第一章 メルキア戦役
――また、あの夢だった。
深い霧の向こうで、日焼けした肌の少女が駆け回っている。どんぐり眼を輝かせ、無邪気に木の枝を振り回しながら。
そして、幼き日のアッシュに気が付くと、その足を止め、すべてを分かっているかのような笑みを浮かべた。
――ターニャ。
『……やっぱりアッシュだ。あの時と同じだね』
優しくも、見透かしたような悪戯な双眸で覗き込んでくるターニャ。
(……うるせぇよ。俺はただ、稼ぎのいい仕事を選んだだけだ)
心の中でそう吐き捨てると同時に、アッシュはゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、カビの斑点が黒々と広がった低い天井と、歪んだ太い梁であった。
夢の余韻など、泥にまみれた現実の痛みが一瞬でかき消していく。体に残る旅の重みと節々の微かな痛みが、いま己が生きている荒涼とした現実であることを容赦なく突きつけてくる。
「……メルキア戦役だ」
昨日、ひおりが真剣な面持ちで口にした目的地。
その表情に滲んでいたのは、絶対に譲らないという強い意志と、人間ならざる亜人族との熾烈な死闘が行われている戦地へ向かうことへの、隠しきれない恐怖だった。
メルキア国。
ナルカミの国境にほど近い、山脈の凄絶な裾野にへばりつくような小国である。複数の豊かな鉱山を抱え、小さな国体のわりにその懐はそれなりに潤っている土地柄だった。
南方の国境を侵食し、雪崩のように押し寄せてきた亜人族の軍勢。それを叩き潰すため、メルキア軍はなりふり構わず莫大な金貨と、一番の功労者に与えるという『特別な秘宝』を撒き餌にし、全土から血に餓えた傭兵どもをかき集めていた。
小娘の家庭事情など、アッシュの知ったことではない。
他人の事情の面倒を背負い込むほどお人好しではないし、かといって、ここで潤沢な鉱山を背景に金貨をばら撒いている戦役を見過ごす手もなかった。しばらくの宿代と、乾いた喉を潤す安酒代を稼ぎ出すにはちょうどいい。
ただ、そんな打算の裏で、ひおりの背中に漂う焦げ付くような焦燥の匂いだけが、道中ずっと鼻についた。
すり鉢状の荒れ果てた地を抜け、関所を越える。
風に乗って運ばれてくるのは、乾いた砂の匂いと、微かな血煙の残り香だ。行き交う者たちの目は誰もかれもが濁り、腰の柄に手を掛けたまま互いを牽制し合っている。まともな気風の人間なら、関門をくぐった瞬間に胃の腑を吐き分けるような街だった。
「……殺伐としている」
シェ・ダライが、地鳴りのような低い声で呟く。
「血の匂いに群がる蝿どもだ。まともな奴から死んでいく」
アッシュは短く息を吐き出すと、深めに頭巾を被り直したひおりの肩を、それとなく庇うように庇護の影を作って進む。
街道沿いには、一攫千金を夢見る旅人や目ざとい商人が使う小綺麗な大旅籠が幾つも並んでいた。だが、アッシュが視線すら寄越さずに通り過ぎ、足をとめたのは、さらに裏路地の行き止まり――腐ちかけた木看板が死んだように揺れる安宿の前だった。
『朽穴の砂蚯蚓亭』
客の出入りなど誰も記帳しない、自営の薄暗い穴ぐら。
厄介な小娘を連れているのだ。身元の定かでない無宿者がいくら潜み込もうと誰も気に留めない、この手のドブ臭い安宿こそが、もっとも安全な潜伏先になる。
「……寝床は潜む場所、酒場は情報を喰う場所だ」
がたつく木枠のドアを押し開き、カビと湿気で重い部屋に最低限の荷を置くと、アッシュは二人を促してすぐに街へと取って返した。
夕刻。
前線での日雇い戦闘を終え、血と泥に塗れた傭兵たちがゾロゾロと町へ引き揚げてくる時間帯だ。
街道の左右には、傷口を手拭いで縛った男や、欠けた剣を削りながら歩く男たちが溢れている。
ひおりは群衆の影に身を隠しながら、行き交う傭兵たちの顔を一目一目、穴が空くほど凝視していた。息を殺し、肩を震わせ、その小さな眼光で人波を食い入るように探している。
だが、薄汚い男どもの中に、探し求める黒装束の影はない。
「……いない」
ぽつりと、ひおりの口から吐き出された声は震えていた。その肩が、微かに小さく上下している。
「あたりまえだ。こんな雑多な人混みで一目で見つかるなら苦労はねえ」
アッシュは足を止めず、視線すら合わせずに吐き捨てた。
ひおりが立ち止まり、その背中に向かって拳を握りしめる。
「でも……っ! どこかにいるはずなんだ! ここにいなかったら、私は一体――」
「焦るな。死んでなけりゃ、いつか会える」
あまりに気のないアッシュの横顔に、ひおりの瞳の中で何かが弾けた。
「――兄様が死ぬわけなかろうが!」
激昂し、噛みつくようにアッシュを睨みつける。その瞳には必死さと、いまにも壊れてしまいそうな焦燥がぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
路地裏の湿った空気の中に、甲高い金切声が虚しく響き渡る。
だが、アッシュは眉ひとつ動かさず、ただ冷ややかな目で見下ろすだけだった。
「死ぬわけないっていわれるやつから死んでいくのが戦場だ」
「っ……! 他人事だと思って……ッ! お前に何がわかるっていうんだ!」
「実際他人事だ。冷たいようだが、お前の兄貴が死のうが生きようが、俺の腹は膨らまねえ」
アッシュは言葉を区切り、ひおりの眼前に一歩踏み込んだ。冷たい圧迫感が少女の身体を射抜く。
「だがな、小娘。兄貴を探したいっていうんならよ、まずはお前自身が生き残ることが先決だ。腹を減らしてくたばっちまったら、見つかるもんだって見つけられねぇからな。ということで、文句を垂れる前に、まずは食おうぜ」
アッシュはひおりの頭を適当にはたき、拒絶の隙を与えずに、斡旋所を兼ねた大衆酒場へと脚を向けた。
酒場は、熱気と脂煙、そして男どもの体臭で満ち満ちていた。
天井からは乾いた煤が落ち、床には吐瀉物や溢れた酒の跡が黒く染み付いている。
前線から生還し、日当の銀貨をジャラつかせる傭兵どもが、木樽の安酒を浴びるように煽り、獣のような声をあげて笑っていた。生き残った喜びと、明日死ぬかもしれない恐怖を押し殺すための、血なまぐさい宴であった。
アッシュは明日からの戦役への参加に向け、酒場奥の斡旋カウンターへ向かった。
カウンターの奥で羊皮紙の書類をめくっていた事務官が、手を止め、鼻白むような冷徹な目をこちらに向ける。
「貴様らもこのメルキア戦役への参加希望か。……ん? そのガキもか?」
事務官が粘つくような視線で、胡散臭そうにひおりをジロジロと見た。
「ガッ、ガキじゃない!」
鋭い声をあげて噛みつこうと一歩踏み出したひおりを、アッシュは手甲を嵌めた手で制した。そして、嘲るように鼻で笑う。
「あぁ、このガキもだ。何だ、亜人相手に年齢制限でもあんのか?」
「……フン、勝手に死ね」
事務官はアッシュを睨み返すと、帳簿に目をやり、ブツブツと小言を潰やきながら頁をめくった。羽ペンに濃い墨をつけ、素早く何かを書き込むと、事務的な調子で軍規を叩きつける。
「貴様らは『第十一遊撃隊』に編入する。頭(部隊長)はメルキア正規軍の伍長だ。功績はすべて部隊長が記録・評価する。ただし――部隊長が戦死した場合、その日の功績はすべて無効、もちろん給金も銀貨一文すら出ない。つまりだ、タダ働きしたくなければ命がけで部隊長を守れ。命は惜しむな。分かったか」
冷淡な声とともに、一方的に突きつけられた不条理な評価制度。
「けっ、面倒な首輪をつけやがったな」
アッシュは吐き捨てるように毒づき、懐に登録証の木札を放り込んだ。
「……主の首を繋ぐも繋がぬも、戦場を渡る者の算段次第。これも食い繋ぐ為の我らが業か」
隣に立つシェ・ダライが、静かにその巨躯を揺らし、低く重い声で頷いた。
手続きを終えると、アッシュは酒場の奥にある、がたつく木の丸テーブルに陣取った。
木目がすり減り、過去の刃物の傷痕が無数に刻まれたテーブルだ。
「いらっしゃい、何にするかい。今夜は塩漬け豚肉と根菜の香草煮込みがお勧めだよ」
額に汗を浮かべた恰幅の良い給仕の女が、擦り切れた布巾で目の前のカウンターを拭きながらアッシュ達を招く。
「それでいい。三人分頼む。あと、渋くて濃い葡萄酒を頼む」
アッシュが無造作に銀貨を卓上に放つと、給仕の女は素早い手つきでそれを浚い、厨房の方へ消えていく。
しばらくして運ばれてきたのは、木の深皿に並々と注がれた『塩漬け豚肉と根菜の香草煮込み』であった。そして、湯気を立てる大麦の焼き立てパン。
透き通ったスープなどではない。
何日も煮込まれ、雑多な根菜と脂の乗った塩豚から溶け出した旨味が泥水のような濁色を成す煮込み汁。そこに香草の独特な匂いが、湯気とともに立ち上っている。
アッシュは大麦パンを無造作に大きくちぎると、煮込みの汁にたっぷりと浸した。 汁を吸ってずっしりと重くなったパンを、口の中へ放り込む。
ガツン、と強い塩気が舌を叩いた。
続いて、肉の脂のコクと香草の苦みが、鼻腔を突き抜ける。
煮込み汁に浸った無骨な塩豚を頬張ると、奥歯でしっかりと噛みしだく。繊維の締まった身からじわじわと肉汁が溢れ出し、噛めば噛むほど肉々しい旨味が広がっていく。
すかさず、削り木の杯になみなみと注がれた葡萄酒を持ち上げ、咀嚼真っ盛りの口内へと流し込んだ。
渋く果実味の溢れる赤葡萄酒だ。舌に広がる渋みと重み、そして唾液腺を締め付けるような酸味が、口いっぱいに広がった野生味のある肉脂を綺麗に洗い流していく。
「……ふぅ」
胃に沁む充実感。体に、じわりと熱が戻ってくる。
傭兵にとって、食うことは生きることだ。命を繋ぐ作業なのだ。凝った味付けなどいらない。強い塩気と肉の脂。それさえありゃあ、今日のところは生き延びたという実感が胃の底から湧き上がってくる。
ふと向かいを見ると、ひおりが無我夢中でパンにかじりついていた。
アッシュの冷たい言葉への悔しさと憤りをぶつけるように、口のまわりを泥色の煮込み汁まみれにしながら、まるで飢えた子狐のように肉を貪っている。
その隣で、シェ・ダライは大きな手でパンをひとつかみし、静かに噛みしめていた。
「……肉を食らい、血を血で洗う戦地なれど、この一口の糧に生命の理を見る」
「……いいから食え。冷めるぞ」
シェ・ダライの説法じみた独り言を余所に、皿の底をパンで拭い、綺麗に浚い切ったアッシュは、酒杯の残りを煽って深く息を吐き出した。
腹が温まり、殺伐とした気配が、ほんの一瞬だけ緩んだ――その時である。
「――ハッ、見覚えのある面が転がっているな」
頭上から、低く硬い女の声が降ってきた。
アッシュが片目を細めて視線を上げると、そこには見覚えのある顔があった。
擦り切れた革鎧と旅装に身を包み、背には使い込まれた大身の長槍。かつて王都グラナディアで名を馳せた王都槍術師団殲滅部隊『葬槍の姉妹達』の元部隊長――リッカだ。
そしてその隣には、眼鏡の奥の目を丸くして立ち尽くす、元王都魔術師団最高顧問であったエルフィムの姿があった。
「……王都を去ってどこで野たれ死んだかと思えば、こんな所で豚みたいに皿を浚っているのか、アッシュ」
槍の柄に手をかけたまま、リッカが口元に皮肉な笑みを浮かべる。アッシュは鼻を鳴らし、杯を置いた。
「おぉ、久しぶりだな。……お前こそ、脳筋の妹達を捨て置いて、やっと傭兵稼業が板についてきたってところか? リッカ」
短い軽口の応酬。その横で、エルフィムがハッと我に返り、ずり落ちかけた眼鏡の位置を直しながら慌てて歩み寄ってきた。
「え……っ!? ア、アッシュさん……!? ほんとにアッシュさんですか……!?」
エルフィムの頬が一瞬で真っ赤に染まる。両手で旅装の裾をきゅっと握りしめ、目を輝かせた。
「あ、あの……! 私たち、今アッシュさんたちと同じなんです! 王都を出てからの傭兵稼業、魔物退治から家事手伝いまで、色んな仕事で日当を稼いで……! まさかこんなところでまたお会いできるなんて、私、すごく――」
「エルフィム、家事手伝いは余計だ」
リッカが呆れ顔でエルフィムの肩をポンと叩き、その言葉を遮った。そして、視線をアッシュへと戻す。
「こいつは相変わらず喰えない男だ。……それに、なんだいその横のガキは。いつから幼女趣味になったんだい? それとも実は隠し子で、子連れ傭兵で売り出したのかい? 落ちぶれたねあんたも」
リッカは眉をひそめ、アッシュの隣でピリピリと鋭い殺気を放っているひおりの顔を覗き込んだ。どこか品定めするように、その頭へ手を伸ばす。
「おい、お嬢ちゃん。こんな薄汚れたオッサンに騙されて連れてこられたんなら、今のうちに失せな」
――パンッ!
乾いた突風のような音が酒場に響いた。
アッシュに「死ぬわけないって奴から死んでいく」と言われて頭に血が上っていたひおりが、伸ばされたリッカの手を、鋭い手甲で力任せに弾き飛ばしたのだ。
「……アァ? 誰がガキだ?お嬢ちゃんだ? 気安く触ってんじゃねぇよ、この貧乳ババァ!」
「……ひ、ひんにゅ……っ!? な、なんだと?」
リッカの顔から一瞬で余裕が吹き飛び、青い瞳にメラリと険しい炎が灯る。ひおりは椅子から立ち上がる勢いでテーブルを蹴りつけ、その小さな口から容赦のない暴言を叩きつけた。
「は? てめぇ目ぇ腐ってんのか? どこをどう見たら連れてこられたように見えんだよ、頭おめでてーな! 落ちぶれてんのはそのペッタペタの胸と、その突っつくだけの槍一本でシコシコ日当稼いでるテメーだろ! なんだその胸、腹筋と大して変わらねーじゃねえか!!」
「……くっ、言ってくれるじゃないか、クソガキがッ!」
リッカの額にブチブチと太い血管が浮き上がり、背負った長槍の柄を握りしめる手にはちぎれんばかりの力が入った。呼吸が激しく荒れ、その平坦な胸元が上下する。
「この胸のどこがペッタペタで腹筋だ! 槍術の体幹を支えるために限界まで削ぎ落とした無駄のない肉体と言いなさい! 貴様みたいな生ぬるい脂肪と一緒にすんじゃないわよ!!」
「ハッ! 長々と捲し立てて見苦しい言い訳乙! 悔しかったら少しは膨らませてから喋りなよ、ペッタペタのザコババァが!」
「なっ……ッ! 誰がペッタペタよ!! 叩きのめしてその生意気な口を縫い合わせてやろうか!!」
激昂し、長槍を半ば引き抜こうとするリッカの腰へ、エルフィムがしがみついた。
「リッカ……っ! やめなさいってば!」
再会の感動を台無しにされ、エルフィムが頭を抱えて悲鳴をあげる。
「アッシュさんの前で子供相手に胸のことで本気で怒るとか、私まで恥ずかしくて死にそうなんだけど……!!」
「……シェダ。頼むからこの騒がしい牝猫どもをどうにかしてくれ」
アッシュが心底呆れたように溜息をつき、隣の巨漢を仰ぎ見る。
「……業深き喧噪かな。女の舌戦は、時に亜人の大槌よりも破壊力を持つ」
「いや、感心してねえでさ……」
まさに不毛極まりない喧騒が頂点に達しようとしていた、その時であった。
バンッ!と、酒場の重い木扉が破らんばかりの勢いで叩き開けられた。
息を荒らげ、血煙と硝煙の匂いを全身から漂わせた一人の傭兵が、雪崩れ込んでくる。
「おい、聞いたかよ! ジェルマン隊だ! ジェルマン隊がまたしても亜人の急襲部隊を丸ごと殲滅したらしいぞ!!」
一瞬にして、酒場を包んでいた下品な喧噪が止まった。
冷や水を浴びせられたような静寂。酒を煽っていた男も、娼婦を抱いていた男も動きを止め、空間の空気が凍りつく。のちに、じわじわと不穏なざわめきが広がっていった。
「マジかよ! 今週に入ってもう何隊目だ!?」
「なんでも、あの隊には黒装束に身を包んだ異国の傭兵が紛れ込んでるらしいじゃねえか。そいつがえらく飛び抜けた腕前で、敵の首を次々に刈り取ってるそうだ」
「へっ、ジェルマンの野郎、えらい『当たりの傭兵』を引き当てやがったな。部隊長が死ななきゃ功績は全部奴のものだ。ジェルマンも一気に伍長から千人隊長まで昇進まっしぐらだろうよ!」
男どもの声に混ざり込む、羨望と嫉妬、そして立ち込める血の匂い。
先ほどまでリッカに向かって身を乗り出し、怒鳴り散らしていたひおりの動きが、ピタリと止まっていた。
目を見開き、金縛りに遭ったかのように身を硬直させている。
黒装束。異国の傭兵。圧倒的な殺戮。
「……あ……兄様……」
ひおりの唇から漏れた呟きは、酒場に再び沸き起こった騒音の中に小さく消えていった。
アッシュは静かに木杯を置くと、冷めた眼光で騒ぎの渦中を見つめる。
「……ほう。部隊長の命を守りながら、一人で敵部隊を殲滅ね。相当な手練れか、よっぽどの狂人だな」
アッシュの言葉に、先ほどまで胸の薄さを突かれて怒り心頭だったリッカも、一瞬で元長姉の冷徹な顔へと戻っていた。鈍色を細め、声をひそめてテーブルへ身を乗り出してくる。
「――で? わざわざこんな死臭の漂う国境戦役で日当稼ぎたぁ、新米傭兵にしちゃあ、ちっと背伸びしすぎじゃねぇか」
「……ふん、お前に心配される筋合いはない。……だがな」
リッカはチラリと、青ざめた顔で固まっているひおりの横顔へ視線の走らせた。
「ただの日当稼ぎなら、もっとマシな警護戦を選ぶ。……だが、ここ最近、急激に侵攻を強めてる亜人族の連中が、あきらかに怪しくてな」
「ええ……私達、先日の前哨戦で実際に刃を交えたんです」
エルフィムが声のトーンを落とし、真剣な眼差しで付け加えた。
「……五体を深く切り刻まれ、槍で腹を貫かれ、魔法で焼かれても、彼らは倒れないどころか、痛みに狂ったかのように笑いながら迫ってくるのです」
「正気の兵の動きじゃない。あの異常な強靭さ……裏に『人造魔法石』が絡んでるとしか思えない。誰かがやつらに力を供給してるか、戦場を実験場にしてる」
リッカの言葉を聴きながら、アッシュは顎に手を当て、フンと鼻を鳴らした。
「……手足が千切れても迫りくる、か。確かに人造魔法石の影がちらつくな。なんだ、胸の薄い女の酔狂かと思えば、しっかりミネアの仕事やってるじゃねぇか」
「……貴様、戦場でうっかり槍のサビにしてやろうか?」
リッカの怒りを聞き流したアッシュは、葡萄酒の残りを喉へ流し込むと、冷えた木杯をカタンと音を立てて置いた。
「……痛みに狂った亜人か」
シェ・ダライの地鳴りのような低音だけが、濁った酒場の喧噪の底に沈んでいく。
ひおりは固まったまま、握りしめた小さな拳を震わせていた。
戦場を駆ける謎の黒装束。切り刻まれながらも迫りくる狂気の亜人達。人造魔法石の影。
それぞれの目論見と暗雲を呑み込んだまま、国境の夜は静かに更けていく。
アッシュは空になった木杯を卓上に置くと、だるそうに肩を鳴らした。
「……さて、腹も満たされたし、そろそろ寝るとするか。明日はたんまり稼がせてもらうかよ」




