第二章 手練共
深い森の中であった。
樹々がなす深い緑の隙間から、斑な木漏れ日が地面を染めている。
風が吹くたび、足元の腐葉土から湿った土の匂いと、青く臭い草の匂いが立ち上っていた。
その森の沈黙を乱さぬよう、殺気を殺し、息を潜めて足を進める一団があった。
アッシュ達が編入された、メルキア軍『第十一遊撃隊』である。
与えられた戦力は、わずか五名の傭兵。
敵陣深くへ潜入し、奇襲と崩しを担うための最小限の編成であった。いずれも甲冑の重音を殺し、木々を縫って素早く動くことに長けた者ばかりである。
隊列の先頭を進むのは、巨大な重剣を背負ったシェ・ダライである。
その巨躯に似合わぬ足取りで、枯れ葉一枚踏み鳴らさず、犀のような鋭い視線を左右の藪へと走らせている。
最後尾を歩くのはアッシュだ。
左手に嵌めた赤黒い革の手甲の感触を確かめつつ、冷ややかに周囲の気配を探っている。腰の曲刀は、いつでも抜き放てる位置にあった。
そして、その隊列の、文字通り「中心」に護られるように歩いている男がいた。
第十一遊撃隊部隊長。シェリオット伍長である。
どこぞの貴族の放蕩息子が、親の口利きで手に入れた階級。そのまま戦場へと放り出されたのであろう。
戦場には不釣り合いなほど丹念に櫛を通された金髪。額にはにじんだ油汗。着込んでいる革鎧だけが、真新しく嫌に浮いていた。
その伍長を左右から挟むように歩く二人の男がいた。
一人は、アッシュよりもひと回り年配――四十代後半ほどの男。数々の修羅場をくぐり抜けてきた男特有の、どこか粘つくような貫禄を纏っている。黒ずんだ革鎧を身につけ、逆手に握った短剣の刃に怪しげな薬液を湿らせていた。ヴェラドゥナ、と呼ばれていた。本名ではない。元は山賊か街の裏社会か、その筋の匂いを隠しようともしない男だ。
もう一人は、深緑に染められた旅装を纏い、引き絞るばかりに短弓を構えるエルフの男。どこか少年の面影を残した細身の姿だが、その実年齢は誰にも分からない。名をクゥ・シルフェといった。周囲からはクゥと呼ばれている。その物腰には、どこか利発さと冷徹な静けさが漂っていた。
静寂の中、小鳥が跳ねたかのような小さな枝の折れる音が響いた。
「ヒッ……!?」
シェリオット伍長が、短く情けない悲鳴をあげて肩を跳ねさせた。
過剰なほど周囲を鋭く見回し、引きつった顔で甲高い声を張り上げる。
「お、おい! 貴様ら、よく聞けよ! 余計な功名心など出すんじゃないぞ!」
伍長の手が、恐怖で細かく震えていた。
「貴様らのような薄汚れた傭兵がやるべき仕事はただ一つ! この私を、何よりも最優先で守ることだ! 私が死んだら貴様らの給金もゼロなんだからな!」
静まり返った森の中に、甲高い声が虚しく響く。
シェ・ダライは振り返りもせず、ただ静かに鼻から息を吐き出した。
「チッ。いちいちうるせぇんだよ、あの金髪ブタ」
伍長の左脇を歩くヴェラドゥナが、不快そうに舌を打ち、低く吐き捨てた。
「てめぇの玉を庇い立てするだけで、俺たちの食い扶持が守れるかってんだ……」
――ガサッ、と。
静寂を切り裂く重苦しい破砕音と同時に、頭上の樹々が一斉に激しく鳴った。
一呼吸の猶予すら与えられなかった。
藪を押し潰して躍り出たのは、泥と返り血に汚れた巨大な黒い塊――この森の生態系の頂点に君臨する巨熊であった。
湿った腐葉土の匂いを吹き飛ばすほどの凄まじい獣臭。大きく開かれた顎から、どろりとした涎とともに生臭い吐息が吹きつけ、荒い鼻息が周囲の空気を震わせる。
熊は両脚で立ち上がると、視界を覆い尽くすほどの巨躯で威嚇するように立ち塞がった。
ほんの一瞬――時間が止まったかのように、その場が張り詰める。
そして血走った二つの目がヴェラドゥナを射抜くと、爪を剥き出しにした丸太のような太い前脚を大上段へと振りあげる。
直後、空気を鋭く引き裂くような大風とともに、一撃が振り下ろされた。
「ひいぃぃッ!?」
シェリオット伍長が喉を鳴らし、腰を抜かして泥の上へ転がった。
だが、ヴェラドゥナは眉一つ動かさなかった。
熟練の足さばきで巨躯の踏み込みを紙一重でかわすと、すれ違いざま、黒ずんだ短剣の刃を熊の首筋へ浅く突き立てた。分厚い毛皮を穿ち、僅かに肉を削いだ程度の、致命には程遠い刺突。
だが、次の瞬間――巨熊の咆哮が濁った喘ぎへと変わった。
毒が血流に乗った途端、巨躯が激しく痙攣し、口と鼻から黒い泡血を噴き出して泥の上へ倒れ伏す。ほんの二呼吸。立ち上がる間すらなく、熊はピクリとも動かなくなった。
ヴェラドゥナは短剣の刃を拭いもせず、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべて鼻で鳴らした。
「けっ……大物ぶっても獣は獣だ。俺の毒に触れて生きていられる奴はいねぇよ」
森の生態系の頂点にいる化け物を瞬殺してみせた、圧倒的な劇薬の威能。
だが、最後尾からその惨状を見つめていたアッシュの眼差しは、冷ややかに澄んだままであった。
その時であった。
前方高くの樹冠が微かに揺れ、一筋の影が風のように舞い降りた。
被った頭巾を目深に引き下げた小柄な影――ひおりだ。
「……戻った」
ひおりは足音もなく地面に着地すると、肩をわずかに上下させながら低く呟いた。
息は切れているが、その瞳には焦りと鋭い緊張の色が宿っている。
「どうだった、小娘。獲物はいたか?」
ヴェラドゥナが短剣の刃を鞘の縁で削るようにチリチリと金属音を立てながら、場慣れした歪んだ笑みを口元に浮かべた。
「……ここから半刻ほど南に下った森の開けた場所だ。亜人族の部隊が陣を張っている。ざっと二十……いや、三十近くはいる」
「三十だと……!?」
隊列の中央で、シェリオット伍長が引きつった悲鳴をあげた。顔面は見る間に蒼白となり、額から大きな汗の粒がこぼれ落ちる。
「ひ、ヒィ……! 三十だと!? 敵が多すぎる! 退却だ、撤退するぞ! 私の命を危険に晒すわけにはいかん!」
「ハッ! 焚き火も焚かねぇでボサッと座ってるだけだと? けっ、そいつぁ願ってもねぇカモじゃねぇか! 狩りたい放題じゃねぇかよ!」
ヴェラドゥナは伍長の悲鳴を鼻で笑い、逆手に握った短剣を握り直すと、アッシュへ振り返った。
「おい、あんたアッシュとか言ったっけか? あんたもそう思うだろ?」
「あ? ……あぁ。そうだな」
アッシュは心底気のない返事を返した。
「そうだといいな」
「けっ、気取った野郎だぜ」
ヴェラドゥナは吐き捨て、興奮を抑えきれない様子で舌を鳴らす。
「伍長さん、少し静かにして」
シェリオットの甲高い金切声を遮るように、軽やかで澄んだ声が差し挟まれた。
クゥ・シルフェだ。
少年のような細身の体を木陰に滑り込ませたまま、引き絞った短弓の矢先をわずかに下ろし、くるりと大きな瞳をひおりへと向ける。
「ねえ、ひおりさん。敵の様子はどうだった? 斥候や見張りの配置……それに、大きな亜人なんかが混ざってたりはしなかったかい?」
「……見張りは二人。周囲の警戒は粗い。だが……妙だった。奴ら、陣を張っているというのに、焚き火も焚かず、会話も交わしていない。ただ……虚ろな目で、地べたに座り込んでいた」
「へえ……会話もなしに、ただ座ってるだけ、か」
クゥが首を少し傾げ、不思議そうに眉をひそめる。
その背後で、地鳴りのような息を静かに吐き出したシェ・ダライが、巨躯をわずかに沈め、森の奥へと犀のような視線の向きを固定する。
「……風が止んだ。血の匂いどころか、生者の呼吸すら伝わってこぬ。異様な静寂だ」
シェ・ダライの低音は、周囲の空気を重く押し潰す。警戒を解く気配は微塵もない。
最後尾で幹に背を預けていたアッシュは、静かに片目を細めた。
ひおりが口にした「虚ろな目で地べたに座り込む亜人」。
昨夜、あの濁った酒場でリッカとエルフィムが語っていた言葉が、泥のように脳裏へ浮かび上がってくる。
五体を深く切り刻まれ、貫かれても倒れない、痛みを忘れた狂気の兵。
ただの雑魚なら確かに狩りたい放題だ。だが、もしあの亜人どもに人造魔法石が埋め込まれていたとしたらどうだ。
まず、シェダは心配いらない。やつなら相手が死体だろうが狂人だろうが関係無く、力任せに叩き潰せるだろう。
俺も問題無い。よほど巨大な化け物でも出てこない限りは、この曲刀で事足りるだろう。
だが、他の連中はどうか。
アッシュの視線はヴェラドゥナの短剣に注がれる。人造魔法石で痛覚を麻痺させられた怪異どもに、神経毒や麻痺毒がどれほど意味を成すか。毒が回って内臓が爛れようとも、意に介さずそのまま刃を振るって迫ってくるはずだ。毒頼みの戦い方しかできないなら、真っ先に喰われる。
そして、弓矢だ。
アッシュの視線が、少年のような佇まいで短弓を構えるエルフへと滑る。
人造魔法石の狂者を止める手立ては限られている。首を刎ねるか、あるいは核となっている魔法石そのものを正確に撃ち抜いて破壊するか。かつて同じインペリアルガードとして背中を預けた女――リーフならば、疾走する標的の眉間だろうが、胸の奥の魔法石だろうが、息を吐くように撃ち抜いただろう。だが、このクゥとかいう小僧にそこまでの技量があるかどうか。
アッシュは左手の手甲を冷たく締め直し、心の中で微かに舌を打った。
傭兵の戦場は、いつだって仲間の値踏みから始まる。信用しすぎれば背中から刺され、見くびりすぎれば道連れに死ぬ。
「おい、アッシュ。なに気難しそうな顔してやがる。ビビっちまったか?」
ヴェラドゥナがニヤニヤと場慣れした嫌みな笑みを浮かべて覗き込んでくる。
アッシュはそれに答えず、ただ低く、短く呟いた。
「……ヴェラドゥナ。お前、その短剣の毒が効かねぇ相手が出たらどうする?」
「あぁ? なんだそりゃ。毒が効かねぇ奴だと?」
ヴェラドゥナは可笑しそうに鼻で鳴らし、刃の毒を軽く指先で撫でるような仕草をしながら言い捨てた。
「安心しろ、俺の毒が効かねぇヤツはいねぇよ」
半刻。
敵陣までの距離は、徒歩でおよそ三十文といったところか。
もしひおりの見立て通り、敵が人造魔法石を植え付けられた異形の兵だとしたら、ここから先はまともな合戦にはならない。泥と血を啜るような泥沼の死闘になる。
そして今、敵に動く気配はない。
腹を満たしておくのが先決だとアッシュは判断した。空腹のまま死線へ飛び込むほど愚かな真似はない。腹が減っていては、刃を振り下ろす腕にも力が入らんし、死に際に踏ん張りも利かない。
「おい……ここらで腹ごしらえにするぞ」
アッシュの低い呟きに応えるように、ひおりが静かに腰の荷を解いた。
「……少し、待て」
ひおりは小柄な身を伏せ、手際よく小さな鍋を取り出すと、斥候の合間に摘んできた野草の数々を放り込んだ。
ナルカミの郷では、これを胆熱火と呼ぶ。戦の前に腹を内側から温め、滋養を充たすことこそが、死線で生き残るための胆力を熾す源になるのだという。
火は起こさない。煙を出せば敵に悟られるからだ。ひおりは手慣れた手つきで無煙の小さな熱源を扱い、手早く薬膳の汁物を仕立て上げていった。
やがて、小さな鍋からほの甘い野草と出汁の香りがふわりと立ち上る。
最初に手渡されたのはシェ・ダライだ。
巨漢は無言で木椀を受け取り、太い喉を鳴らして一気に煽った。
「……うまい」
じわりと体に染み入る滋養に、地鳴りのような太い声が漏れる。腑に落ちた温もりが、その巨躯の隅々まで広がっていくのが分かった。
「へっ……おいおい、小娘にしては上出来すぎるじゃねぇか。うめぇぞ、これ」
ヴェラドゥナがニヤリと場慣れした顔をほころばせ、差し出された椀をあおる。野草の程よい苦味と、出汁の利いた熱い汁が、乾いた胃袋をずしりと満たしていく。
「うん……すごく温まる。野草の使い方が上手なんだね、ひおりさん」
クゥもまた、両手で大事そうに椀を包み込み、息を吹きかけながら一口ずつ噛みしめるように味わった。少年の面影を残す頬が、熱気で微かに朱を帯びる。
アッシュも椀を受け取り、熱い汁を口に含んだ。
口いっぱいに広がる豊かな滋味と熱。雑味のない澄んだ味わいが、強張っていた腹の底をじんわりと解きほぐしていく。大した腕前だと、心の中で呟いた。
熱い汁物が傭兵たちの腹を温め、命の芯を確かに満たしていく。
「な……な、なにを考えているんだ貴様らはッ!?」
一人、蚊帳の外に置かれたシェリオット伍長が、ひっくり返った声で叫び声をあげた。
「敵はすぐそこなんだぞ!? なぜ呑気にスープなど啜っている! 撤退だと言っているだろうが! 隊長である私の命に従え! 立て、今すぐ引き返すんだッ!」
耳障りな金切声が、森の重苦しい静寂を削り取る。だが、誰も立ち上がろうとはしなかった。
「伍長さん、あんたも食っときな」
アッシュは汁を飲み干し、息を吐き出しながら冷ややかな視線をシェリオットへ向けた。
「胃袋が空っぽのままじゃ、逃げる時の足ももつれるぜ」
「くっ……う、うぐ……! ぶ、無礼者どもが……!」
真っ赤になったり蒼白になったり顔色を忙しく変える伍長を完全に無視し、傭兵たちは淡々と、嵐の前の静けさと温かな滋養を腹に流し込んでいった。
椀を空にし、腹の底に重い熱が宿ったのを確認すると、アッシュは無造作に立ち上がった。足元に転がっていた親指ほどの太さがある乾燥した小枝を一本、拾い上げる。
何の前触れもなく、アッシュはその小枝をクゥ・シルフェの顔面めがけて鋭く投げつけた。
突如として視界を潰しに迫る木切れ。だが、クゥは瞬きひとつしなかった。平然とした顔のまま、手元にあった短弓の弦をぬめり気すらない動作で引き絞る。
澄んだ弦鳴りと同時に解き放たれた一矢が、クゥの目の前で小枝を正面から射抜いた。真っ二つに割れた木片が、乾いた音を立てて足元へ転がる。
「っと……危ないじゃないですか、アッシュさん」
クゥはおどけるように肩をすくめてみせたが、その表情は微塵も崩れていなかった。むしろ、どこか浮世離れした穏やかな笑みすら浮かべている。一瞬の迷いも、無駄な力みもない。
「あぁ、わりぃ。……だが、腕は確かだってことだけは分かった」
アッシュは曲刀の柄を軽く叩き、一同へ視線を巡らせた。試すような真似をされたクゥも、それを見つめていたシェ・ダライもひおりも、すでに戦う者の目になっている。
「この先の敵陣だが……俺の予想が当たっていたら、相当な苦戦を強いられることになるぞ」
アッシュの声は低く、そして冷たかった。
「必要なのは、再起不能なまでに破壊する力か、正確に撃ち抜く技術だ」
その言葉を聞いて、真っ先に鼻で笑ったのはヴェラドゥナだった。
「ハッ、それなら俺は前者だな」
ヴェラドゥナは短剣を弄びながら、意地の悪い笑みを口元に刻み、吐き捨てるように言った。
「三十そこそこの雑魚なら、俺一人でだって十分だぜ」
「……そろそろ行くかよ」
ヴェラドゥナが短剣の柄をカチリと鳴らし、ニヤついた顔で腰を上げた。シェ・ダライが無言で巨躯を立ち上がらせる。クゥは短弓を軽く回して肩にかけ、ひおりもまた気配を消すように木陰の暗がりへと身を滑り込ませた。
傭兵たちの空気が、一瞬にして殺気を含んだ狩人のそれへと切り替わる。
「ひ……ヒィ……ッ! 待て! 待つんだ貴様らッ!」
立ち上がろうとする傭兵たちを見て、地面に座り込んでいたシェリオット伍長が再び取り乱した。膝をガクガクと震わせ、着込んでいる真新しい革鎧の袖を引っ張りながら金切声を張り上げる。
「正気か!? 行くなど聞いておらんぞ! 撤退だ! 命令違反で軍律会議にかけてやる! 立ち止まれ! 私を置いていくなッ!」
敵陣までは徒歩で半刻。まだ距離はあるとはいえ、森の静寂を切り裂く金髪ブタの金切声は、いつ見張りに届いてもおかしくない。
「……チッ、うるせぇな」
ヴェラドゥナが露骨に不快な舌打ちを漏らした。指先の間からすっと覗いたのは、細い竹筒と小さな吹き矢だ。
「眠ってろ」
短い破裂音がひとつ響く。
「ひぐッ……!?」
シェリオット伍長が首筋を押さえ、白目を剥いた。薬液を湿らせた針が深々と突き刺さっている。伍長は叫び声をあげる間もなく、糸の切れた人形のように泥の上へぐったりと崩れ落ちた。
「おいおい……殺しちゃいないよね?」
クゥが低く笑いながら、呆れたように首をすくめる。
「安心しな、ただの強い麻酔薬だ。二刻は目が覚めねぇよ。どっちにしろ、この金髪ブタを連れていくだけ命が幾つあっても足りねぇからな」
ヴェラドゥナは鼻で笑うと、転がっていたシェリオットの襟首を雑に掴み、連れてきていた駄馬の背へと荷物のように放り投げた。麻縄を取り出し、馬上にぐったりと括り付けて落馬しないよう手早く固定する。
「よし……これで邪魔者は寝た」
アッシュは落ちていた木片を靴底で踏み消した。
「行くぞ。足音を消せ」
静まり返った森の奥――冷たい殺気を孕んだ五人の影が、無音のまま半刻先の敵陣へと滑り出していった。
深い草むらと鬱蒼とした獣道を無音で分け入っていく。風が途切れ、森の空気はいよいよ重く湿り気を帯びていった。
やがて、先頭を行くひおりが片手を軽く挙げ、身を低く沈める。アッシュたちもそれに倣い、足音を完全に殺して木の根元や藪の影へと滑り込んだ。
生い茂る葉の隙間を押し開いた先に、その陣はあった。
ひおりの言っていた通り、森がぽっかりと円形に開けた平地だ。そこには粗末な革鎧や鉄の胴甲を身につけた亜人族――オークやブッシュゴブリンたちが、ざっと三十人近く集まっていた。
だが、それはおよそ軍の陣営と呼べるようなものではなかった。
見張り台もなければ、木柵も立てられていない。野営に不可欠なはずの焚き火すら炊かれておらず、兵たちが交わす話し声も、武具を研ぐ金属音すら聞こえなかった。
異様であった。
三十近い巨躯や異形の群れが、ただそこに屯している。地べたに直に腰を下ろしている者、長柄の斧を突いて立ったまま固まっている者、虚空を睨みつけたままぴくりとも動かない者。
その全員の瞳から、生者特有の光が完全に失われていた。精巧に作られた肉の人形が、命のゼンマイを切られたままそこに置き去りにされているかのような、泥のように重く底知れぬ気味の悪さがその空間を支配していた。
「……けっ、なんだぁあの死人どもは」
隣の藪で、ヴェラドゥナが殺気を孕んだ声で低く毒づいた。短剣の柄を握る指気に緊張が走る。
「見張りすら満足に置いてねぇじゃねぇか。あんな虚ろなツラしやがって……酒でも食らって腰が抜けてんのか?」
「いや……違うね」
クゥ・シルフェが短弓に矢を番えたまま、その少年のように澄んだ視線で開けた地を見据え、静かに首を振った。
「息はしているみたいだけど……まるで魂だけどこかに置いてきたみたいだ。気味が悪いな」
シェ・ダライは言葉を発さず、巨躯を沈めたまま静かに息を呑んでいた。分厚い掌を握り締め、素手の拳をいつでも打ち込めるよう構えている。
アッシュは片目を細め、群がる亜人たちの中心へと視線を滑らせた。
そして、見つけた。
虚ろな亜人たちの中心に、ぽつりと佇む一人の男の姿があった。頭から深く羽織った、禍々しい臙脂色の長袍。
間違いない。アッシュの胸の奥で、冷たい記憶が疾走した。かつてサフィールの遺跡群で見えた者。人造魔法石を用い、世界の破壊と再生を謳う狂気の錬金術師集団――『円環の双蛇』。あの時現れた男は、自ら生み出したジュエルニュートの暴走に果てたが、ここにいるのは別の同類だ。
リッカたちの予想通りか。あの酒場で語られた噂はただの戯れ言ではなかった。円環の双蛇の連中は、人造魔法石を亜人族の肉体に埋め込み、戦力としての実験……あるいは、この地での破壊工作を進めている。
その時だった。
臙脂色の長袍を着た男が、ゆらりと首を動かした。顔を覆うフードの暗闇の奥から、鋭く冷酷な視線が、アッシュたちの潜む藪のピンポイントへと注がれる。
気づかれた、と悟った時には隠密は破れていた。
長袍の男は一切の猶予も与えず、痩せた腕をすっと水平に突き出した。その袖口から怪しげな燐光が走り、低く呪文のような声が森の静寂を切り裂く。
途端、これまで人形のように固まっていた三十近くの亜人たちが、一斉に首を跳ね上げた。その瞳は濁った赤く妖しい光を放ち、野獣のような唸り声をあげて、一斉にアッシュたちへと襲いかかってきた。
「チッ……気づかれたか!」
アッシュは低い舌打ちとともに、迷いなく藪を蹴って躍り出た。同時に腰の曲刀を抜き放つ。
「やるぞ!」
正面から躍りかかってきたオークが、唸り声とともに錆びついた手斧を大上段から振り下ろしてくる。アッシュは紙一重でその軌道を見切り、滑り込むようにすり抜けると、すれ違いざまに曲刀を鋭く一閃させた。
深々と脇腹を切り裂いた確かな手応え。普通ならば内臓をぶちまけ、その場に崩れ落ちる傷だ。だが、亜人は痛みに顔を歪めることすらなく、傷口から黒い血を垂れ流したまま、何事もなかったかのようにぬうっとアッシュの方へと振り向いた。
やはり昨夜の噂通りの化け物どもだ。アッシュは冷ややかな視線のまま、一歩間合いを引く。
「――破ァッ!」
アッシュの側限を裂いて飛び出したのは、シェ・ダライだ。巨漢は地鳴りのような咆哮とともに丸太のような豪腕を振り抜いた。打ち込まれた正拳が、迫るブッシュゴブリンの胸板を叩き割る。
凄まじい肉の打撃音とともに吹き飛ばされた亜人が、背後の大木へと激しく打ち付けられた。首があり得ない方向へと折れ曲がり、骨の砕ける嫌な音が響く。だがその異形は折れた首を力任せにぐらりと持ち上げると、何事もなかったかのように立ち上がり、再び殺気を剥き出しにして向かってきた。
「くっ……首を折られても動くのかい!?」
後方から躍り出たクゥ・シルフェが、短弓を三連射した。飛来した矢は、迫りくる亜人の額へ深々と突き刺さる。だが、脳蓋を貫かれてなお脚を止めないのを見ると、クゥは即座に狙いを切り替えた。
矢継ぎ早に放たれた矢が、今度は亜人の両膝を正確に射抜く。関節を砕かれた亜人は体勢を崩し、盛大に泥の上へと転がり落ちた。
「クゥ! 奴らの体にある蒼い石を狙え!」
すれ違いざまにアッシュが低く叫んだ。
クゥは返事すら返さなかったが、その大きな瞳が瞬時に亜人たちの胸や首元へと焦点を絞る。呼吸を止め、引き絞った弦を放つ。
一矢が、襲いかかるオークの胸元で怪しい光を放つ蒼い石を正確に撃ち抜いた。直後、弾け飛んだ石から内部の魔力が爆発的に四散し、周囲の肉と骨を内側からえぐるように吹き飛ばした。核を失い、胴体を激しく崩壊させた亜人が、今度こそ完全に動きを止めて泥へ倒れ伏す。
クゥの矢が次々と乾いた音を立て、群がる亜人たちの胸の蒼い石を連続で打ち砕いていく。そのたびに肉体が激しく弾け飛び、屍の山が築かれていく。
「ふぅん……そういうことね」
クゥは短弓を指先で軽く回すと、冷ややかに澄んだ笑みを口元に浮かべ、納得したように頷いた。
そして――。
「ハハッ! カモが群れてやがるぜ!」
ヴェラドゥナが二本の短剣を逆手に持ち、嘲笑いながら亜人たちの間を縫うように疾走した。数々の修羅場をくぐり抜けてきた身軽さで攻撃を躱し、すれ違いざまに首筋、脇下、太腿の動脈へと、毒を濡らした短剣の刃を的確に突き立てていく。
一瞬で数個体の急所を穿つ完璧な急襲。だが、ヴェラドゥナの口元から笑みが消えた。
「……あぁ!?」
毒が回れば一息で血を吐いて倒れ伏すはずの亜人たちが、傷口から毒液を滴らせたまま、ピンピンとした様子で刃を振り下ろしてくる。全身の激痛も、神経を麻痺させる毒の猛威も、彼らの肉体には何ひとつ効果を示していなかった。
脇腹を裂かれても意に介さない者。首があらぬ方向に折れても倒れない者。そして、己が誇る劇薬を塗り付けた短剣をどれほど深々と穿とうが、何事もなかったかのように刃を振り下ろしてくる亜人たち。
迫りくる大鉈の突風を間一髪でかわしながら、ヴェラドゥナの脳裏に、直前にアッシュから投げかけられた冷たい言葉が激しく蘇った。
ヴェラドゥナ、お前、その短剣の毒が効かねぇ相手が出たらどうする。
あの時は鼻で笑い捨てた言葉。だが、目の前の怪異がその答えを突きつけていた。
「ハッ……そういうコトかよ!」
ヴェラドゥナは自嘲気味に吐き捨てると、振るわれた大鉈の軌道から後ろ飛びで大きく間合いを取った。着地と同時に二本の短剣を鞘へ雑に突っ込む。
「つまり……死なねぇなら、動けねぇようにしちまえばいいんだろ?」
ヴェラドゥナは両腕を交差させ、両手甲の内側にある隠し留め金に指をかけた。
硬質で冷たい金属音が響き、手甲の先端から一尺ほどのいびつな刃が勢い良くせり出した。その刃の表面には、これまでの毒薬とは明らかに異質で、粘り気のあるドス黒い紫色の液体が不気味に滲み出している。
「おい、おめぇら! 死にたくなかったら、俺と……俺の切った獲物には近づくなよ!」
敵陣地を見据えたまま、ヴェラドゥナは背後のアッシュたちへ怒号のような警告を放った。
「さぁて……これでも立ってられるか?」
ヴェラドゥナは不敵な笑みを口元に刻むと、残像を残すほどの速さで跳び出し、眼前のオークの懐へ滑り込んだ。せり出した隠し刃を、手首の返しとともに相手の太腿の付け根へと深く突き立てる。
湿った肉の切断音とともに、痛みを感じないはずのオークが初めて異様な声を漏らした。刺突の瞬間、刺し傷から一瞬にして異変が広がっていく。太腿の膨大な筋肉と骨片が、内側からドロドロの黒い汁へと変わり、肉の原形を失っていくのだ。
支えを失った巨躯が、崩れ落ちるように泥へ倒れ伏した。倒れた肉体はなおも内側から溶解を続け、見る影もなく黒い泥状の塊へと変わり果てていく。
刃の表面に滲み出ていたのは、ヴェラドゥナが長年の研究と過酷な試行錯誤の末に自ら作り出した、人工の極悪な細菌毒であった。生体の組織へ侵入した瞬間、爆発的な速度で細胞を蝕み、肉や筋肉を内側から泥のように溶かし尽くす狂毒。外気に触れれば数分で死滅してしまうほどの脆弱さゆえに、普段は手甲の内部に密閉され、獲物の肉深くへ刃を突きたてた瞬間にのみ注入される仕掛けとなっている。
痛みも感じず、神経毒すら無視する化け物だろうと、動かすための肉と筋繊維そのものが崩れ落ちてしまえば、ただの動かぬ肉塊に成り下がるしかない。
「な……なんだい、いまのは……!? 斬ったそばから……毒なのか!?」
後方で矢を番え直していたクゥが、目を見開いて息を呑んだ。切り口から肉体がドロドロに溶け落ちていくあまりに凄惨な光景。
「へっ……驚いてる暇はねぇぞ!」
ヴェラドゥナは返り血ならぬ溶け落ちる黒汁を巧みに避けながら、次々と群がる亜人たちの関節や腿、腕の付け根へと隠し刃を叩き込んでいく。
草を蹴る微かな音とともに、そのヴェラドゥナの影から一筋の黒い影が躍り出た。ひおりだ。
ひおりは一切の気配を殺したまま、溶け落ちる亜人の背後へ潜り込むと、懐から取り出した極細の鋼糸をすれ違いざまに亜人の首筋と足首へと巻き付けた。
体重をかけて引き絞られた鋼糸が、肉と関節を物理的に締め上げ、動きを強制的に封じ込める。身動きの取れなくなった亜人へ、ヴェラドゥナの隠し刃が容赦なく突き立てられ、次々と黒い泥へと変わり果てていく。
「へぇ……見事な連携だね」
クゥが横目で呟きながらも、蒼い石を正確に射抜きつつ完璧な掩護射撃を維持している。
シェ・ダライが、拳で弾き飛ばした亜人の群れから間合いを取る。
アッシュは曲刀を低く構えたまま、溶ける肉煙の向こう側――冷酷に傭兵たちを見下ろしている臙脂色の長袍の男へと、氷のような視線を定めた。実験体どもをいくら潰したところで、元を絶たなきゃ終わりはしない。
次々と黒い泥となって崩れ落ちていく実験体たちを見下ろし、臙脂色の長袍を着た男は、ただ低く、短く鼻を鳴らした。
顔を覆うフードの暗闇の奥で、氷のように冷ややかな視線が一度だけこちらを射抜く。男は一切の感情を排した無機質な動作で、長袍の袖口から細かな装飾の施された黒い短剣――刃のない儀式用の器具を取り出した。
そして、目の前の何もない空間を切り割くように、上から下へとゆっくり縦に振り下ろす。
空間そのものが嫌な歪みを見せ、縦に細い黒い裂け目が生まれた。裂け目の向こう側から立ち上るのは、正気とは思えぬ禍々しい魔力と、獣の荒い息遣い。
男が痩せこけた指先で虚空の裂け目を押し広げると、そこから「それ」が這い出してきた。
咆哮が森の樹々を激しく揺らした。空間の裂け目を力任せに押し広げ、飛び出してきたのは、これまでアッシュたちが目にしたこともない禍々しい異形の亜人であった。
並のオークを遥かに凌ぐ巨躯。だがその背からは、骨と引きちぎれた肉膜が露わになった、巨大な蝙蝠の羽が醜く生え伸びている。さらに異様なのはその皮膚だ。全身の肉を裂いて埋め込まれた無数の人造魔法石が、まるで悪性の腫瘍のように蒼い燐光を放ち、不気味に明滅していた。
既存の亜人ではない。円環の双蛇の手によって異種の肉と魔法石を繋ぎ合わされ、造り出された狂気の産物であった。
長袍の男は巨大な異形に一瞥すら与えず、ただアッシュたちへ顎をしゃくってみせた。そのまま自らが切り割いた空間の漆黒の暗闇へ、滑り込むように静かに背を向ける。
「待てッ!」
アッシュが曲刀を構えて地を蹴る。だが、解き放たれた蝙蝠羽の巨獣が凄まじい風圧とともに巨大な皮膜を広げ、丸太のような腕を振るってアッシュの接近を激しく阻んだ。
言葉ひとつ残さず、暗闇の中へ引き込まれるように長袍の男の姿が空間の裂け目ごと消え去っていく。
「……チッ、逃げられたか」
アッシュは間合いを戻し、曲刀を低く構え直した。
残されたのは、頭上から強烈な圧迫感を撒き散らし、狂乱の眼差しで傭兵たちを見下ろす巨獣のみ。背の蝙蝠羽が羽ばたくたび、森の枯れ葉と土煙が凄まじい突風となって巻き上がり、周囲の樹々を激しく揺らした。




