序章 やっぱり味の無い夜に
夜の静寂を切り裂く足音があった。
荒い息遣い。
月明かりすら届かぬ深緑の森。巨木の枝から枝へ、小柄な影が疾走する。
それを覆い尽くすように、無数の殺気が肉薄していた。
ハァ、ハァ……っ!
少女の荒い息遣いを追う、無音の影たち。 次の瞬間、夜気を切り裂く鋭い風切り音が迫った。
――ヒュッ! ――ズクッ!
生身の肉を鋭利な鉄が穿つ、鈍い音が響く。
「くっ……!」
左肩を貫いたのは、灼熱のような激痛であった。刺さっていたのは、黒く塗られた手裏剣だった。
体勢を崩した影は木々の足場を踏み外すと、斜面を転がり落ちていった。
岩に弾け、太い根に体を打ち付けられながら、暗く落ち込む崖下へと転落していく。
頭上では、追手たちの気配が一度止まり、やがて苛立ちを含んだ足音とともに遠のいていった。闇の中に完全に見失ったのだ。
斜面の一番下、湿った泥の上に打ち捨てられた小さな身体。
木漏れ日の月光が、わずかにそれを照らし出していた。まだ年端もいかない少女の姿である。
纏っているのは、夜の闇に紛れる独特の深紫色の装束――ナルカミの地に生きる者の証であった。
少女は虫の息のまま、荒い吐息を漏らし、静かに瞳を閉じた。
◇
――暗闇。
まぶたの裏で、川のせせらぎがかすかに聞こえていた。
やがて、眩しいほどの陽光が水面を跳ね、幼い視界を満たしていく。
冷たい川の中に膝まで浸かり、水しぶきを上げて戯れている二つの影。
ヌメリの残る素手で必死に押さえつけたのは、まるま々と太った一匹の岩魚だ。跳ねる尾ヒレが散らした冷水が、幼いアッシュの頬を叩く。
岸辺に職い上がると、小柄な影が手慣れた手つきで尖った小石を拾い上げ、魚の腹へ無造作に突き立てた。内臓を掻き出し、生臭い血を川のせせらぎですすすぐ。
二人は細い枝を魚の口からぐっと突き通すと、パチパチと爆ぜる小さな焚き火の脇、湿った砂地に深々と突き立てた。
じくじくと脂が垂れて煙が立ち上る。焦げた皮の香ばしい匂いが、二人のお腹を同時に鳴らした。
『ほら、焼けたよ。熱いから気をつけて』
口元に煤をつけた顔が、鼻を鳴らしながら一本の串を差し出してくる。
受け取り、焦げた魚の身を見つめながら、アッシュは短く呟いた。
『……塩は?』
『塩? そんなもの、もうとっくに無くなってるよ』
呆れたように肩をすくめると、すぐに悪戯っぽく微笑んで、アッシュの顔を覗き込んできた。
『でもね、この魚だって塩なんか無くってもさっきまで元気に泳いでいたでしょ?――だから、塩なんか無くたって、大丈夫だよ?アッシュ』
「――っ!?」
跳ね起きるように、アッシュは視界を明けた。
荒い呼吸とともに背中を襲うのは、硬い地面の冷たさと、ゴツゴツとした岩の感触だ。
伸ばした手は空を切り、掴んだのは握り慣れた曲刀の柄であった。
夢だ。
舌の裏に残る泥のような渋みを覚えながら、アッシュは荒れた息を吐き出した。
塩の利いていない、味のない川魚。
そんなものでも満たせたのは、飢えていなかったからだ。
渇望とは無縁の、あの頃。
『塩なんか無くたって、大丈夫だよ』
頭の中で、あの声がリフレインする。
――大丈夫なわけがあるかよ。
腹が満たされたって、心までは満たされないのだ。
あの日の惨劇で村共々焼き払われてしまったのか、それともまだ、どこかで生きているのかすらわからない――そんな影が、不意に夢に現れることがある。
男ってのは、いつまでもガキであった。
アッシュは苦々しく舌打ちすると、こめかみに浮いた冷や汗を粗雑に袖で拭い、ゆっくりと身を起こした。
パチ、パチ、と薪が弾ける小さな音だけが、乾いた夜の空気に響いていた。
野営の焚き火である。その揺らめく火を眺めながら、アッシュは手元にある焼き魚……とも呼べないような、味のしない干びた魚の身を噛みちぎっていた。
塩の小袋を逆さに振ってみたが、一粒の白い粉も落ちてはこなかった。昼過ぎに最後の一粒まで叩き落として空っぽだ。
塩気のねぇ魚ほど、虚しいもんはねぇな。
パサつく川魚の身を強引に喉の奥へ押し込みながら、アッシュは口の中に残る苦味に渋い顔をした。
『銀の雨蛙亭』でハセミが気まぐれに振る舞ってくれた、あの香辛料の効いた料理が無性に恋しくなる。
だが、いま口いっぱいに広がるのは、生臭い川の匂いと、淡水魚独特の泥の風味ばかりだ。
その泥の匂いが、時折記憶の底に沈んでいた古い引き出しを勝手にこじ開けることがある。
そういえば――昔もこんな風に、塩気のないパサパサの魚を噛みちぎっていたことがあった。
故郷の村の川で、泥だらけになって捕った小さな魚だ。
――『ほら、アッシュ! 塩なんか無くても美味しいでしょ!』
どんぐり眼を輝かせ、上手に焼けたと言わんばかりにはにかんでいた幼馴染の少女。名をターニャ。
生きていれば、自分と同じ三十路過ぎの女になっているであろうあいつは、アッシュの心の中ではいつだって10歳の無邪気な笑顔のまま止まっている。
やれやれ。塩が切れるとロクなことを思い出さねぇ。
苦笑交じりに溜息を吐いたその時である。 森の奥の暗がりから、カサリと草を踏みしめる音がした。
姿を現したのは、シェ・ダライだ。
その手には、今夜の晩飯用であろう川魚が数匹と、脚を縛られた小さな角猪豚の肉。 そして――もう片方の腕に抱えられた、深紫色の装束を纏った、ぐったりとした小さな影。
アッシュは口に含んだ魚を飲み込むと、心底呆れたような顔で片眉を上げた。
「……おいおい、シェダ。喰えねぇもんまで拾ってくんなよ」
装束の少女を小脇に抱えたまま、シェ・ダライは静かに口を開いた。
「……捨て置けぬ生命だ」
シェ・ダライは表情一つ変えず、淡々とそう呟くと、腕の中の少女を焚き火の脇、乾いた草の上に静かに横たえた。
歳の頃は10歳くらいだろうか。
顔は死人のように蒼白で、肩口には深々と手裏剣が突き刺さっている。
唇は不気味な紫色に跳ね上がり、呼吸は荒く、熱にうなされていた。
アッシュは立ち上がり、少女の傍らにしゃがみ込んで手裏剣の刃に目をやった。
「毒が湿らせてあるな。こんな真夜中に、森の中で瀕死のガキ……おまけにこの独特の装束に手裏剣。ナルカミの者か」
シェ・ダライは無言のまま膝をつくと、少女の肩口から手裏剣を静かに抜き取った。 指先で刃返しに付着した黒ずんだ液汁を一拭いし、迷いなく己の舌先へと乗せると、静かに掌をかざしてみせた。
細い目をさらに細め、喉の奥で味覚と毒性を確かめるようにひと呼吸置く。
「……蛇毒、魚毒、痺れ毒……それに黒腐草の根か。極めて強力だが、死に至る毒ではない」
「ん?致死性じゃねぇ……? 殺す気じゃねぇってのか?」
「心脈を損なう毒は含まれておらん。神経を麻痺させ、身動きを完全に奪うための毒……」
シェ・ダライの言葉に、アッシュは小さく口笛を吹いた。
「なるほどな。命の心配がねぇのは結構だが……つまりコイツは生きて捕まえたいほどの『価値』があるガキってことか。面倒なもの拾ってきてくれたな」
「命に別条はない。だが、この麻痺毒は強烈だ。放っておけば自力で動けるようになるまで数日はかかる。……それに、傷口の処置は必要だ」
アッシュは「はぁーっ」と深く重い溜息を吐き出すと、頭をガリガリと掻きむしり、腰の小袋から手慣れた手つきでナイフを取り出した。
「……たく、言っても聴かねぇのは分かってたけどよ。お前も俺と同じで、面倒ごとのカミサマに大層好かれてんだろうな……」
処置に先立ち、アッシュは少女の血と泥に汚れた深紫色の服の合わせを容赦なく肌蹴させ、上着を脱がせた。汚れた装束とは対照的な、真っ白な幼い肌が顕になる。手裏剣の刺さった傷口が曝け出された。
ナイフの刃を焚き火の炎で赤くなるまで炙りながら、アッシュは少女の傍らに膝をつく。
「とりあえず、毒血を絞り出して、傷口を焼き塞ぐ。死なねぇにしても、こんなとこで唸られてたら追手に居場所を教えてるようなもんだからな」
アッシュは紫黒く腫れ上がった少女の傷口に直接口を当て、力強く毒血を吸い出した。 ペッ、と地面へ吐き出された唾液は、どす黒い塊となって土を汚す。
何度か吸い出しを繰り返し、吐き出す血が綺麗な赤色へと戻ったことを確認すると、水筒の水で手早く傷口を洗い流した。
そして――焚き火で赤紫に火照ったナイフの身を手に取り、アッシュはうなされる少女の肩口へと、慎重に刃を寄せた。
ジュッ、と肉の焼ける嫌な音が静寂に弾け、紫煙とともに焦げ臭い匂いが立ち上る。
「……っ!!」
声にすらならない激痛に、少女の身体が弓なりにしなった。
歯を食いしばり、白目をむきかけた少女は、小さく喉を鳴らしただけで全身の力を失い、そのままガクリと深い昏睡の闇へと落ちていった。
「ふぅ……よし、これで傷は塞がった」
アッシュは手早くナイフを引くと、額の汗を袖で雑に拭い、脱がせた上着の代わりに自身の旅用外蓑を少女の体の上にポンと放り投げた。
すかさずシェ・ダライが少女の頭元へ膝を進め、調合した薬草の絞り汁を少女の半開きの口元へ含ませる。麻痺を和らげるための気休めの薬であった。
やがて、荒かった吐息はすーっと静まり返り、安らかな寝息へと変わっていった。
◇
東の空が白み始め、うっすらと朝靄が立ち込め始めた頃。
少女の意識は、麻痺の濁りの中からゆるゆると浮上し始めていた。
う、あ……。
朦朧とする思考の中で、自分に起きた出来事が走馬灯のように駆け巡る。
追手の手裏剣、体に回ったあの痺れ、崖からの転落――そうだ、私は追手に追われて……身動きが取れなくなって……。
私は、死んだのか……!?
ハッと目を開けると、視界に飛び込んできたのはパチパチと煙を上げる焚き火と、見知らぬ二人の男の影だった。
跳ね起きようとするが、痺れと肩の痛みに体がついてこない。
焦って胸元を見下ろした瞬間、少女は息を詰まらせた。
深紫色の衣服の胸元が肌蹴け、上着が脱がされている。肩には痛々しい包帯が巻かれていた。
血の気が引くと同時に、頭に一気に血が上る。
少女は痺れる体を必死に動かして飛び退くと、身構えながら、手近くにあった太めの木の枝を拾い上げ、アッシュたちへ向けて鋭く突きつけた。
「き、貴様ら……!! 私に何を……何をした……っ!!」
肩を震わせ、顔を真っ赤にして叫ぶ少女。
「おぅおぅ、命を助けてやった恩人に対して、挨拶もなしか。ナルカミでは、男のツラを見たらまず疑えって教わるのか?」
呆れたように鼻を鳴らし、干し肉を噛みちぎるアッシュ。
「し、しらばっくれるな! 服を脱がせて……っ、私の体を穢したな!? この不潔な野盗どもめ! 死して詫びよ!!」
怒号を飛ばす少女に対し、アッシュは「はぁーっ」と心底嫌そうな、ぶっきらぼうな溜息を吐き出した。
「はぁ? お前、何言ってんだ?」
アッシュは心底くだらねぇ、という顔で頭をガリガリと掻きむしる。
「勘違いすんじゃねぇよ。傷の治療のために脱がしただけだろ。第一な……誰がお前みてぇなツルペタのガキなんかに興味持つかってんだ。鑑賞価値すらねぇよ」
「つ……ッ!?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった少女の顔が、さらに爆発しそうなほど赤く染まった。
「ツ、ツル……ッ!ペッ? 貴様ぁぁッ!! これでも私はナルカミの……っ!」
激昂して枝をブンブンと振り回し、今にも飛びかかってきそうな少女。
その横で、これまで沈黙を保っていたシェ・ダライが、ふむ、と重々しく頷いた。 気遣わしげに己の禿げ上がった見事な丸坊主頭を撫で回し、ペタリと叩くと、低く重厚な声でぽつりと呟いた。
「……ツルペタ」
「ちょ、お前の頭じゃねーよシェダ!!」
アッシュのツッコミが朝靄の残る森の中に虚しく響き渡る。
少女は怒りに肩を上下させ、悔しそうに歯を食いしばりながら、必死に鋭い眼光でアッシュを睨みつけた。
「ふ、不潔な野盗のくせに……! 覚えておけ! 貴様なんぞ、貴様なんぞ兄様にかかればイチコロだ……っ!!」
屈辱と怒りにまかせて威勢よく言い放ち、兄の存在を盾にアッシュを威圧しようとした少女。
――だが。
「……兄、様……」
己の口から出たその二文字が引き金を引いたのか、強がりで塗り固めていた心の氷が一気に崩れ去り、少女の大きな瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「う……っ、あ……ッ、兄様……ッ!!」
手にしていた木の枝がポロリと手からこぼれ落ちる。
少女はその場にへたり込むと、幼子のように両手で顔を覆い、しゃくりあげるように大声で泣きじゃくり始めた。
「うああああんっ! 兄様……どこにおる……っ! こわかった……すごく、すごくこわかったんだからぁッ……!!」
先ほどまでの強がりもどこへやら、ただの十歳の子どもに戻って泣き叫ぶ少女。
「…………」
「…………」
急激すぎる温度差に、アッシュとシェ・ダライの二人は顔を見合わせた。 アッシュは引きつった顔で頭を大きく掻きむしり、心底弱り切った溜息を吐き出す。
「……おいシェダ。なんだこの『俺たちが悪者です』みたいな空気はよ」
「……うむ。我らが少女を泣かせた悪漢に見えなくもない」
「見えなくもない、じゃねぇよ! メンドくせぇ……だからガキは嫌なんだ」
ブツブツと毒を吐きながらも、アッシュは焚き火の脇で炙られていた、先ほどまで自分が「虚しい」と毒づいていた塩気の無い魚を拾い上げた。
そして、泣きじゃくる少女の目の前へ無造作に差し出す。
「ほら、泣いてねぇで喰えよ」
「うぐっ……、う、あああああんッ!!」
泣き止まない少女に、アッシュは魚をさらに一歩近づけた。
「喰え。腹減ってんだろ。……その、兄様ってのが誰だか知らねぇけどよ、そう簡単にくたばるようなヤツじゃないんだろ?」
アッシュの言葉に、少女は涙に濡れた顔を少しだけ上げた。
怪訝そうに目の前の魚とアッシュの顔を見比べる。
だが、その鼻腔をくすぐったのは、炭火で皮が香ばしく焦げた魚の匂いだった。
死に物狂いで逃げ回り、空腹はとっくに限界を超えている。鳴り響きそうになる腹を押さえ込むこともできず、喉の奥がくのりと鳴った。
少女はアッシュの手から奪い取るように魚をひったくると、熱さも忘れて身にかぶりついた。
ハフハフと熱い息を吐き出しながら、夢中で身をほぐし、口の中へ押し込んでいく。
兄様……。
魚を必死に咀嚼しながら、兄の頼もしい背中を思い出す。
ナルカミ一の忍の兄様が、こんな山賊まがいの男たちに負けるはずがない。
少女はしゃくりあげ、口の周りを煤と魚の脂で汚しながらも、アッシュを強く睨みつけた。
「……私の兄様は……ナルカミ一の忍、ジンだ! 貴様らなんぞに、負けるはずがない……っ!」
強がりを取り戻したように言い放ち、最後の一片まで綺麗に平らげる。
塩気も何もない、パサついた魚。けれど、その味気なさが、なぜか今の少女の心には温かく染み渡った。
アッシュはその姿を見て、心の中で小さく毒づいた。
やれやれ。塩がねぇってのに、美味そうに食いやがって。
――『ほら、アッシュ! 塩が無くても美味しいでしょ!』
ターニャの幻影が、焚き火の向こうで笑っている気がした。
アッシュは再び、味のしない冷めた魚の身を口へと運び、噛みしめた。
「さて。腹も満たしたなら、少しはマシな話を聞かせてくれるんだろうな?」
少女は小さく喉を鳴らし、手に持っていた魚の骨を焚き火の脇へ置いた。
膝を抱え込み、焚き火の爆ぜる火の粉を見つめる瞳には、悲痛で切実な光が宿っていた。
「……兄様は、騙されたんだ」
「騙された?」
「私たちの組織……ナルカミの頭目どもにだ。兄様は『ナルカミに平和と安寧をもたらす宝物』を持ち帰るため、ある国へと旅立った。……けど、それは全部ウソだったんだ」
少女はぎゅっと握りこぶしを作り、膝に顔をうずめるようにして言葉を振り絞る。
「あの宝物の正体は、安寧の品なんかじゃない。『現人器』……失われた古代の禁忌を制御し、恐ろしい軍事兵器に変えるための道具だったんだ。しかも……頭目どもは、兄様がそれを持って帰ってきたら、用済みとして始末するつもりなんだ!」
現人器――。
その不穏な言葉に、シェ・ダライがわずかに細い眉を動かした。
少女自身、その「現人器」が何を指すのか、なぜそこまで組織が執着するのかの真意は分かっていない様子であった。だが、大好きな兄が利用され、捨て駒にされようとしていることだけは紛れもない事実であった。
「私はそれを偶然知って……兄様に真実を伝えるために、ナルカミを抜け出した。追ってきたのは、口封じのための手の者たちだ」
「なるほどな。裏切り、口封じ、禁忌の兵器……。絵に描いたようなロクでもねぇ話だ」
アッシュは吐き捨てるように言う。
「で? その兄様と宝物は、今どこにあるんだ」
「……とある国で起きている、大きな戦役の中だ」
少女は顔を上げ、アッシュとシェ・ダライを交互に見つめた。
「その戦役に勝利し、一番の功労者となった者に、栄誉としてその『宝物』が下賜されることになっている。兄様は……ナルカミのためだと信じ切って、その戦場に乗り込んで手柄を立てようとしているんだ」
「チッ、戦功の褒美とか、何処の田舎大名の悪趣向だ。めんどくさいところに仕込まれてやがるな」
「私は兄様のところへ行って、兄様を止めなきゃならない! ……けど、私みたいな年端もいかない子供一人じゃ、関所も越えられないし、戦場に足を踏み入れることすらできない……」
少女は唇を噛み締めると、胸元の外蓑を強く握りしめた。
その瞳が、アッシュの腰にある使い込まれた曲刀と、シェ・ダライの岩のように強靭な体躯をすばやく往復する。只者ではない。修羅場を幾度もくぐり抜けてきた熟練の雰囲気を、幼いながらも目ざとく感じ取っていた。
「主らは傭兵か?それなら傭兵として、その戦役に参加しろ! 私を連れていってくれ! 兄様の……兄様の下へ!!」
「……はっ」
アッシュは思わず、鼻で短く笑った。
「言わせておけば、えらく大きく出たな。おいガキ、俺たちが傭兵だからって、なんでお前みたいなツルペタの申し出を受けなきゃならねぇんだ?」
「ツ……ッ! またツルペタと言うな!!」
少女は顔を真っ赤にして叫びかけたが、ぐっと奥歯を噛み締め、必死に生意気な表情を取り繕うように胸を張った。
「理由ならある! 私はナルカミの忍……祖国のため、兄様を救わなければならない!それに……それに、金なら払う!」
「金ぇ?」
アッシュが怪訝そうに眉をひそめると、少女は懐から小さな、だが重みのある革袋を取り出し、地面へと放り投げた。
ジャラリ、と不釣り合いな金属音が響く。
「……どうだ、これだけあれば、傭兵二人を雇う前金としては十分だろう!?」
地面に転がった革袋を、アッシュはつま先で軽く突いた。
ずっしりとした手応え。偽物や粗悪な鋳造貨ではない、本物の重みである。
アッシュは頭をガリガリと掻きむしり、大きな溜息を吐き出す。
「たく……こんな大金、そう安々と人様の前で見せびらかすもんじゃねぇぞ。俺たちが本当に悪党だったら、真っ先に喉笛掻き切られて身ぐるみ剥がされて終わりだ」
「ぐっ……」
「だがな」
アッシュは革袋を拾い上げると、無造作に少女の膝元へ投げ返した。
「俺はガキの小遣いで働くほど安かないし、お節介を焼くほどおめでたい頭もしてねぇ。お前を連れてその戦役とやらに乗り込むリスクと、この程度の金貨じゃ見合わねぇんだよ」
「な……ッ! 雇えないと言うのか!? なら、この金では足りないというのか!?」
「金額の問題じゃねぇって言ってんだよ。俺たちは……」
「――アッシュ」
それまで沈黙を守っていたシェ・ダライが、静かに言葉を挟んだ。 彼は己の太い腕を組み、深みのある眼光で少女を見つめている。
「この少女の背負う『縁』、そして『現人器』という言葉。これをただの立ち枯れとして捨て置くことは、我らの歩む道において、いささか歪みを生むやもしれん」
「おいおいシェダ、お前また始まったよ。僧兵様の『お導き』か?」
「否。単なる直感だ。……追手はすでに動き出している。この少女をここに遺せば、残された途は捕縛か死のみ。そして、その『現人器』が軍事兵器として解き放たれれば、鳴神の地にとどまらず、いずれ我らの足元をも焼き尽くすだろう」
「……チッ」
アッシュは苦々しい顔で空を仰いだ。 シェ・ダライの言うことは、いちいち正論で、そして最高に面倒くさい。
いつだってそうだ。この男と旅をしていると、気づけば火中の栗を拾う羽目になる。
アッシュは少女へ視線を戻した。
少女は必死に涙をこらえ、小さな拳を強く握りしめたまま、アッシュの言葉を待っている。
その強がりで生意気な瞳の奥にあるのは、ただひたすらに兄を想う、一筋の純粋な覚悟だ。
くそが。ターニャといい、このガキといい……どいつもこいつも、なんでそんな目をして笑ったり泣いたりしやがる。
アッシュは腰の小袋を叩き、心底嫌そうな顔で毒づいた。
「おい、ガキ」
「ガ、ガキではない!我が名はひおり! ひおりだ!」
「ひおりか。一つ聞かせろ。……その『兄様』ってやつに追いついて、真実を話したとして、あいつが信じなかったらどうする?」
「信じる! 兄様は私を……妹を絶対に裏切らない! 私の言葉なら、絶対に聞き入れてくれる!」
迷いのない即答であった。
アッシュは「はぁーっ」と本日一番の長い溜息を吐き出すと、地面に刺していたナイフを引き抜き、腰の鞘へ収めた。
「決まりだな。……シェダ、野営をたたむぞ。足元が明るくなったらすぐ出発だ」
「……うむ」
シェ・ダライは静かに頷き、立ち上がった。
ひおりは一瞬、何が起きたのか分からず、目をパチクリとさせた。
「え……? 貴様ら……受けてくれるのか……!?」
「勘違いすんじゃねぇよ」
アッシュは背を向け、焚き火に土をかぶせながらぶっきらぼうに言い捨てた。
「俺たちは傭兵だ。お前の雇用主じゃねぇ。ただ、その『戦役』ってやつにちょっとした興味が湧いたから、ついでにお前を運んでやるだけだ。足手まといになったら容赦なく置いてくからな」
「つ、ついでだと……ッ!? どこまで不遜な奴だ……っ!」
口では生意気に反論しながらも、ひおりの表情からはすっと強張りが消え、安堵の色が広がっていった。
「……ありがとう」
「あ?」
「……アッシュ、と言ったな。感謝する」
ひおりはぎこちなく外蓑を羽織り直すと、痛む肩をかばいながら、しっかりと自分の足で立ち上がった。
朝靄の切れ間から、かすかな木漏れ日は差し込み始める。
鳴神の禍根、そして嵐吹き荒れる戦場へと続く、新たな旅路が始まろうとしていた。




