【第105話 空の主】
扉は、音もなく開いた。
白い光。
薬品と消毒の匂い。
冷たい金属の気配。
“清潔”を装う白さが、逆に不気味だった。
◇ ◇ ◇
――誰もいない。
机。
薬瓶。
記録板。
魔導器具。
冷却箱。
整然としているのに、人の熱だけがない。
椅子は引かれていない。
紙もめくられていない。
道具も使われた形跡が薄い。
最初から“空”だった。
◇ ◇ ◇
ルコールは一歩だけ踏み込む。
逃げ道。
死角。
天井。
床。
反射。
導管の脈。
足音が響く角度。
――いない。
だが、直感だけが言う。
“いる”。
◇ ◇ ◇
温度が、わずかに落ちた。
灯りが一段だけ白くなる。
音が消える。
艦の鼓動も、警報も、
遠い。
世界が、この部屋のために息を止めた。
◇ ◇ ◇
そこに――
最初から居たように、影が立っていた。
入室の音はない。
転移の光もない。
ただ、居る。
その“当たり前”の破綻が、何より不気味だった。
◇ ◇ ◇
――ノクターン。
名乗りはない。
だが、その名はすでにこちらの中にあった。
クロウが口にした。
ラドクリフが笑って転がした。
誰もが“便宜上”そう呼ぶしかないもの。
本人は肯定もしない。
否定もしない。
ただ、名を必要とする側の現実だけが、
そこに立っていた。
この空域の主。
この艦の主。
そう理解させるだけの密度が、そこにあった。
◇ ◇ ◇
「……なるほど」
低い声。
怒鳴らない。
脅さない。
だから恐ろしい。
「クロウも、ドクターも」
一拍。
「実験の成功に喜んでいる」
成功――
白い翼。
白金の瞳。
人の形を残した怪物。
セナ。
◇ ◇ ◇
ルコールは答えない。
沈黙は盾だ。
会話になった瞬間、
主導権が向こうへ移る。
そのことを、身体が知っている。
◇ ◇ ◇
ノクターンは楽しげに言葉を続ける。
「それでも君は、冷静だ」
「状況の中で、次に何を確保すべきかを選べる」
淡々とした称賛。
祝福ではない。
獲物の性能確認だ。
◇ ◇ ◇
ルコールが低く言う。
「……ラドクリフはどこだ」
必要な言葉だけ。
◇ ◇ ◇
ノクターンは首を傾げた。
「ドクターを確保したいのか」
答えではない。
だが核心に触れてくる。
まるで、こちらの結論に先回りするように。
◇ ◇ ◇
ルコールの指先が、わずかに動く。
距離を測る。
届くか。
斬れるか。
ここで斬って、終わるか。
◇ ◇ ◇
ノクターンは動かない。
測らせる。
その余裕が、いちばん厄介だった。
◇ ◇ ◇
「安心しろ」
ノクターンが言った。
「私は今、君を殺しに来たわけではない」
それが恐ろしい。
殺す権利が当然にある者だけが、
そんな言葉を静かに言える。
◇ ◇ ◇
「君には告げたいことがある」
影が、一歩だけ近づく。
距離が縮む。
圧が増す。
それでもルコールは動かない。
動けば盤面が確定する。
◇ ◇ ◇
「私は……君が気に入った」
言い方が、あまりに自然だった。
“ファンになった”とでも言うような口調。
だが温度はない。
好きも嫌いも、道具の評価だ。
「壊れそうで、壊れない」
「折れそうで、折れない」
「それでいて、次の手を探せる」
その声は、妙に優しい。
優しい形をした刃だった。
◇ ◇ ◇
「……セナは、もう戻れない」
淡々と断言する。
それが、最悪だった。
“可能性”を奪う言葉。
救いの余地を潰す言葉。
◇ ◇ ◇
ルコールの奥歯が軋む。
だが怒鳴らない。
怒鳴れば、負ける。
この男の望む形で壊れる。
◇ ◇ ◇
ノクターンは続けた。
「戻れると思うから、君は苦しい」
「戻れないと理解すれば、君はもっと美しい」
吐き気がした。
美しいのは構造だ。
苦しみの構造を組んでいる自分の手際が美しい、と言っている。
◇ ◇ ◇
「……黙れ」
ルコールの声が低く落ちる。
怒りが滲む。
だが、凍った怒りだ。
◇ ◇ ◇
ノクターンは首を傾げたまま言った。
「だが、救いはある」
一拍。
「君が“セナと一緒にいたい”のなら」
ゆっくりと、提案する。
「協力しよう」
◇ ◇ ◇
ルコールの背中が冷える。
この男の“協力”は、必ず血の匂いがする。
「君は器になれる」
ノクターンは言う。
「壊れない器だ」
「君の中に“私”を入れれば」
一拍。
「セナと、永く一緒にいられる」
◇ ◇ ◇
優しさを装った、最悪の救済。
セナを救うのではない。
セナの檻に、一緒に入れと言っている。
それを救いと呼ぶ。
――救いの形をした絶望だ。
◇ ◇ ◇
ルコールは、ゆっくりと息を吐いた。
そして、冷たく言った。
「俺は、狩人だ」
◇ ◇ ◇
ノクターンは微笑まない。
だが、満足そうな気配だけを滲ませる。
「だからこそだ」
「狩人は獲物を仕留めるためなら、自分の肉すら削る」
「痛みに強い」
「喪失に慣れている」
「君は器に向いている」
言葉が、一つずつ積まれていく。
理屈の形をして、心を削る。
◇ ◇ ◇
ルコールの拳が、静かに握られる。
痛みに慣れている。
喪失にも慣れている。
だから許せない。
その慣れを“適性”と呼ばれることが。
◇ ◇ ◇
「……セナを返せ」
ルコールは言った。
命令ではない。
宣告だ。
◇ ◇ ◇
ノクターンは淡々と答える。
「返す?」
一拍。
「君が望むセナは、もう存在しない」
「存在するのは、完成しつつある器だ」
「君が取り戻したいのは、過去だ」
「私は未来を与える」
言葉の形だけは、救いに見える。
中身は――空っぽだ。
◇ ◇ ◇
ルコールは、一歩も引かない。
だが、一歩も踏み込めない。
踏み込めば、ここで終わる。
終われば、セナが終わる。
その構造を、この男は知っている。
知っていて、こうして立っている。
◇ ◇ ◇
「ドクターを探すといい」
ノクターンが言った。
「君がやりたいことは分かっている」
「鍵を奪うのだろう?」
一拍。
「奪ってみろ」
「その上で、セナがセナでいられるか」
◇ ◇ ◇
影が薄くなる。
消えるのではない。
“そこに居る”まま輪郭だけが薄くなる。
最初から居た。
最初から居ない。
その矛盾を、平然と成立させる存在。
◇ ◇ ◇
最後に声だけが落ちた。
「壊れるなよ、狩人」
「私は……君の結末が見たい」
観察者の言葉。
実験の経過を楽しむ声。
◇ ◇ ◇
次の瞬間。
温度が戻る。
音が戻る。
艦の鼓動が戻る。
ノクターンは――消えていた。
そこに最初から誰もいなかったかのように。
◇ ◇ ◇
ルコールはひとつ息を吐く。
喉の奥が焼けたように痛い。
この艦の中で、
一番危険なものに触れた。
クロウでもドクターでもない。
“空そのもの”だ。
◇ ◇ ◇
だが獲物は変わらない。
ドクターを確保する。
鍵を奪う。
壊さずに奪う。
それだけ。
ルコールは部屋を出た。
通路の照明がひとつ点く。
次が点く。
次が点く。
セラの灯りか、艦の誘導か。
もう、どちらでもいい。
選ぶのは――俺だ。
(第105話 了)
やりたいことが多いので完結まで可能な限り走ります。




