【第114話 情けの鍵】
白い部屋は、白いままだった。
血が落ちても、白い。
黒い体液が滲んでも、白い。
汚れを隠す白ではない。
汚れを“映す”白だ。
◇ ◇ ◇
床を這う左腕は、まだ動いている。
切り落とされたのに、
指が掴む動作をやめない。
戻ろうとしている。
主へ。
鍵へ。
機械が部品を回収するみたいに。
――それが答えだった。
人間は、切れば終わる。
だがこの男は終わらない。
そして、セナも。
終わらない。
戻れない。
◇ ◇ ◇
ルコールは、答えを飲み込んだまま動く。
感情は喉の奥へ押し込む。
狩人の手順へ。
殺すな。
壊すな。
生かして奪え。
最悪に難しい狩りだ。
◇ ◇ ◇
ラドクリフは、笑っていた。
腕の断面から黒い筋が伸び、
床を這う腕と繋がろうとしているのに。
痛みがあるはずなのに。
それでも笑う。
狂人の笑いではない。
研究者の笑いだ。
“期待通り”の結果が出たときの笑い。
◇ ◇ ◇
「いいよ、軍曹」
一拍。
「君はちゃんと切った」
褒め言葉の形をした毒。
だが今は、毒でいい。
毒でも飲まなければ、ここでは立てない。
◇ ◇ ◇
ルコールは間合いを詰めた。
踏み込みではない。
包む。
逃げ道を削る。
爪の角度を殺す。
骨格じゃない関節の“戻り”を読む。
そして――掴む。
喉元ではない。
肩だ。
体の軸だ。
逃げにくい場所。
殺しにくい場所。
生かして押さえるための場所。
◇ ◇ ◇
ラドクリフの体が僅かに沈む。
圧が増す。
空間の密度が上がる。
生体因子が、部屋の空気を握り潰そうとする。
ルコールの耳が鳴る。
視界が狭まる。
だが――握り返す。
肺が潰れる前に、掴みを深くする。
◇ ◇ ◇
「……確保する」
ルコールが低く言う。
宣言ではない。
事実だ。
狩りの完了を告げる言葉。
◇ ◇ ◇
ラドクリフは、嬉しそうに目を細めた。
「そう」
「その顔だ」
一拍。
「“迎える”と言った男の顔だ」
この男は、心を材料にする。
心の揺れを観測する。
それが研究だ。
◇ ◇ ◇
ルコールの指先が、わずかに震えた。
怒りではない。
時間の問題だと理解した震えだ。
外の杭が持たない。
クロウが動く。
盤面が閉じる。
窓が閉じる。
その前に――終わらせる。
◇ ◇ ◇
だが。
ラドクリフの口元が、さらに上がる。
確保された人間がする笑いではない。
“確保された”ことが、手順の一部だと知っている笑いだ。
◇ ◇ ◇
「軍曹」
ラドクリフが、やけに穏やかに言った。
「君は勘違いしている」
「私を連れていけば、君は勝てる」
一拍。
「……そう思っている」
◇ ◇ ◇
ルコールは答えない。
答えた瞬間、相手の盤面に乗る。
だから、手で答える。
掴みを強くする。
関節を締める。
逃げを殺す。
◇ ◇ ◇
その瞬間。
ラドクリフの右手が、自分の胸元へ伸びた。
首から下げていたプレート。
その裏。
皮膚の内側。
“何か”を押す動作。
◇ ◇ ◇
ルコールの背筋が冷える。
これは自害じゃない。
逃げじゃない。
――仕掛けだ。
◇ ◇ ◇
「やめろ」
声が出た。
命令でもない。
威圧でもない。
止めたいという、純粋な声。
それが悔しい。
だが、悔しがっている暇はない。
◇ ◇ ◇
ラドクリフは笑う。
「止める?」
一拍。
「止めないよ」
そして、低く言った。
「情けだ」
◇ ◇ ◇
ルコールの眉が僅かに動く。
この男が“情け”と言った。
優しさじゃない。
慈悲じゃない。
歪んだ施し。
研究者の都合。
美学の押し付け。
それでも――
情けは情けだ。
◇ ◇ ◇
ラドクリフの声が、淡々と落ちる。
「戻せないのは、君ももう分かっただろう」
「なら、迎えるんだ」
一拍。
「迎えるなら、せめて――」
笑みが薄くなる。
「“迎えられる形”にしてやる」
◇ ◇ ◇
その言い方に、僅かな熱が混じった。
いつもの冷たい合理ではない。
狂信に近い熱だ。
「君の姫はね……」
ラドクリフは、まるで祈りの文句を唱えるように言う。
「まるで女神様じゃないか」
一拍。
「私は――あの姿であることを望んでいる」
それは研究者の欲望であり、
信徒の願いでもあった。
救いの形を、完成の形として崇める欲だ。
◇ ◇ ◇
床を這っていた左腕が、急に跳ねた。
腕が“帰ろう”とする速度が上がる。
断面の黒い筋が伸び、
導管のように絡みつく。
白い部屋の照明が一度だけ落ちる。
代わりに、壁面の導線が脈を打つ。
艦の中枢へ信号が走る。
――セナの区画へ。
◇ ◇ ◇
ルコールの喉が鳴る。
嫌な予感がある。
だが、ここでラドクリフを壊せない。
壊せば、セナが弾ける。
狩人の直感が叫ぶ。
“壊すな”。
壊すのは最後だ。
最後まで残せ。
最後まで、奪え。
◇ ◇ ◇
ラドクリフの目が、ふっと遠くを見る。
セナを見ている目ではない。
数値を見る目だ。
観測の目だ。
そして――満足の目だ。
◇ ◇ ◇
「いい」
ラドクリフが言った。
「美しい」
一拍。
「彼女は、人型を保つ」
「顔も、声も、手も」
言い方が、あまりに平然としている。
人間の“形”を、機能として列挙する男。
◇ ◇ ◇
「……なぜだ」
ルコールの声が低い。
問いというより、吐き出した音に近い。
◇ ◇ ◇
ラドクリフは笑う。
「慈悲じゃない」
一拍。
「私の美学だ」
「完成品を、醜く壊されたくない」
そして、最後にこう言った。
「君が迎えるなら――」
「せめて、“見られる姿”にしておく」
◇ ◇ ◇
その言葉が、胸を刺す。
見られる姿。
迎えられる形。
つまり――
“中身は戻らない”と確定した上で、
外側だけを人のまま固定する。
救いの形をした檻。
救いの形をした兵器。
セナは、そうして“完成”する。
◇ ◇ ◇
ラドクリフの体が、僅かに震えた。
自分の胸元を押さえた手が、硬直する。
白衣の下で、何かが焼ける匂いがした。
内側から焼き切っている。
鍵としての核を、別の形へ変える。
死ぬためじゃない。
“最後の仕事”を終えるためだ。
◇ ◇ ◇
ルコールは、ラドクリフを掴んだまま動けない。
止めたい。
だが止めれば、セナの何かが壊れる。
守りたい。
だが守れるものは、もう“形”しか残らない。
その事実が、重い。
◇ ◇ ◇
ラドクリフが、かすれた声で言う。
「軍曹」
「君は、迎える覚悟を決めた」
一拍。
「なら、証明しろ」
目が細くなる。
「君の人間を」
◇ ◇ ◇
ラドクリフの膝が崩れる。
だが倒れない。
倒れる前に、
床を這っていた左腕が断面へ“戻った”。
繋がったのではない。
“縫い付いた”。
部品が、機械へ戻るように。
その瞬間――
ラドクリフの身体から、
熱が抜けた。
目の光が薄くなる。
だが笑みだけは残る。
◇ ◇ ◇
「……これでいい」
最後の言葉は、満足だった。
逃げではない。
敗北でもない。
研究者の“完了”だった。
狂信者の“祈り”だった。
◇ ◇ ◇
外殻が鳴った。
杭が軋む音。
時間が削れる音。
盤面が締まる音。
クロウが動く音。
窓が閉じる音。
◇ ◇ ◇
ルコールは、ラドクリフの体温が消えたのを感じる。
死んだ。
鍵が死んだ。
だが――鍵は残った。
“人型維持”という檻として。
情けという名の、残酷として。
◇ ◇ ◇
ルコールは目を閉じない。
閉じれば、崩れる。
崩れれば、迎えられない。
迎える。
戻れないものを迎える。
その覚悟を、今ここで固定された。
◇ ◇ ◇
ルコールは立ち上がる。
白い部屋を出る。
誘導灯が、遠くで点く。
セラの導きが続いている。
セナへ。
迎えるべき“形”の元へ。
◇ ◇ ◇
そして、胸の奥でだけ言った。
(……待ってろ)
届かなくていい。
これは自分に刺す言葉だ。
迎えに行く。
戻せないと知ったまま。
迎えるために。
(第114話 了)
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