【第109話 ドクターの手】
扉の内側は、白かった。
照明が白いのではない。
壁が白い。
床が白い。
器具が白い。
汚れを隠す白。
それでも――匂いだけは隠せない。
薬品の奥に、
腐った甘さ。
生き物を煮詰めた匂い。
ルコールの目が細くなる。
ドクターの匂いだ。
◇ ◇ ◇
部屋は広い。
手術台が二つ。
冷却槽が三つ。
管と導線が天井から垂れ、
壁面には記録板が幾層にも並ぶ。
無音ではない。
低い循環音。
冷却の唸り。
どこかで滴る液体音。
生体を扱う部屋の音だ。
だが――
人の気配は薄い。
いない。
そう判断した瞬間。
「遅かったね」
声が落ちた。
すぐ後ろではない。
正面でもない。
“部屋全体”から聞こえるような声。
◇ ◇ ◇
ルコールは振り向かない。
振り向かずに、視線だけを滑らせる。
反射。
影。
器具の隙間。
そして――
白い影が、手術台の向こうに立っていた。
◇ ◇ ◇
ラドクリフ。
白衣。
中年の顔。
冷静で、狂気を孕んだ目。
首から下げたプレートが揺れる。
――記憶通りの姿だ。
ただし。
“半分までは”。
◇ ◇ ◇
ルコールの視線が、男の左腕へ落ちる。
人間の骨格ではない。
筋肉の張りが違う。
皮膚の質が違う。
白衣の袖口から覗く指が、
節の少ない、異様に長い形をしていた。
爪は黒い。
鋭い。
それだけで分かる。
人を捨てた。
“研究”で自分を作り変えた。
◇ ◇ ◇
「……ドクター」
ルコールが低く言う。
名を呼ぶこと自体が、汚れる気がした。
だが必要だ。
鍵を奪う。
そのために呼ぶ。
◇ ◇ ◇
ラドクリフは楽しそうに笑う。
「懐かしい呼び方だね、軍曹」
わざとだ。
わざと昔の役職で呼ぶ。
こちらの時間を引き戻すために。
「まだ、その目をしているのか」
一拍。
「壊す目ではなく、奪う目」
◇ ◇ ◇
ルコールは一歩も動かない。
距離はある。
だが近い。
この部屋は広いのに、
逃げ道が少ない。
床が白い。
血が目立つ。
ここは“血を見せるための部屋”だ。
◇ ◇ ◇
「……セナはどこだ」
ルコールは言う。
問いは短い。
余計な言葉は要らない。
◇ ◇ ◇
ラドクリフは首を傾げた。
「セナ?」
分からないふり。
だが目が笑っている。
「君が“セナ”と呼ぶ個体は――」
一拍。
「Se-07」
番号で言う。
人の名前ではなく、標本の番号で言う。
「現在、クロウが観測している」
さらりと言う。
「ほぼ、人型で保っている」
それが救いに聞こえるように言う。
そして、続ける。
「――素晴らしい」
◇ ◇ ◇
ルコールの奥歯が、わずかに軋む。
怒りは使わない。
使えば相手の思う壺だ。
狩人は怒りを鞘に納める。
◇ ◇ ◇
「……鍵を寄こせ」
ルコールは言った。
命令ではない。
宣告だ。
必要だから、奪う。
それだけ。
◇ ◇ ◇
ラドクリフは笑った。
「鍵?」
「因子制御の手順?」
「解除の順序?」
楽しそうに、候補を挙げる。
「欲しいね」
一拍。
「だが、君は勘違いしている」
◇ ◇ ◇
ラドクリフはゆっくりと手袋を外した。
右手は人間だ。
左手は――違う。
白衣の下から現れた腕は、
黒い筋と、白い筋が混じった生体素材で組まれている。
骨格が“柔らかい”。
関節の動きが、人間のそれではない。
「鍵は“物”じゃない」
「鍵は“私”だ」
淡々と。
誇らしげに。
「私が死ねば、Se-07は――」
一拍。
「制御の行き先を失う」
言い切った。
それがどういう意味か。
ルコールにも分かる。
壊せば、消える。
また同じ構造。
救いを許さない仕掛け。
◇ ◇ ◇
ルコールは息を吐く。
短く。
「……なら、生かして連れていく」
狩人の答えだ。
殺さない。
壊さない。
奪う。
◇ ◇ ◇
ラドクリフの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「できるかな」
そして、低い声で言った。
「君は強い」
「だが君の強さは――“人間の強さ”だ」
一拍。
「私は、そこから先へ行った」
◇ ◇ ◇
次の瞬間。
空気が震えた。
ラドクリフの足元の床が、わずかに沈む。
床材が軋む。
“重さ”が増えたのではない。
空間が押される。
密度が変わる。
生体因子が、周囲の空気を支配する。
◇ ◇ ◇
ラドクリフの背中が裂けた。
白衣が破けるのではない。
白衣の内側から、
何かが“起き上がる”。
骨のようなフレーム。
黒い管。
白い筋。
人間の背骨ではない形で、
背中に“別の背骨”が走る。
「……っ」
ルコールの呼吸が一瞬止まる。
これが――第二世代?
いや、違う。
こいつは“初期”だ。
自分で自分を改造した最初の狂気。
人間のままの顔で、
人間をやめた男。
◇ ◇ ◇
「美しいだろう?」
ラドクリフが言う。
「痛みも、恐怖も」
一拍。
「研究の邪魔にしかならない」
笑わない。
当然のこととして言う。
それが一番狂っている。
◇ ◇ ◇
ルコールは腰を落とす。
武器は抜かない。
抜けば、相手は喜ぶ。
武器を見せれば、相手は“戦闘”として楽しむ。
だから、まず距離を取る。
そして――
狩りの形を作る。
◇ ◇ ◇
ラドクリフが一歩踏み出す。
床が鳴る。
次の瞬間。
消えた。
消えたのではない。
動きが“間に合っていない”。
人間の視覚が追えない速度。
――近い。
もう目の前。
◇ ◇ ◇
ルコールは避ける。
反射。
戦場で鍛えた反射。
だが、避けた先に“爪”がいた。
左手。
異形の指。
空気を裂く音。
ルコールの外套が一筋、裂ける。
血が滲む。
だが浅い。
わざとだ。
相手は“殺せる”のに、殺していない。
遊んでいる。
試している。
◇ ◇ ◇
「――軍曹」
ラドクリフが囁く。
耳元ではない。
頭の奥に落ちる声。
「君は、Se-07を救いたい」
「だが救えば――君の“物語”が壊れる」
何を言っている?
ルコールは問わない。
問う暇がない。
◇ ◇ ◇
ラドクリフが離れる。
一歩。
それだけで距離が戻る。
空間の扱いが、人間じゃない。
◇ ◇ ◇
「君は選ぶことになる」
ラドクリフが言う。
「壊すか」
「奪うか」
「……それとも、捧げるか」
最後の言葉だけが、不自然に甘い。
ノクターンの匂いが混じる。
背後の“王”が透ける。
◇ ◇ ◇
ルコールの目が細くなる。
今は答えない。
答えを出すのは、手順が整ってからだ。
狩人は、獲物を確保するまで喋らない。
◇ ◇ ◇
ラドクリフは笑った。
「私は逃げない」
一拍。
「逃げる必要がないからね」
確かに。
この艦の中で、
こいつは“鍵”そのものだ。
逃げるのは――こちらの方だ。
◇ ◇ ◇
外殻が、また鳴った。
杭が軋む音。
時間が削れる音。
クロウ将軍が動き出す。
ノクターンが盤面を閉じる。
――窓が閉じる。
◇ ◇ ◇
ルコールは、息を吐いた。
短く。
そして、初めて言う。
「……捕まえる」
宣言ではない。
予告でもない。
ただの事実だ。
狩りの開始だ。
◇ ◇ ◇
ラドクリフの瞳が、わずかに輝いた。
「いいね」
「その目だ」
一拍。
「その目で、どこまで届くか見せてくれ」
狂気は楽しげだ。
だからこそ――
殺す。
ではない。
奪う。
生かしたまま。
鍵ごと。
(第109話 了)
※他作品も連載中です。
最強のハンター、神の光を拾う。〜滅びゆく世界で俺はもう一度守りたい〜
https://ncode.syosetu.com/n0190lh/
※他作品も連載中です。
勤労に感謝を。働き続けた男の、転生スローライフ
https://ncode.syosetu.com/n1113lt/




