【第106話 焦げた匂いの中で】
空は広い。
広いのに、逃げ場がない。
ノーグレイブの外装に残る焦げた匂いが、
それを教えていた。
◇ ◇ ◇
格納区画の床に、フォティは座り込んだままだった。
息が整わない。
手が震える。
強さの震えじゃない。
――思い出した震えだ。
自分が、ただの少年じゃないことを。
そして、
それを忘れていた方が楽だったことを。
◇ ◇ ◇
「……大丈夫か」
バルドが、工具を持ったまま言った。
声は低い。
叱責じゃない。
確認だ。
確認でしか、触れられないものがある。
◇ ◇ ◇
「……大丈夫」
フォティは、嘘みたいに短く言った。
大丈夫じゃないことを、
一番自分が分かっているのに。
だから短くする。
長く言ったら崩れる。
◇ ◇ ◇
ミラがそっと、フォティの袖を掴む。
それだけでいい。
触れている温度が、
現実に戻す。
光は災いになれる。
でも、温度は災いじゃない。
そう思える。
◇ ◇ ◇
オズマは計器盤を見つめていた。
針が戻っている。
波形が落ち着いている。
だが、落ち着いた“後”が異常だった。
「……記録が、焼けている」
小さく呟く。
「数値ではない。履歴そのものが……」
魔導計器が、空白を吐いている。
災害級の出力は、計測器の理解を超える。
◇ ◇ ◇
「これが魔法だというのなら――」
オズマが続ける。
誰に言うでもなく、問いとして落とす。
「この国の“魔法”は、ずいぶん優しい仕組みで出来ている」
皮肉ではない。
恐怖の整理だ。
自分の理解できる世界に押し込むための言葉。
◇ ◇ ◇
「……優しくねぇよ」
バルドが、短く返した。
床に膝をつき、外装材の溶け跡を撫でる。
装甲は破れていない。
だが表面が薄く、確実に削れている。
「これ、薄皮一枚で済んだだけだ」
笑わない。
「あと半拍、遅かったら――」
言葉を切る。
言い切らない。
誰も、続きを望んでいない。
◇ ◇ ◇
ノーグレイブは今、戦闘空域の外縁にいる。
雲の壁――巨大な積乱雲の外側。
あの雲の向こうに、浮遊要塞がいる。
“街”が浮いている。
その現実が、空気の重さになってのしかかる。
◇ ◇ ◇
「……ルコールは」
ミラが、小さく言った。
言ってから、自分で口を噤む。
答えを聞くのが怖い。
戻っていない。
それは全員が知っている。
◇ ◇ ◇
バルドが、操縦席の計器を一瞥する。
「今、俺たちが中へ突っ込んでも」
一拍。
「助けになる保証はねぇ」
低い声。
「中の状況が見えない以上、
最悪――“向こうの都合”に合わせるだけになる」
何が起きるか分からない。
それが怖い。
◇ ◇ ◇
オズマが頷く。
「この要塞は“反応が遅い”のではない」
「反応を選んでいる」
言葉が冷たい。
だが冷たく言わなければ、
震えが声に出る。
「最適化しているんだ。恐怖を」
◇ ◇ ◇
フォティは自分の手を見る。
光は静かだ。
さっきまでの白金の粒子はない。
だが、いなくなったわけでもない。
いつでも――出せる。
それが怖い。
そして、頼もしい。
両方が混ざって、
胸の奥がざわつく。
◇ ◇ ◇
「……ねえ」
ミラが、フォティの袖を掴んだまま言った。
「さっきの、あれ」
言葉を探す。
「こわかった?」
子どもみたいな質問。
でも、今はそれでいい。
◇ ◇ ◇
フォティは一度だけ頷いた。
「うん」
正直に言えたのは、
袖を掴まれているからだ。
「……こわかった」
言った瞬間、
呼吸が少しだけ楽になった。
怖いと言えるのは、
人だからだ。
◇ ◇ ◇
そのとき。
計器盤の端が、微かに瞬いた。
オズマの視線が鋭くなる。
「……熱波」
小さく言う。
「外周の一箇所だけ、空気が歪んでいる」
◇ ◇ ◇
バルドも顔を上げる。
操縦席の前方窓。
雲の壁の縁。
そこだけが、見え方が違う。
煙ではない。
炎でもない。
ただ、空気が“割れている”。
◇ ◇ ◇
「……合図だな」
バルドが低く言う。
職人の勘ではない。
戦場の勘だ。
「抜け道を作った」
誰が?
言うまでもない。
◇ ◇ ◇
オズマが即座に判断する。
「今は行くな」
「合図は“穴が開いた”だけだ」
「穴が開いた瞬間に突っ込めば、相手は学習する」
理屈は正しい。
だが――
バルドの手が操縦桿に伸びる。
「学習される前に噛みつくのが、こっちの仕事だろ」
◇ ◇ ◇
「待て」
オズマの声が硬くなる。
「ルコールが中にいる。突入の衝撃で巻き込む可能性がある」
正論。
だから迷う。
迷う時間が、いちばん危ない。
◇ ◇ ◇
フォティが口を開く。
まだ顔色は青い。
だが目だけは、さっきよりも焦点が合っている。
「……やるなら」
一拍。
「ぼくが、外を見てる」
“外を見てる”の意味は、
ただの見張りじゃない。
砲撃が来たら、相殺する。
それが言外にある。
◇ ◇ ◇
ミラが、フォティの袖を掴む力を少し強めた。
止めない。
止められない。
止める資格がない。
ただ、掴む。
この少年が“人”でいられるように。
◇ ◇ ◇
バルドが笑った。
いつもの軽さではない。
苦い笑いだ。
「……棺桶じゃねぇところ、見せる時が来たか」
ノーグレイブの名が、
今ここで初めて“願い”になる。
墓標は空にない。
落ちる前に、突き抜ける。
◇ ◇ ◇
オズマが、短く息を吐く。
「……なら、条件がある」
「突入はしない」
「穴を“維持”する」
「ルコールが戻る道を残す」
それは王子の言葉ではなく、
戦友の言葉だった。
◇ ◇ ◇
バルドが頷く。
「了解だ、頭脳役」
操縦桿を握る。
ノーグレイブの機体が微かに震えた。
魔導炉が唸る。
ご機嫌な心臓が、もう一度目覚める。
◇ ◇ ◇
フォティは立ち上がる。
手のひらを見つめる。
白金の光は静かだ。
だが、確かにそこにある。
災いになり得る光。
それでも――
守るために使える光。
その境界に立ったまま、
彼は前を見る。
◇ ◇ ◇
ミラが、小さく言った。
「……ルコール、いきて」
祈りでも命令でもない。
ただの願い。
◇ ◇ ◇
ノーグレイブは、雲の縁へ向けて機首を切る。
合図の歪みへ。
突っ込まない。
だが、離れない。
空の主の庭に、
もう一度“影”を落とすために。
(第106話 了)
例年通り田植えは盆前までかかる予定なので、そこを過ぎるまで体力的の問題があります。




