第6話 夜はダメなんす
その日の真夜中。カイは灯台の基部にある分銅室で、クランクハンドルに全体重をかけていた。
冷たい鉄の感触が手に食い込む。ギアが噛み合い、シャフトが回る。鎖が巻き上げられ、塔の中心に吊るされた巨大な分銅が少しずつ上昇していく。
ランプの回転を支える分銅は、下がりきる前に手で巻き上げなければならない。80段分の高さまで。およそ2時間おきに。止まれば、光の明滅が消える。
(「座るだけ」の仕事じゃない、か)
腕が痛む。背中に汗が滲む。真冬の夜の灯台の中で、一人で機械を回す。誰かに見せるためじゃない。褒められるためでもない。灯を守るためだ。
(先代は、これを40年やっていた。一人で。嵐の夜も、熱のある夜も)
時折休みながら、それでも決められた位置まで分銅を戻す。ハンドルから手を離すと静寂が戻った。機械の軋む音も消え、波の音だけが遠くに聞こえる。
カイは壁にもたれて息を整えた。
(悪くない。こういう仕事は、嫌いじゃない)
夜明け前。カイが消灯を終えて灯室の片付けをしていると、背後から声がした。
「灯台守さん」
振り返ると、入り口にゲンタが立っていた。
「ゲンタさん。おはようございます。どうやってここへ?」
「ツギ婆さんに、朝なら灯室にいるって聞いて。すみません、勝手に上がってきて」
「いいですよ。今、消灯したところです。中に入りますか」
ゲンタはおずおずと灯室に入ってきた。ガラス張りの窓、中央のランプ、磨き上げられたレンズの群れ。物珍しそうにあちこちを見回している。指先が、無意識に空の結び目を作っては解いていた。網を扱う手の癖らしい。手のひらには、固い豆がいくつもできていた。
「すげえ。思ったより狭いんすね」
「そうですね。でも、この狭さがいいんです。やるべきことが、この中に全部ある」
ゲンタは隅に立って、窓の外の海を眺めていた。朝の光が、東の空からゆっくりと昇ってくる。
「灯台守さんは、夜は平気なんすか」
「夜は好きですよ。静かで、海が近く感じます」
「俺、夜はダメなんす」
ゲンタはぽつりと漏らした。その声は灯室の石壁に吸い込まれて消えそうなほど小さかった。
「ダメ、というと」
「暗いと、駄目なんす。子供の頃から。海が真っ暗だと、底から何かに引っ張られる気がして」
ゲンタは一度、拳を握って開いた。
「船の上ならまだいいんです。仲間もいるし、灯りもある。でも、一人で夜の海を見るのは」
言葉を切って、うつむく。
「俺、灯台守に向いてないんす。夜が一番長い仕事じゃないすか。なのに叔父貴は、村のためだって言って俺を後継者にしようとしてる。俺、逃げたいわけじゃないんです。ただ、本当にできるのかって思うと」
「大丈夫ですよ、なんて言いません。夜が怖いのは、海で生きる人間なら当たり前です」
「……慰めはいらねえっす。村の人にも、そう言われてきました」
ゲンタの声に、初めて刺があった。
「慰めじゃありません」
カイは分銅室の方を顎で示した。
「ちょうどよかった。下の保管庫に、明日の分の灯油壺があります。ここまで運び上げてもらえますか」
ゲンタは黙って階段を下りていった。しばらくして、満タンの壺を肩に担いで戻ってくる。重さの取り方が違う。腰の入れ方も、運ぶ歩幅も、重いものを扱い慣れた者のそれだった。80段近い階段を、息ひとつ乱さず上ってきた。
「重いものなら、任せてください」
壺を下ろしたゲンタが、少しだけ得意そうに言った。
「助かりました」
ゲンタは首を横に振った。
「……あと、俺のことはゲンタでいいっす。さん付け、くすぐったいんで」
「分かりました、ゲンタ。じゃあ、明日の朝も同じ時間に。片付けの手伝いを、頼めますか」
「……いいんすか」
「ええ。いつでも、じゃなくて、明日。待ってます」
「分かりました。来ます」
ゲンタは照れくさそうに笑って、灯室を出ていった。螺旋階段を下りる足音が、だんだん小さくなっていく。
カイは灯台日誌を開き、来訪を1行だけ記録した。
『明け方、後継者候補ゲンタ来訪。灯油壺の運搬を手伝う』
それだけ書いて、ペンを置いた。
夕方、カイはツギの小屋で夕食の準備を手伝っていた。
「ゲンタが来てたな。灯室に上がったんだって?」
ツギは鍋をかき混ぜながら、何気なく言った。
「ええ。後継者の話を聞いたらしく、不安みたいでした。明日の朝も、手伝いに来るそうです」
「壺を運ばせてもらったって、嬉しそうに言ってたよ。あの子、手の仕事だけは確かなんだ。……リュウゾウは今日も言ってきた。ゲンタを見習いに付けろって」
ツギは鍋からお玉を抜いて、汁を一口すすった。それから、卓の端に置いてあった古い日誌を手に取った。
開かれた頁には、几帳面な字で磨きの手順が並んでいる。『布は四つに畳み、角で拭く』
「……あんたさ」
ツギの声の温度が、少し変わった。
「あの手つき、誰に教わったんだい。レンズの磨き方。布の畳み方」
「誰にも教わってません。勘がいいだけです」
「ふうん」
ツギはそれ以上追わなかった。だが、納得した顔ではなかった。日誌は、閉じられないまま卓に残った。
「あんたは、どう思う。ゲンタが後継者になるのは」
「悪い話じゃないと思います。若いですし、真面目ですから」
「あんたは、自分がそのまま正式に灯台守になろうとは思わんのか」
ツギの目が、真っ直ぐカイを射抜いた。カイは一瞬、言葉に詰まった。
「私は旅人です。いつか、ここを出ていきます」
「そうか。なら、あんたが去った後、この村がまた空席で止まらんようにしなきゃならん。ゲンタの話は、そのための一つの手だ」
「ええ。そうですね」
カイは黙って、暖炉に薪をくべた。火が爆ぜる音が、小屋の中に響く。
夕食の後、カイは灯台への坂道を上った。
灯室に上がると、椅子の横に自分の水筒と手拭い、替えの布が置いてあるのが目に入った。出ていく時の荷物は、今も小さな鞄1つに収まる。なのに、ここに置きっぱなしの私物だけが増えていく。
カイは一瞬だけ手を止めて、それからランプの周りをゆっくり1周した。
芯に火が移り、光が静かに膨らんでいく。回転が始まり、明滅する光が夜の海へ伸びていった。
明日の朝、ゲンタが来る。日が昇る前に。あいつが一番苦手な、暗い時間に。




