【第113話 切断の答え】
白い部屋は、まだ白かった。
だが今は、白の意味が違う。
汚れを隠す白ではない。
血が目立つ白だ。
そして――
“血ではないもの”が、なおさら目立つ白だ。
◇ ◇ ◇
床に落ちたそれは、腕だった。
ラドクリフの左腕。
人間の腕の形をしていない。
黒い筋と白い筋が混ざった生体素材。
骨格は柔らかく、関節は節を忘れ、
爪は黒く、鋭い。
切り落とされたのに――
指が、ゆっくりと掴む動作を続けていた。
痙攣ではない。
反射でもない。
“動こうとしている”。
部品が、元に戻ろうとしている。
◇ ◇ ◇
ルコールは一瞬だけ、呼吸を忘れた。
切った。
確かに切った。
それなのに終わらない。
殺しの常識が、ここでは通じない。
――人間の常識が、通じない。
◇ ◇ ◇
「……いいね」
ラドクリフが、薄く笑う。
声は掠れているのに、
顔の表情は崩れていない。
「君は、やっぱり上手い」
「“殺さないために切る”」
一拍。
「美しい判断だ」
褒め言葉の形をした毒。
だが、今はそれに反応しない。
狩人は、獲物の言葉を拾わない。
◇ ◇ ◇
切り落とされた腕が、床を這う。
白い床に黒い軌跡を残しながら、
ゆっくりと、ラドクリフの足元へ戻っていく。
ルコールは踏み潰さない。
踏み潰せば壊せる。
だが、壊した瞬間に何が起きるか分からない。
この男が“鍵”である以上、
余計な破壊はセナへ繋がる。
繋がるものを、今は壊せない。
◇ ◇ ◇
ラドクリフは床を見下ろし、淡々と言った。
「優しいね、軍曹」
優しい。
その言葉が一番汚れている。
優しさではない。
必要だから、殺さない。
必要だから、壊さない。
必要だから――奪う。
◇ ◇ ◇
ルコールは、腕ではなく――自分の手を見た。
血が滲んでいる。
さっきの爪が掠めた。
痛みは慣れている。
だが、胸の奥の痛みは慣れていない。
あの床を這う腕を見た瞬間、
白い翼の残像が、勝手に浮かんだ。
白金の瞳。
融解する光。
泣けない一滴。
セナ。
◇ ◇ ◇
理解する。
頭ではなく、胃の底で。
――戻れない。
戻すという道が、存在しない。
“切っても終わらない”ものへ変わった存在を、
元の人間へ戻す?
それは、嘘だ。
戻すという言葉は、
ここではただの慰めになる。
◇ ◇ ◇
ラドクリフが、わざと優しい声を出す。
「君が欲しい答えが、今、床を這ってるよ」
一拍。
「彼女も、同じだ」
ルコールは目を逸らさない。
逸らせば、負ける。
負ければ、セナが消える。
そんな脅しに、もう慣れない。
慣れたくない。
◇ ◇ ◇
ルコールの口が動いた。
自分でも驚くほど、静かな声。
「……戻せないんだな」
誰に向けた言葉か分からない。
ラドクリフへか。
自分へか。
それとも――セナへか。
◇ ◇ ◇
ラドクリフは首を傾げた。
「戻す?」
小さな笑い。
「何に?」
「栗色の髪に?」
「淡い水色の瞳に?」
一拍。
「孤児院の“少女”に?」
言葉が刃なのに、
口調だけが丁寧なのが腹立たしい。
◇ ◇ ◇
ルコールは言い返さない。
言い返せない。
床を這う腕が、もう答えだからだ。
戻れない。
戻る道はない。
あるのは――
迎える道だけ。
◇ ◇ ◇
「……なら」
ルコールは息を吐く。
短く。
「迎える」
言葉が出た。
勝手に出た。
戻すでもない。
取り戻すでもない。
迎える。
今のセナを。
変わってしまった姿を。
それでも、生きているセナを。
◇ ◇ ◇
ラドクリフの笑みが、僅かに止まる。
ほんの一瞬。
だが、狩人には十分だ。
この選択は相手の想定の外だ。
“戻せないなら殺す”でもなく、
“戻せないなら諦める”でもなく、
戻れないものを迎える。
それは、最も厄介な人間のしぶとさだ。
◇ ◇ ◇
外殻が鳴った。
杭が軋む音。
時間が削れる音。
盤面が締まる音。
クロウが動く音。
窓が閉じる音。
――外が長くは保たない。
◇ ◇ ◇
ラドクリフの切断面が、薄く蠢く。
筋が伸びる。
導管のようなものが伸びる。
床を這う腕と、断面が“繋がろう”とする。
機械みたいに。
生き物みたいに。
その光景が、吐き気を呼ぶ。
だが吐かない。
吐けば、足が止まる。
足を止めれば、セナが消える。
◇ ◇ ◇
ルコールは足を動かした。
今度は、迷いのない一歩。
武器を振るうためじゃない。
“捕まえる”ための一歩。
ラドクリフの重心。
次の踏み込み。
逃げ道。
回避の癖。
観察。
狩りの形。
◇ ◇ ◇
「……軍曹」
ラドクリフが楽しそうに言う。
「迎える、か」
「いいよ」
一拍。
「迎えればいい」
そして、声が少しだけ冷える。
「迎えた瞬間に、君の中の“人間”が折れるかもしれない」
言葉が嫌に正確だ。
だから、ルコールは答える。
短く。
「折れない」
祈りではない。
命令でもない。
ただの宣言だ。
◇ ◇ ◇
ラドクリフが笑った。
「なら――私を奪ってみろ」
次の瞬間、
空気が再び震える。
あの速度が来る。
あの爪が来る。
だが今は違う。
ルコールの中の判断が一つ減った。
“戻せるかもしれない”という幻想が消えた。
だから、狩りが純化する。
◇ ◇ ◇
ルコールは武器を振らない。
振れば斬れる。
斬れば終わる。
終わるのは――セナだ。
だから、当てる。
止める。
奪う。
掌底で、関節を潰す。
外套で、視界を奪う。
足で、軌道を塞ぐ。
狩りの手順で、追い込む。
◇ ◇ ◇
ラドクリフの爪が掠める。
肩が裂ける。
血が落ちる。
白い床に赤が点になる。
だが、ルコールの目は揺れない。
揺れたのは、さっきで終わった。
床を這う腕が、
“戻れない”を教えた。
その答えが、
“迎える”になった。
◇ ◇ ◇
ルコールは、ラドクリフの喉元へ手を伸ばす。
殺すためではない。
声を止めるためでもない。
“鍵”を掴むためだ。
生かしたまま、連れていく。
鍵ごと。
◇ ◇ ◇
ラドクリフの目が、嬉しそうに細まる。
「そうだ」
「そういう顔だ」
一拍。
「それでこそ、軍曹だ」
◇ ◇ ◇
ルコールは答えない。
答えは行動で十分だ。
迎える。
そして、奪う。
今のセナを迎えるために、
この男を奪う。
それが――狩人の新しい覚悟だ。
(第113話 了)
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