ケモノエチュード
えいねるは奇妙というものを怖がる。それは子供の頃に見たサーカスのピエロに泣き出したころから始まって十年来、その場にそぐわない、違うということを怖がる。何故かは本人も解らない。ただ解るのは、その奇妙は時に危険を連れてくるかもしれないということ。
夕暮れの坤高校。保健室。消毒薬の匂い、清潔感のただよう白い内装。窓から赤光が差し込むその室内。
善通寺吉宗はその肩幅の広い裸身をさらけだしていた。不健康なまでの青白さでありながら、しっかりと堅い質感を残す筋肉。ちなみにもち肌。彼の体に包帯を巻きながら頼島えいねるは目のやり場に困っていた。もちろん怪我の箇所を見るべきなのだがたった二日前まで赤の他人だった人間(厳密には人間ではないが)の、しかも結構意識してしまった異性の肌を見て眺めて触るというのは思春期末期の女の子からすればそれなりに赤面もので。
保健室に入るといきなり服を脱ぎだした吉宗。
「ちょ、ちょっと善通寺さん? 何脱いでるんですか!」
「はーいー?」
彼の方は自分に肌を見られても平気らしい。(というか昨日全裸を見ている。パンダの時けど)それはそれでちょっとショックだったり……。まあそうも言ってはいられない。彼女が手を止めても出血は止まってくれないのだ。
吉宗の二の腕から流れ出るそれは、やっと今止まってくれたがそれでも、生々しい痛みを表現し続けている。
あの後。それは簡単に説明すれば下級生に襲われていたえいねるを庇った吉宗がかわりに腕を咬まれて血を流した。ただそれだけ。けれどそのそれだけがとある高等学校の放課後の場景にしては面白いことになっている。
彼はへらへらしていた。人間型に戻った後もその笑みを変えぬまま同じ風に人間の姿に戻った『彼女』を抱きかかえ、「うーんー、ちょっと痛いーかーもー」
こんな時はどう反応すればいいのかな? ……うん。
「か、会長! 大丈夫なんですか?」
「大丈夫だーよー」
と、また特に意味もない質疑応答のあと一行は保健室へと向かう。
彼と彼女を先導し、生徒会室を出て保健室までやってきて、そして不安になる。
さすがに血まみれの男女を保健室に連れ込んだりした日にはどんな噂がたつかわから無い。第一廊下を歩く最中に誰かに見つかったという可能性もある。けれどそれは杞憂であろう。
放課後、しかも執務の差し支えにならないように生徒の出入りの少ない棟にある生徒会室から生徒に危険が及ばないように最も隔離された保健室まで、人がいるための用件がない。幸運なことに誰とも出会わなかったし、保健教諭は席を外していた。
吉宗を椅子に座らせ勝手に服を脱ぎだしたのでできるだけ見ないように、しかし横目でちらりと確認しながら、棚やら箱やらをあさって出てきた包帯やら消毒液やらその他諸々をかき集め治療を開始したわけだが、普段から治療行為が身近ではないえいねるの手当が果たして的確といえるのか?
わからない。しかし、しないわけにもいかない。吉宗は言われたままに両手を上げたり口を開けたり聴診器を胸に当てられたり、とりあえず黙ってされるがままにされていた。
「あの、痛みますか?」
最終的に血をふき取り消毒をしガーゼと包帯で傷口を密閉する手段に出て、そしてその行為がほとんど終わったところでそう、聞いてみた。
「痛くなーいよー」
顔をしかめながら言ってくれる。こういうときに本音を言ってくれる人は少ないし、多分、なんとなくだが「痛い」とは言ってくれないだろうな、とは思っていた。
「ツバでけとけば治るーよー」
でもそれはさすがにない。普段野外活動をたしなまないえいねるにだって彼の怪我が、ただで済まないことくらい解る。
なのに彼は痛むそぶりを見せない。
人間という生物種なら耐えられるはずのない痛みが、あるはずなのに。あるべきなのに。人間なら。その言葉が、これほどえいねるの心に空々しく聞こえたことはなかった。目の前にいるのは、人間ではないもの。
「えーとー、どこまで話したんだっけー?」
彼にはシチュエーションというものはないのだろうか?思い詰めた様子のえいねるを無視して、いやきっとそんな彼女の表情を察してのことだろう、突然口火を切る。えいねるは何かを色々と言いたく、何かを色々と聞きたかった。けれども、やっぱり周りに流されるままに答えるだけである。
「えーとー、どこまで話したんだっけー?」
「島田燕さんが私達と同じような、つまりその妖怪だということと」
そして
「変身を抑えられないひと、と言うことまでです」
言った。吉宗は
「そーだったねー」
思い出した、と言わんばかりの発言。多分本当に忘れていたのだろう。……まあいい。
吉宗は視線を一度三つ並ぶ白いベッドへと移す。
併せて動かしたえいねるの視界にも、彼女の姿は映る。三つ編みお下げの少女が一人。その左手にはグローブをはめて、それまでの自尊も虚栄もなく覇気のない、年相応以下の不安を覗かせる、うなだれた様子。島田燕。槍手は、沈黙していた。
「燕ちゃん」
間延びしない、はっきりとした声、だったように思う。えいねるはこれから先、吉宗とそれなりの親交をもつことになるが、会話文の中に『ー』が入らなかったのはこの時が初めてで、最後だったと思う。
その声に、どこか憔悴した、やつれた態度でありながら顔をあげた燕。口の周りの汚れは、えいねるが拭き取っておいてあげた。その時はまだ気をうしなったようにぐったりしていたが、今は起き上がるだけの元気を取り戻したようだ。保健室の隠し扉の奥から発見したなんだか不思議色をした栄養剤を飲ませた効果だろう。多分。心ここにあらずと言ったふうに、それでも吉宗の命令に答えるように、「はい」と聞き返した。吉宗はそれでも全く変わらない態度。真っ黒な目の周りの中で、最も深い色をした眼球虹彩部分を燕に向けて
「いいよーね?」
燕が頷くのを待って、吉宗は体の向きをえいねるに向ける。
「頼島さーんー」
「はい」
「できればご内密な話ー」
そういうことはできればご内密なままで私に漏らさないで欲しかったがそうも言っていられない。これは、えいねるの問題だから。
「燕ちゃんはーねー、頼島さんに悪意があってー、襲ったんじゃないんだよー」
彼女の言動を思い出す。
『貴様、見たな』
『生かしておけん』
『死んで貰う』
うっそだー
そんな顔をしていたのだろうか?
「『うっそだー』って顔してるねー、でも本当なんだーよー」
そして、答えを言った。
「燕ちゃんはねー、人食いなんだーよー」
いきなり過ぎるだろ
はて、ひとくい?
ひとくい。
人食い。
え、と。こんな時はどんな反応するんだったかな……。うん。
「ええええええええええええ!!」
驚愕。そして恐怖。
その突然の叫声に吉宗、そして燕が身をすくませた。
しかしそんなことにお構いなくかなり身構えながら燕の方を向くえいねる。『人食い』などと言う単語をそう簡単に真に受けていいのかは議論の及ぶところかもしれない。しかし、とりあえずこれまでの事件色々からの展開予想、実際に襲われたという既成事実。そして島田燕に対する未知の恐怖感。そして、きっと、おそらくは、えいねるの獣人としての血が、その四文字に反応した。これほどぴったりと、分かり易く、侮蔑の称はないだろう。
人食い
「うえええええええええ??」
えいねるはあからさまに怯える。
「ひ、ひ、人食い、って、それじゃあ、ま、まさか」
ならば、えいねるは、あの時本当に食べられようとしていたのか?
吉宗は、いつかのように手を顔の前に持ってきて、ちゃうちゃうと横に振った。
「違うーよ、燕ちゃんは人なんて食べないよー」
そうは言っても。
「で、でも私思いっきり食べられそうでしたけどー、かなり悪意たっぷりに」
ふるふる、と吉宗は首を振る。
「その悪意がー燕ちゃんのものじゃないんだよー」
「それってどういうことですか。じゃあなんで島田さんは私を……」
「だからそれはねー」
話を続けようとする吉宗は、そこで言葉を止めた。
特に何か意味があるとは思えない停止にいぶかしく感じたえいねるは、同じく停止して、そしてそれを聞いた。
しくしくしく
なにか湿っぽい音が聞こえる。
「ぐすっ、ぐすっ」
それはすぐ近くから聞こえる。
振り返る。
見た。
泣いていた。
燕が泣いていた。
両手で顔を覆い、思い切りに嗚咽している。
さっきまで茫然としていた彼女が、いつの間にか泣き出して、そして、保健室を飛び出した。狼狽するえいねる。しかし、すぐに理解するえいねる。
簡単な絵解き。
「あーあー、なかしちゃったー」
吉宗の発言。こういうところはデリカシーがなかったりする。いや、ただ子供っぽいだけか。
「あの、私何かまずいことしました?」
わかっているのに、何となくわかるのに、聞いてしまった。ご丁寧に、彼は答えてくれた。
「燕ちゃんはーね?自分のそーいう所を悩んでいるんだーよ」
放課後。二人きり。保健室。
「頼島さんは、僕達のことをどこまで理解してるーの?」
「僕達って、善通寺さんや島田さんのことですか?」
首をふるふると振る。
「ケモノ人間のことだーよ」
そこでとりあえず一昨日父と母(ああ、思い出すだけでぞっとするあの馬鹿ップル)から聞いた一部始終を出来るだけ端的にかいつまんで話す。もちろん自分の出自のことと母の二つ名は見事にぼやかせて。
「うーん、全然知らないんだーね?」
ということだそうだ。
「ケモノにーはー、二つあるんだーよ」
吉宗の目が細まる。果たしてそれが獣であるのか、化物なのか。
「人を食べないケモノとー、人を食べていたケモノー」
さらりと、言う。
「そして燕ちゃんはー」
そこで黙る。もう言わなくても判る。
後者。
「燕ちゃんはー、人を食べる妖怪の子孫なんだーよ。というよりも、人を食べなければ生きていけない、そういう妖怪だったんだーよ。でも、僕達のおじーさんやおばーさんがこの町にやってきた頃からー、人を食べるのはやめよーって運動が始まってー、燕ちゃんの一族は人食いをやめたんだーよ」
父と母の言葉。坤にも獣人の子供がいる。という話。
「けれどーね、それでもーね、時々、昔の血がたぎって、どうしても、我慢できなくなって、人を食べたくなるんだーって」
あの時の、燕のした金色の瞳を思い出す。あれは、人間の目ではなかった。そして、獣人のものでも。
「『元』人食いのひと達はー、みんなその症状を抱えててー、燕ちゃんもー、そうなんだーって」
燕は確かに言った。『じゃああなたの目の前にいる化け物は何よ』と。あれは自嘲などでは、ない。
「その時が来たら、誰彼見境無くー、殺りたくなっちゃうんだってー」
さらりと、言う。
さらりと言って、丸椅子を回転させ吉宗は自分の背中をえいねるに見せた。
「な、何なんですか? これ……」
パンダのときは体毛で見えなかったがそこには、何か尖ったものでひっかいた、いや、切り裂いたような跡がある。新しいものではないと思う。そう、一ヶ月くらい前の、そんな傷。
「これはねー、先月の『その時』の傷ー」
さらりと、言った。言うが、しかし、それがどういうことを意味するのか。わからないではいられない。
『その時』。
吉宗はいつもあのようなことをしているのか? 燕はいつもあのようなことになっているのか? 今、目の前にいる彼氏がいつも燕をそばに置く理由。校内にいる間、いつ暴走を初めてもおかしくないから、いつも一緒にいるのか? 屋上で背中を掻いていた。傷口が痒いから。燕のつけた傷口が痒くて、掻いていたから、燕のいないところを探して、屋上にいたのか。
「一月に一回くらいねー、燕ちゃんは人食いに戻っちゃうんだー。その時は僕が変身して押さえつけてるんだーよ」
そして、後ろを向いたままカッターシャツを着始める。痛まないのだろうか?そんなはずはないが、それでもきちんと両腕を使っている。できれば悪化するから着せてあげると言いたいのに、言えない。
「お薬はあるんだーよ、そういうむらむらした気持ちを抑えてくれる薬ー。でもそれを使い続けると効果が薄れていって、その内効かなくなるんだよねー。しかも燕ちゃんは学校に通いたくて、お医者さんに無理言ってー、普通の二十倍もの量のお薬飲んでるんだよー。だからいつ薬が効かなくなってもおかしくないからー、いつ……」
言葉が途切れた。シャツの一番上のボタンが閉じにくいらしい。たしかおろしたてのシャツはそうだったような気がする。最後のボタンが閉じると言葉を続ける。
「いつー、人を殺すかわからないんだよねー。燕ちゃんは人が好きだからー、とっても怖いんだー。いつか自分がー、人を食べたい気持ちを抑えられなくなってー」
こちらを向いた。
「食べちゃうんじゃないかってー」
それでも、吉宗は笑っている。けれど、それが果たして笑顔なのか、えいねるにはわからなくなってきた。
「でも大丈夫だーよ。いつも、学校の中では僕が彼女の側にいて、最悪にはしないって約束を学校としてるからー、だから、わかってあげて欲しいんだー。怖いかもしれないけれど。燕ちゃんのことー、嫌いでも、お願いだからー、怖がらないであげて欲しいんだーよ」
そして吉宗は会話を途絶る。途絶ざるを得なかった。
そしてえいねるは沈黙を破れない。破るべき題材がない。
その現状をごまかすように、畳みかける。
「頼島さんにー、言ったよねー。損得で友達作るの? って。実は下心があってー、声をかけたんだよねー」
頭を下げられた。面と向かってそう言われてはどうにも返す言葉がない。というか下心とは口にしない心ではないのか? 頭を上げられる。
「燕ちゃん、あれでも僕達より年上なんだーよ」
「どれくらい」
「あの子、二十一なんだーよ」
年上!
「見た目は僕達より小さいけーどー、ほんとだーよー。燕ちゃんはこれまで、ずーっと病院に閉じこめられててー、去年やっとお薬をかかさず飲んで、僕がいつも側にいるって条件で学校に行ってもいいって言われたんだー。だから、許してとは言えないかもしれないけどー、とても傲慢なことかもしれないけれどー」
そして、今度は、もっと深く頭を下げる。
「どうか、何も無かったことにしてあげて欲しいんだーよ」
それは、つまり。自分を襲ったことを秘密にして置いて欲しく、そのために自分に説明をした、ということなのだろう。詳しい秘密を告げて、島田燕にに同情させるための。それはとても効果的だった。
こんな話を聞かされて、ノーと言えるほど、えいねるはしっかりものではなかった。だが、それでは矛盾している。自分と燕が出会うよりも先に声をかけてきたのだから、つまり。
「それで、お願いってなんなんですか?」
再び頭を持ち上げる彼は目線を下にしたまま、今度は細々とした声質で、
「お願いがあるんだーね」
「なんですか?」
それはいつものような軽い調子ではあったが、しかし重量が違う。
まさに、頼み事のための台詞。お願い。
「燕ちゃんとお友達になってあげて欲しいんだーね」
え、と。……あれ?こんな時はどう反応するんだろう。
お願いは続く。
「あの子は実はとっても寂しがりやさんで恐がりで、僕と会うまでお外にも出れなかったんだーね。今でも、僕に心配かけないようにってたまーに一人で隠れて悩んでいるんだよねー。女の子同士ならー、もっと話もしやすいんじゃないのかなーと思うんだーよ」
「もちろん強制はしないーよ。ヘタしたらー、頼島さん死んじゃうからー」
軽く言った。けれど、その軽い言葉の意味は、本当なのだった。軽くじゃ済まない事実が、いつも隣にある。それが、吉宗と燕と、そしてえいねるの世界。
その中で、生きている、彼ら。そのことを考えたとき……えいねるは。
「わかりました」
そう言っていた。
「ありがとうー」
今までの人生のなかで、一番重みのある言葉を聞いた。
「じゃあ、送るーよ。僕はまだお仕事があって帰れないけーどー」
確かに本来ならこんなところで血を流している暇など無い男である。
そして、本来なら泣いて飛び出してる暇などない彼女のことを思い出す。
「あの、島田さんは?」
「ああ、燕ちゃんなーらー、今日は早退だーねー」
すでに放課後だがこれからが本番の彼ら生徒会にしてみればそうなのだろう。いやはや仕事熱心である。その時には彼は学ラン(破れたところはえいねるが縫ってあげた)の袖に手を通し、そして。椅子に掛けてあった白いコートを手に取る。
その左袖には、赤いものがこびりついている。これを着て帰るつもりなのだろうか? という疑問と、そして、彼がそれだけの出血をしていることを思い出す。
「あの、本当に大丈夫なんですか?」
訊ねずには、いられない。
吉宗は、決して動じることなく
「だいじょーぶだーよ」
笑う。
「なんでかわかんないけーどー。頼島さんが手当してくれたらとっても痛くなくなったーよ」
そんなことを、そんな風に笑顔で言われてえいねるは、いよいよ吉宗に心を奪われていく。
「じゃー、行きましょー」
差し出された手を、彼女は無意識に掴んでいた。
坤高校。正門前。
練習風景。グラウンドをハスキー犬とともにランニングする陸上部部長。購買部で八十円の消しゴムの値引き交渉をしている大阪弁の男子生徒。校庭のすみの枯れた桜の下で演舞をおこなう『姫様』
下校風景。
背の高い色黒の男とそんな彼よりも長身でありながら驚くほどの猫背の男。 ポニーテールの女の子とその隣を歩く寝癖の非道い女の子。時計台の下のベンチにたたずむゴシックロリータとフォーマルスーツの妖しい二人組。そんな中に紛れて、二人並んで歩く、吉宗とえいねる。
「あの、聞いてもいいですか?善通寺さんはどうして私を選んだんですか?」
それは、聞いておきたかった。なんとなく答えはわかっていたが、彼女のこれまでの性格がそれを聞かないでいることはさせなかった。
「そーだねー。やっぱり、頼島さんが獣人だから」
やっぱり。
ならこの出会いは、吉宗にとっては都合がよかったということだったのだろう。
さらに吉宗は続ける。
「あと、強いところとかー」
思考がが飛んだ。
強さ?
自分のどこに強さが?
「それって、どういう意味……」
最後まで、言わせてくれなかった。
「初めて見た時からー、気になってたんだー」
その一言に、思考がまた飛ぶ。
そして吉宗はそれ以上は言わずに、歩き続ける。
えいねるは彼の顔を、その時初めて、見やる。クマの下の、二つの眼球。これが、金色に光るのか。今は、深い黒を湛えていた。
校内で二番目に忙しい女。島田燕は校門で、誰かを待っている様子で、そこにいた。おそらくいつも、こうして吉宗が来るのを待っているのだろうな、と思う。
目を赤く腫らして、けれどその視線はすでに鋭さを戻す。吉宗のとなりにいるおまけを見ているその視線は敵対心丸出し。
「やっほー燕ちゃんー」
吉宗が近づくと燕は一礼し話し始める。
「善通寺会長、今日はお先に失礼してもよろしいでしょうか」
「いいよー、でも今日はまだ会議が四つ残ってるからー、僕は送っていけそうにないんだよねー」
するとあからさまに悲しそうな顔をしてくれる燕。
「だからー、頼島さんが送ってあげてくれるそーだよー」
するとあからさまに迷惑そうな顔をしてくれる燕。
けれど、ノーと言うだけの理由を燕も持ち合わせてはいないのだった。
三十分後。
日も沈み掛けた午後の道。
灯も浮かび出す夕闇の街。
燕の後をついてゆくえいねる。
終始無言の二人組。何か共通の話題でも振りたいところだが、今のところ共通の話題と言えば『ケモノ』のことくらいしかない。さすがにそれを今のシチュエーションで出来るほど度胸のある子ではない。
沈黙のまま、燕の跡をついて
しかし何故自分がこうして彼女の跡を歩いているのかがよくわからない。吉宗が一緒に歩くのは登下校中に『その時』を迎えることを危惧くてのことのはずだ。なら、自分が一緒に歩いてもその点での働きは無理なのだけれども。
つい一時間も前。ああなれば間違いなく今度こそ確実に絶対パックンチョ第一号はえいねるのはずである。
しかしそうなるとは思えなかった。彼女が本性を思い出したときの恐怖を忘れたつもりはない。けれど、今まで通りに大股で歩く燕の背後には、肩張りを見られなかった。
不思議なことに、えいねるはもう彼女を怖いとは思えなかった。
哀れとも思えなかった。
突然止まる燕。ここが家か?しかしここは橋の上である。
まさか橋の下に住んでいるのか?
「ねえ、なんで着いてくるんですか?」
違ったようだったが、だから困る。
「え?だって善通寺さんが送ってあげてって言うから」
「だから、どうしてついてくるんですか?」
つまり、どうして自分と一緒にいて怖くないのか?
あんな目に遭わせたのに。
と言いたいのだ。
それはその通りなのだが、えいねるにもえいねるの思うところがあるわけで、それが済むまでは帰れない。
「私に何をしたいんですか?」
燕は、高圧的に言い放つ。おどおどしながらも、えいねるは答える。
「あのね、私謝りたくて」
「え?」
素直に言ってみた。燕は、何を言っているのかわからないような顔で、えいねるを見上げる。
「さっきは、非道いこと言っちゃったみたいで、ごめんね」
あまり飾る言葉も知らないえいねるはその程度のことしか言えない。そんな謝らなければならないシチュエーションにも今まで恵まれなかったので思いつく最善の言葉を言ってみたが果たして許してくれるだろうか?
「 」
それを聞き終わって、しかし燕は無言だった。まあ、確かに許されるとも思ってはいなかったが、一応はけじめである。
でもやっぱり怖い。
えいねるは顔を上げ、相手の目を見る。
燕と目が合った。
「……あれ?」
その疑問詞はどちらが言ったのか、もしくは同時だったのか。燕とえいねるは同時にそれに気付く。燕の目から、何かが流れていた。
「え、と、島田さん?」
「……え、あ、あ! 見ないで!」
慌てて顔を隠す燕。急いで走り出す。彼女を追いかけ、腑に落ちないままえいねるも走る。きっとここにあの男がいればこう言っていただろう。
あーあー、また泣かせちゃったー
時刻は闇。この季節、日が落ちるのは早い。
「あの。島田さん?」
「何か」
「え、と。私何かまずいこと言った?」
「気にしないでください」
今も燕は先を行く。えいねるを並ばせない。近づけない。
「私、こんな性格だし、こんな体質だから善通寺会長にお会いできるまで人と話すことができなかったから。誰かに謝られることなんてはじめてだったから、ちょっと。涙腺が緩んだだけです」
どうやら性格を自覚しているらしい。というよりもそんな発言をされて気にするなと言うのは無理なのだけれども。燕は一度あふれ出した言葉をせき止めることることも出来ず、言いたいことを言い続ける。
「私は先輩みたいに強くありませんから」
また、それだった。
強い?自分が?
果たしてどこに強さが見えるという?
自分のどこを見て、強さなどある?
二人は、何を求めているのだろう?
えいねるにはわからない。
自分を根底からひっくり返した世界にいながら、それでも頼島えいねるであろうとする。 今、たった今自分に襲いかかった人間に、敬意を持って接し、そして素直に謝れる。
それは、とても普通なことだ。
人間であるなら普通なことだ。
けれど、普通なことを普通にできるということの力を、えいねるは、まだわかっていなかった。
「着きました」
あれからさらに無言の行進を十分ほど進めて、燕は足を止めた。住宅地の一画。えいねるの目の前に一つの住宅がそびえる。どんな豪邸にすんでいるのかと思ったが、なんのことはない、自分の家と似たり寄ったりの中流家庭。落ち着いた色の壁際にはガーデニングが並んでいる二階建て。屋内からは包丁がまな板をぶつ音。
ぎぃと音を鳴らせて門を開ける。玄関まで歩み、そして振り返る燕。
そこには、いつの間にか、鋭い、けれど、それは美しい刃物のような視線。
「頼島先輩」
「はい」
「送ってくださってありがとう。それから……」
一度うつむき、そして力を込めて声を出す。
「会長から聞いたんだけど……、私の友達に、なってくれるの?」
すごく不安げな顔を覗かせる。そんな顔をされてノーと言えるほどえいねるは人間をやめていない。
「え、あ、うん。いいよ」
その返答に燕は頬を赤らめる。 なぜ?
「ではこれで失礼致します、頼島先輩。送っていただきましてありがとうございました」
手のひらを返したような応答。
「あー、もうちょっと砕けた言い方でいいよ」
「え? でもそれじゃあ失礼に当たります」
今までのは失礼じゃなかったのか
「好きに呼んでくれたらいいよ。友達になるんでしょ?」
すると、燕は年相応(果たしてそうなのだろうか?一応相手は二十一なのだが)の顔で、えいねるに今日の別れの挨拶をするのだった。
「さ、さようなら」
とてつもなくぎこちなく精一杯な様子でそう言った燕がちょっとかわいいと思いかけていた。
「バイバイ」
その後燕は何故か頬を赤らめる。
「あ、あの、それでは、ま、また明日、えいねる御姉様」
「うん明日ね……」
あれ? 今何かすごい尾ひれがついてなかった?
「ちょっと、何?最後のおね」
バタン。
玄関の戸が開くのと燕が中に飛び込むのと戸が力一杯閉まるのは同時であったかのように思えたが、それどころではない。
「ちょ、何お姉様って何?」
しかし反応はない。誰も何も言ってくれない。
え、と。こういうときはどういう反応をすればいいのかな……。うん。
「うわああああああああああん」
人外カミングアウト、パンダ遭遇に続く下級生に食い殺されるという人生第三の危機をやりすごしたえいねる。しかし彼女の頭上には、なんだか踏み込んだらいけない新世界という第四の危機が迫る今日このごろ。
何か不穏な人間関係。未だ紡がれぬ物語。
たどたどしい練習曲にのってチャレンジフルな未来が降ってきそうな、宵のことだった。




