第8話 ジンペイさんそのもの
「明日の昼から、海が動く」
チヨは干し魚の焼き加減を爪先で確かめながら言った。リュウゾウは番屋から戻ったばかりの外套を脱ぎかけ、妻の言葉に足を止めた。
「海が動く。どういう意味だ」
「風が変わる。明日の昼に変わって、明後日の朝まで凪が続く。沖の深場で、魚が浮いてくる」
「本当か」
「雲の流れが2日続けて同じ形を作った。沖の波も、今朝から少しずつ丸くなってる。外れると思うなら、止めな」
リュウゾウはしばらく空を見ていた。チヨの日和見はこの村で誰よりも当たる。漁師のリュウゾウ自身が認めるほどだった。
「明後日の朝までか。なら今夜中に準備して、明日の昼前に出るのが最善だな」
「早いほどいい。遅れると魚が散る」
「分かった。寄り合い長に話を通して、出漁計画を前倒しする。予定では来週だったが、海が待ってくれないなら動くしかない」
リュウゾウは外套を着直して、再び夜の外へ出ていった。
翌日の昼前、港は慌ただしい熱気に包まれていた。予定より1週間早い出漁だ。男たちが網を船に積み込み、女たちが保存食を配り、子供たちが走り回る。チヨの日和見が「今だ」と言うなら、漁師たちは迷わない。
「灯台守さん!」
灯台のふもとで道具の手入れをしていたカイに、デンジが駆け寄ってきた。
「今日、出漁だ。凪の間に沖へ出る。夜には帰れんかもしれん。灯台の灯、頼むぞ」
「任せてください。今夜は月も細い。いつもより早めに点灯します」
「助かる。帰りはあんたの灯を頼りにさせてもらう」
デンジは力強くカイの肩を叩いて、港へ走っていった。
昼過ぎ、5艘の漁船が一斉に沖へ出ていった。舳先に立つリュウゾウの背中が、午後の光の中で黒く浮かび上がる。リュウゾウの采配で、ゲンタもその1艘に乗っていた。出漁の要員として海へ出たのだ。
(今夜、ゲンタは夜の海の上にいる。灯台の中で恐れるのとは、また違う夜だ)
カイは灯室から船団を見送り、日が沈みかけるとランプの前に立った。芯を切り、油を足す。手が自然に動く。
ふと、カイは手を止めた。
(迷いがない。手順を、確かめてすらいない)
火打ち石を打つ。火花が散り、芯に火が点る。光が育ち、回転装置が動き始める。夕闇の中に、灯台の光が規則正しく放たれ始めた。
夜の海は凪だった。風はほとんどない。月は細く、星が異様に明るい。5艘の漁船はそれぞれの漁場に散り、網を入れていた。
リュウゾウの船の上で、ゲンタは仲間と声を合わせ網を手繰っていた。冷たい海水が腕に重く食い込む。足元の闇はどこまでも深く、手の震えは止まらない。それでも網を引く。仲間がいる。仕事がある。
「獲れてるぞ!」
誰かが叫んだ。網の中に、銀色の魚が跳ねている。大漁だ。
「よし、どんどん揚げろ! 凪が続くうちに、もう一手入れるぞ!」
「灯台の灯が見えるぞ!」
皆が一斉に振り返った。沖の闇の中に、規則正しい光の明滅。あの灯が帰るべき方向を示している。
「ありゃあ、本当に助かる。あの灯がなかったら、今頃方角も分からん」
「ジンペイさんが点してた頃と、少しも変わらん」
その言葉に、ゲンタは網を引く手を止めた。明滅をじっと見つめる。
「……いつか、俺も」
誰に言うでもない呟きだった。ゲンタは唇を引き結んで、震える手で再び網に力を込めた。
深夜、カイは分銅室で1人ハンドルを回していた。ゲンタは海の上にいる。風が弱く、波の音も小さい。響くのは歯車の音と自分の息遣いだけだった。
回す手つきが、昨日より体に馴染んでいる。考えるより先に、手が次の角度を知っていた。
カイはその感覚から目を逸らすように、回し続けた。分銅が上がっていく。灯は今夜も回り続けている。
出漁は大成功だった。翌朝、港に戻った5艘の船はどれも魚で満載だった。女たちが、網から溢れる銀色の魚を手際よく籠に分けていく。魚籠が埠頭に並びきらないほどの量だった。子供たちがはしゃぎ、老人たちが笑った。
チヨは魚の山には目もくれず、灯台を見上げていた。
カイは港の片隅でその光景を眺めている。
「灯台守さん、ありがとうよ!」
「チヨの日和見は、やっぱり神がかってる。1週間遅れてたら、この凪を逃してた」
「灯台の灯も本当に助かった。夜の海であの明滅が見えると、心が落ち着く」
「本当に、ジンペイさんが点してた頃と少しも変わらん光だよ」
「いえ、ただ点けただけです」
カイは曖昧に微笑んだ。
「謙遜するなよ。あんたの点す灯は、ジンペイさんの灯と寸分違わない」
「そうそう。昨夜の灯は、なんだか長く見えたぞ。あれ、ジンペイさんの灯も、凪の日はあんなふうだったよな」
言った男の笑いが、途中でふっと消えた。
カイは思わず灯台を見上げた。
(俺は明滅の間合いを変えたのか。無意識に)
「ジンペイさんそのものだ」
誰かの呟きが、港のざわめきの中でやけに大きく聞こえた。
その夕方、カイはツギの小屋に戻った。ツギはいつものように暖炉の前で編み物をしている。カイは椅子に座って火を見つめた。しばらく沈黙があった。
「出漁、うまくいったそうだね」
「ええ。大漁でした。チヨさんの読みが完璧に当たりました」
「チヨはね、昔からあれで空と海が読める子だった。あの子の読みが外れたのは、この40年で3回だけだ」
ツギは毎夜、村から灯の明滅を確かめる。それが空位管理人の務めの1つだった。そのツギの手が、止まる。編み物の針がかちりと小さな音を立てた。
「あんた、昨夜は明滅を遅くしたのかい」
カイは息を呑んだ。ツギは編み物を膝に置き、真っ直ぐにカイを見る。
「……ええ。気づいたら、そうなっていました」
「そうか」
ツギは短く答えた。それ以上は何も言わない。ただ目だけが深い悲しみの色を宿していた。
(ツギさんは、笑わない)
「ツギさん。わたしは、あの人になろうとしているわけじゃありません」
カイは絞り出すように言った。
「分かってるさ。あんたは、ただ勘で動いてるだけだ。……でもね、あんたのすることがいちいちあの人に似ていくと、見ている方は、たまらないんだよ」
ツギはそう言って編み物を再開した。カイは何も言えず、暖炉の火を見つめる。
翌朝、消灯を終えたカイは灯室の掃除をしていた。ゲンタは今日は来ていない。出漁の後片付けだ。カイは1人でレンズを磨き、真鍮を拭き、床を掃く。磨く順番も拭く手つきも、考えるより先に体が知っている。
「さて、今日も日が昇る」
カイは無意識に呟いた。
「明日は日暮れ前に上がるんだよ。今度は、あんたが灯を点す」
はっとした。今の言葉は、間違いなくジンペイの口癖だった。誰に向けた言葉でもない。あの男の言葉が自分の口を通して響いている。
(俺は、一体誰の言葉で物を言ってるんだ)
その時、灯室の入り口に気配を感じた。振り返ると、ツギが立っていた。手には温かい飲み物の器がある。
「ツギさん」
「……今の、口癖」
ツギの声はかすかに震えていた。
「今、あんたが言った言葉。それはジンペイの口癖だ。毎日、消灯の後にあの人は同じことを言った。明日は日暮れ前に上がるんだよ。今度は、あんたが灯を点す。相手もいないのに、誰かに言い聞かせるみたいに、いつも」
ツギは一拍置いた。
「前に、あんたに同じことを言ったろう。あれは、あの人の受け売りだよ。それが今、あんたの口から出た」
カイは何も言えなかった。
ツギと目が合う。ツギの手の中で、器がかすかに震えていた。




