【第107話 杭を打つ窓】
雲の縁に張り付くように、ノーグレイブは速度を落としていた。
突っ込まない。
――正面からは。
それが、あの場で決めた条件だった。
◇ ◇ ◇
巨大な積乱雲の向こうに、浮遊要塞がいる。
“見えない”のではない。
“見せない”ために、雲が置かれている。
航路外。
観測外。
常識外。
空の一部が、敵の領域になっている。
◇ ◇ ◇
それでも、外周の一箇所だけ。
空気が歪んでいた。
熱波のような揺らぎ。
――合図。
ルコールが作った穴。
敵の目を引きつけるための、わずかな傷口。
オズマは計器を見比べ、淡々と言う。
「反応、偏っている」
「向こうの視線が一箇所に寄った」
判断が早い。
だが声は硬い。
「……罠の可能性もある」
◇ ◇ ◇
バルドは操縦桿を握り、機体姿勢を一定に保った。
「だから、突っ込まねぇ」
低く言う。
「突っ込みたいがな」
その一言に、冗談はない。
“棺桶”を名乗った機体が、
棺桶で終わるか、棺桶じゃないと証明するか。
その境界に立っている。
◇ ◇ ◇
フォティは格納区画の端で、窓の外を見ていた。
白金の粒子は静かだ。
だが、消えてはいない。
いつでも出せる。
それが怖い。
同時に、守れるという確信もある。
それがもっと怖い。
◇ ◇ ◇
ミラは、いつもより静かだった。
背筋を伸ばしているのに、
目は遠い。
雲の向こうを見ているようで、
実際は“何か”を聞いている。
そんな顔をしていた。
◇ ◇ ◇
そのとき。
ミラが、ふらりと立ち止まった。
息が詰まる。
胸の奥を、冷たい手で握られたみたいに。
「……ミラ?」
フォティが反射的に袖を掴む。
ミラは返事ができない。
声が出ない。
代わりに――
頭の奥へ、幼い声が落ちた。
(……へい、たい……さん)
(……あぶない)
(……いま)
言葉が途切れるたび、
艦の灯りが、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
◇ ◇ ◇
オズマが気づく。
計器の針がわずかに踊る。
「……艦が、揺れている」
小さな揺れ。
普通なら風と誤認する程度。
だが、空の中で“均一に揺れる”のは不自然だ。
「……内側の振動だ」
オズマは息を呑む。
「中枢が、出力配分を変えている」
◇ ◇ ◇
ミラが、ようやく口を開いた。
「……るこーるが」
一拍。
「……いま、ぴんち……」
それだけ。
それだけで、空気が変わった。
バルドの目が変わる。
迷いが消える。
決断だけが残る。
◇ ◇ ◇
「……火器」
ミラが続ける。
言葉の選び方が、子どもだ。
でも、内容は戦場だ。
「……とまってる」
フォティが目を見開く。
「え……?」
ミラは首を振る。
「……とめてる」
言い直すように。
「いまだけ……」
◇ ◇ ◇
オズマが即座に裏取りするように計器を見る。
雲の縁の揺らぎ。
観測波形。
迎撃の反応。
――鈍い。
完全停止ではない。
だが、“正確に撃てる状態”ではない。
「……迎撃が遅れている」
オズマの声が低くなる。
「誰かが外周火器への配分を切ってる」
そして、ミラを見る。
「……“あの子”か?」
名を出さない。
名を出した瞬間に、
それが現実になってしまう気がした。
ミラは小さく首を振る。
「……セナ、じゃない」
一拍。
「セナの……ともだち」
それ以上は言えなかった。
言えば、胸の奥の声が途切れてしまう気がした。
◇ ◇ ◇
バルドが、低く言う。
「セナがぶち抜いたんだな」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、現場の推測。
「変異の時に艦の中で暴れた」
「だから“守るため”に火器を止めた」
一拍。
「止めた結果、今だけ穴が空いてる」
救いが破壊を呼ぶ。
救いが防衛を弱らせる。
のをうの論理だ。
◇ ◇ ◇
フォティの胸が痛む。
セナの変異が、
セナ自身の檻を強くするだけでなく、
艦を痛めつけてもいる。
誰も救われていない。
なのに、ここに“窓”だけが生まれている。
◇ ◇ ◇
「……突入しないんじゃ」
フォティが呟く。
さっき決めた条件。
バルドは操縦桿から目を離さず言った。
「正面からは、だ」
一拍。
「今からやるのは正面じゃねぇ」
操縦席の前方窓。
雲の腹。
ミラが示した場所。
そして、火器が止まっている“傷口”。
◇ ◇ ◇
「……刺す」
バルドが言う。
笑わない。
冗談の余地がない。
「この窓が閉じたら、次はねぇ」
「ルコールが中で死ぬ」
「セナが完成する」
「――だから刺す」
◇ ◇ ◇
オズマが条件を出す。
戦友の声だ。
「突入は“抜ける”な」
「刺して、止まれ」
「船体を貫通させるな」
「内部の爆発に巻き込まれれば、ルコールもセナも終わる」
正論。
だから怖い。
だから必要だ。
◇ ◇ ◇
「了解だ、頭脳役」
バルドは短く返す。
「棺桶じゃねぇところ――」
一拍。
「今、見せる」
◇ ◇ ◇
ノーグレイブの機体が微かに震えた。
魔導炉が唸る。
あの“ご機嫌”な心臓が、目を覚ます。
推進圧が上がる。
空気が後ろへ流れる。
床板が細かく鳴る。
◇ ◇ ◇
ミラがふらつく。
フォティが支える。
ミラの瞳はまだ遠い。
声はもう届かない。
セラは、余力を削ってここまで伝えた。
これ以上の介入は――艦そのものを落とす。
◇ ◇ ◇
バルドが、雲の腹へ機首を切った。
雲が迫る。
白い壁が機体を飲み込もうとする。
視界が白で潰れる。
計器の針だけが生きている。
「速度、維持」
オズマが淡々と読み上げる。
「迎撃反応――鈍い」
一拍。
「今なら、届く」
◇ ◇ ◇
フォティは窓の外を睨む。
もし砲撃が来れば、
自分が相殺する。
下に街がないのが救いだ。
空は隔てるものがない。
だから、力を解放しても被害はここだけだ。
それでも――
もう二度と、あの記憶を繰り返したくない。
“人でいたい”。
そのために、今は守る。
◇ ◇ ◇
雲を抜けた瞬間、
視界が開けた。
浮遊要塞の外殻。
――傷がある。
内側から裂けたような破断面。
装甲の継ぎ目が歪み、
応急補修の痕が走っている。
セナが変異した時の爪痕。
そして、火器が止まっている理由。
守るために止めた。
だから、外周が一瞬だけ弱い。
◇ ◇ ◇
「……そこだ」
バルドの声が落ちる。
操縦桿を押し込む。
加速。
圧。
空気が裂ける。
◇ ◇ ◇
迎撃が遅れている。
砲座が動く。
だが照準が合わない。
“目”が鈍い。
その一拍が、生死を分ける。
◇ ◇ ◇
「行くぞ」
バルドが言う。
「墓標は空にねぇ」
一拍。
「杭を打つだけだ!」
◇ ◇ ◇
衝撃。
世界が一瞬、止まる。
鈍い音が腹の底に響く。
ノーグレイブの船首が、
要塞の破断面へ噛みつく。
装甲が鳴る。
金属が悲鳴を上げる。
だが――砕けない。
魔導出力式の心臓が衝撃を流す。
循環する。
耐える。
止まる。
◇ ◇ ◇
刺さった。
抜けていない。
貫通していない。
“止まった”。
オズマが即座に判断する。
「成功だ」
「突入路ができる」
声が震えていないのが異様だった。
震える暇がない。
現実が速すぎる。
◇ ◇ ◇
ミラが、かすれた声で言う。
「……るこーる……」
祈りでも命令でもない。
ただの願い。
それが、艦内に落ちる。
◇ ◇ ◇
フォティは手のひらを握りしめる。
もう怖いと言える。
怖いまま、動ける。
それが人だ。
◇ ◇ ◇
ノーグレイブは、
要塞の傷口に杭のように刺さっている。
棺桶じゃない。
“扉”だ。
だが――
この扉の向こうには、
救いがない。
分かっている。
それでも行く。
行かなければ、終わる。
(第107話 了)
忙しいなりにがんばります。




