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空席代行者 〜勇者の席が空いているので、代わりに座っています〜  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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第9話 問屋の判

 その朝も、カイは消灯の前に日誌を書いていた。


 点灯の時刻、消灯の時刻、天候、波の具合、見えた船の数。先代の形式をなぞった字が、頁の終わりまできちんと並ぶ。


(今日も、異常なし)


 数日前の頁には、ゲンタが初めて当直を務め切った記録があった。隣にカイが控えたまま、手は出さなかった。


 日誌を閉じたところで、港の方が騒がしくなった。



 2月も半ばを過ぎた頃、港に買い付け問屋の旗を掲げた商船が入った。


 春の塩干し商いに向けて、各村の漁獲を見極め、契約を結び直す季節だ。漁村にとって、1年で最も大事な商談だった。


「ブンシチさんが来たぞ」


 港で誰かが叫ぶと、村の空気が引き締まった。


 番屋にはゴヘイとリュウゾウ、主だった漁師たちが集まっていた。皆、表情が硬い。


 問屋の手代ブンシチは、挨拶より先に帳面を開いた。30半ばの小男。細い目に薄い唇。判箱には目もくれない。


「やあ、ゴヘイさん。リュウゾウさん。今年もよろしくお願いしますよ」


「こちらこそ。遠いところを」


「さっそくですが、今年の契約の話をさせてもらいます。といっても、まだ判は押せませんがね」


「判が押せない、とは」


 リュウゾウが低い声で聞いた。


「先代の灯台守が亡くなってから、この村は3か月、正式な決定が執行できなかった。契約の空白、出漁の遅れ、入漁権の保留。こちらの帳簿にも、記録されています」


 ブンシチの指が帳面の行をなぞった。


「昨年の同時期と比べて、取引実績は4割減。信用というのはね、リュウゾウさん。数字に現れるものです」


「だが、先週の出漁は大漁だった。5艘満載で戻った。あれは記録に残るはずだ」


「ええ、聞いています。チヨさんの日和見が当たったと。それは評価します」


 指が、止まった。


「ですが、1度の大漁で3か月の空白は埋まりません。仮の代行が灯を点したとはいえ、正式な灯台守の席は空いたまま。そんな村と去年と同じ条件で結べと言われても、本店が首を縦に振りません」


 誰も、帳面の空白の判欄から目を逸らさなかった。


「契約の更新を保留にされたままでは、春からの塩干しの売り先が消える」


 リュウゾウの声が震えた。机の印判に伸ばしかけた手を、自分で止める。


「この村の魚は、あんたの問屋にしか卸せない。専属契約だろう。それを保留にされるってことは、村が止まるってことだぞ」


「だからこそ、私は来たんですよ。保留は打ち切りではありません。条件次第では、本店も動きます」


「条件とは」


「この村の営みが、確かに回っているという証拠です。空席があっても、村が止まっていないという証明。それを数字で、記録で示していただきたい」


「……なら、1つ頼みがある」


 ゴヘイが口を開いた。


「判は今すぐでなくていい。だが、月末までは打ち切らんと、覚書に書いて判をくれ。口約束じゃ、村が収まらん」


 ブンシチは少しだけ目を細めた。それから、判箱を開けた。


 ぽん、と乾いた音。覚書の端に、朱い判が1つだけ押された。


「判は、これだけですよ」


「十分だ」



 その日のうちに、番屋で緊急の寄り合いが開かれた。


「期限は今月末だ。判が下りなければ、春の塩干しの商いは白紙になる」


 リュウゾウが言った。


「白紙になれば、女たちの仕事も消える。種籾も買えん。網の修理代も払えん」


「いっそ、問屋を替えるか」


 若い漁師が言った。


「替え先が、空席の噂を知らんと思うか。どこの問屋も同じだ」


「仮の代行の記録なんぞ、見せた方が危ないんじゃねえか」


「見せなきゃ、証拠が何もない」


 声が交錯する。ゴヘイは黙って聞いていたが、やがて口を開いた。


「灯台の日誌は、どうなっとる」


「先代のジンペイは、毎日日誌を付けていたはずだ。あれは、正式な灯台守の記録だ」


「仮の記録じゃ、信用にならんだろ」


「逆だ」


 ゴヘイは短く言った。


「灯は点いとる。消えとる。字に残っとる。先代の字と代行の字が続いとれば、空席の間も仕事は止まっとらん証拠になる」


「まずは、ツギ婆さんに確認だ」



 その夜、ゴヘイとリュウゾウはツギの小屋を訪ねた。


「問屋が、記録で示せと言ってきた。灯台の日誌を見せたい」


 ゴヘイは短く切り出した。


 ツギは立ち上がり、棚の奥から紐で括った日誌の束を下ろした。革表紙が何冊も重なっている。


「古いのは、ここだ。ジンペイが40年、毎晩欠かさず書いたものだ。灯室にあるのは、最後の3年分だよ」


「代行の旅人は、書いているのか」


「書いているよ。あの子が来てから、毎日だ」


 ツギは少し間を置いた。


「誰も教えちゃいない。あの子は、灯室の日誌を読んで、自分で書き方を覚えた。点灯の時刻も、波の具合も、先代の形式をそのままなぞってね」


 ゴヘイとリュウゾウは顔を見合わせた。


「なら、その日誌を見せてもらえるか」


「見るなら、灯室のあの1冊だよ。あの子の字は、先代の字の後ろに続いとる」


「好きにしな。ただし、あの子の許可も取るんだよ。あの子は仮の代行だが、日誌はあの子の仕事の記録だ。勝手に持ち出すのは、筋が通らない」


「分かった。本人に話を通す」



 翌朝。カイが灯室の掃除を終えたところで、ゴヘイとリュウゾウに呼び止められた。


「灯台守さん、少し話がある」


「おはようございます。何かありましたか」


「問屋のブンシチが来とる。契約の更新を保留にされた。覆すには、灯台の仕事が止まっとらん証拠が要る。あなたの日誌だ」


(日誌か)


 カイは2人の顔を見た。


(確かに書いている。毎日、先代の形式をなぞって。だが、あれが村の外へ出れば、俺の字が残る。名もない代行の字が)


 彼は、すぐには頷かなかった。


「日誌は、灯台守の仕事の記録です。私の書いているものは、正式な記録ではありません。仮の代行の走り書きです」


「それでもいい。いや、それだからこそ意味がある。席が空いていても、仕事は続いとる。あんたの日誌が、その証明になる」


 リュウゾウが身を乗り出して言った。


「頼む。村のためだ」


「……1つだけ、条件があります」


 カイは言った。


「日誌は、番屋から出さないでください。見るのは番屋の中で。提示が済んだら、返してもらいます」


「分かった。その条件でいこう」


 ゴヘイが頷いた。


「分かりました。日誌は、お見せします。判そのものは、私の権限の外ですが」


「助かる。昼には、ブンシチが番屋へ見に来るそうだ」


(昼か。思ったより、早い)

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