお前を、ちゃんと面倒見てやるからな。がんばるんやで」

「うん、ありがとう」

 ぎゅっと俺に抱きついてきて、寛太はまるで、俺がいないと死ぬみたいやった。

 寛太の強い腕に縋りつかれながら、そういう相手がいる者の、罪の重さみたいなものを、俺はじわっと想像した。暁彦様は、あいつを捨てていく時、いったいどんな気持ちやったんやろな。

 そんなもん、全然わからん、わかってたまるかと、昨日までなら思ったやろけど。

「なあ、兄貴……早うしよう。ここでええやん。もう抱いて。ずうっと待ってたんやで」

 どこかで覚えのあるような性急さで、寛太が俺の服を脱がしてる。

 明日は雨かなと、ぼんやり思った。今夜は朧月夜やて、ラジオの声が言うてたな。

 そやけど、この部屋からは、月は見えへん。

 もうあの月を、見なくてよくて、俺はどこかほっとしていた。

 のけぞる寛太の白い首を唇で撫でると、寛太は甘い声で鳴いた。どことなく、あいつに似てる声やった。



【完】

2017/09/25 初稿

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