第7話 見習い
空がまだ暗いうちに、ゲンタは灯台の下に立っていた。
昨日の約束どおり、片付けの手伝いに来た。だが塔を見上げたまま足が向かない。夜明け前がいちばん暗い。
それでも来た。外套の前を握り直し、深く息を吐く。その時、坂の下からもう1人分の足音が近づいてくる。
「叔父貴。なんで、こんな時間に」
「お前の見習いの申し入れに来た。筋は、俺が通す」
リュウゾウだった。網元が夜明け前に自分の足で来る。ゲンタは息を止めた。
小屋の戸が開いてカイが出てくる。
「おはようございます。ゲンタ、それに——初めまして。網元のリュウゾウさん、ですね」
「ああ。あんたが、代行の旅人か」
リュウゾウは腕組みを解き、まっすぐカイを見た。
「頼みがある。ゲンタを灯台守の後継者にしたい。あんたがこの村にいる間に、見習いとして灯室に上げてやってほしい。やれることは、全部やらせてみてくれ」
カイは少しだけ間を置く。
「分かりました。ただし、条件が3つあります」
「言え」
「1つ。見習いは試しから始めます。朝の務めから慣らして、夜の務めは段階を踏みます。2つ。点灯と回転を止める工程は、当面わたしがやります。席の核に触れる務めですから、順番を飛ばせません」
「……3つ目は」
「続けるかどうか、最後はゲンタ本人の意思を確認させてください」
リュウゾウの目が細くなる。
「待て。本人の意思、だと。後継は村が決める話だ。意思確認なら、寄り合いの判で済む」
「判は村の意思です。本人の言葉は別です。……座る場所は、他人が決めるものじゃありません。決められた者は、長くは座れませんから」
「では、どう残す」
「灯台日誌に、本人の口で残してもらいます。今日から、務めの記録と一緒に」
「叔父貴」
ゲンタが一歩前に出た。
「俺は、やります」
リュウゾウは甥の顔をじっと見つめる。それから短く頭を下げた。
「……分かった。その条件で、頼む」
ゲンタは息を呑んだ。誰にも頭を下げない叔父だ。その叔父が頭を下げた。
小屋の戸口では、いつの間にかツギが湯呑みを手に立っていた。坂を下りていくリュウゾウの背中を見ながら、ぽつりと言う。
「条件は通ったねえ。……で、あんたの手の方は、いつ話すんだい」
カイは答えず、塔を見上げた。
灯室に上がると、ランプはまだ回っていた。夜通し海を照らした光が、朝を前に最後の明滅を繰り返している。ガラス越しの海はまだ黒い。その黒さの中で、灯だけが規則正しい円を描き続けていた。
「まず回転を止めます。試しに、押してみてください。止まらなくても構いません」
「え、俺っすか」
「ハンドルを押すだけです。ゆっくり、歯車の音を感じながら」
ゲンタがハンドルに手をかけ、力を込めた。歯車は軋むだけで、回転は止まらない。
「あれ。重くて、動かない……」
「もう一度」
ゲンタは歯を食いしばり、全体重をかけた。網を引く漁師の腕だ。だが歯車は軋む音を大きくするだけで、回転は一向に緩まない。汗が額を伝い、手のひらが滑る。
「なんで……。こんなに重いはず、ないのに」
言いかけて、ゲンタは口を閉じた。自分の両手を見下ろす。網なら嵐の日でも引き切る手だ。その手のひらに、汗が光っていた。
「そこは、席に座った者の役目です」
カイがランプの基部に手を当てた。首筋の刻印がかすかに熱を持つ。カチリ、と小さく歯車が噛み合い、回転は静かに止まった。
音が消えた。ゲンタは止まったランプと自分の手を代わる代わる見ている。
「……力の、問題じゃないんすね」
「……あの、灯台守さん」
カイの手が、基部に当てたまま一瞬止まる。
「じゃあ俺は、後継になっても。一生、これには触れないんすか」
「座った者の役目だと言いました。ゲンタが正式にこの席に座る日が来れば、その手でも止まります」
ゲンタは自分の手のひらをもう一度見た。
「……座る日、か」
(その日が来れば、俺はこの村を出る。……はずだ)
「ここから先は、ゲンタの番です。芯を下ろして、炎を小さくしてください」
「この小さな金具を回すんすか」
「そうです。ゆっくり、ですよ」
ゲンタの手が金具を回す。だが網を引く癖で手早く回しすぎて、炎が大きく揺れて伸びた。
「速いです。炎が暴れます」
ゲンタが慌てて手を止める。
「手が震えたら、炎だけを見てください。目は離さないで」
ゲンタは頷いて、もう一度金具に触れた。今度は指先が炎に集中するうちに少しずつ落ち着いていく。炎がゆらゆらと揺れて、小さくなっていく。
やがて炎はしぼみ、消えた。ほっと息を吐く。膝に手をつく。
「つ、疲れた。たったこれだけなのに」
「初めてですから、それでいいんです」
小屋に戻ったカイは灯台日誌を開いた。
『リュウゾウ申し入れ。見習いを受諾。条件3つ、本人の意思確認を要す。ゲンタ、消灯の仕上げを務める』
インクが乾くのを待って、カイは日誌を閉じた。
日暮れ前、2人は再び灯室にいた。今度は点灯だ。
「昼に叔父貴に会いました。止められなかったって言ったら、しばらく黙って、『そうか』って。それだけでした」
「それだけ、ですか」
「はい。……でも、怒ってなかったです」
カイが覆いを外し、芯の先を確かめる。
「試しに、予備の芯を切ってみますか」
ゲンタが鋏を持つ。網を切るのと同じ力加減で、芯は短く潰れた。
「……あ」
「切りすぎると、火が育ちません。……このくらいです」
カイの鋏が入る。切断面がまっすぐで、潰れていない。潰れた芯先。まっすぐな芯先。ゲンタは2つを見比べ、息を止めた。
油を足して火打ち石を打つと、火花が散り、芯に火が移る。光が静かに膨らんで、回転が始まった。
「……すげえ。一発で」
「灯すのは、まだ先ですよ」
ゲンタは頷く。目は明滅し始めた光から離れない。
その夜は分銅室だった。
カイとゲンタが、それぞれのハンドルを回す。石の壁に、2人分の息遣いが重なる。
「これ、毎晩やるんすか」
「ええ。わたし1人の時も、です」
しばらくは音だけが続いた。やがて頭上で、回転の音がわずかに鈍る。ゲンタの手が止まった。
「……今、音が変わりました?」
「よく気づきましたね。下がり始めの合図です。回しましょう」
ゲンタは頷いてハンドルを回したが、夜が更けるにつれてその手は少しずつ遅くなり、窓の外の真っ暗な闇の中で、音だけがやけに大きく聞こえるようになった。
やがてゲンタの手が、ハンドルから滑り落ちた。そのまま壁際に座り込む。
「……すみません。足が、いうことを聞かなくて」
「無理しなくていいんです。今日はもう上がっていいですよ」
ゲンタは答えなかったが、頭上で回転の音がまたわずかに鈍るのが聞こえた。
「……また、変わりました」
ゲンタは壁に手をついて立ち上がり、ハンドルを握り直した。
「やります。もう少しだけ」
カチリ。カチリ。歯車の音が規則正しく響く。やがて分銅が上限の刻みまで上がりきり、重い手応えとともに止まった。頭上から回転の音が軽く、均等に戻ってくる。
ゲンタは荒い息のまま自分の手を見たが、震えはまだ止まらない。それでも、最後は自分で戻ってきた手だ。
「……灯台守さん」
ゲンタは窓の外の闇を見たまま言った。
「次は、夜の当直も。やらせてください」
カイは少しだけ間を置いた。
「……明後日の夜です」
「え」
「隣にはいます。でも、手は出しません。最初から最後まで1人で当直を務め切れたら、合格です」
「明日は出漁で、海に出ます。……でも、明後日の夜は必ずここに来ます」




