第5話 暫定後継者
広場の席紋板にある灯台の紋は、年が明けても裏返しのままだった。
年末の荒天の夜、灯は一晩落ちなかった。それでも、紋は戻らなかった。
1月半ば。海風は一段と鋭さを増し、漁に出られる日は限られていた。男たちは港で網を繕うか、番屋に集まって囲炉裏を囲むしかない。
カイは相変わらず、日暮れ前に灯を点し、夜明けに消す生活を続けている。港では、すっかり「灯台守さん」と呼ばれるようになっていた。
「灯台守さん、今夜も頼むよ」
船を出す男に声をかけられ、カイは軽く頷く。正式な灯台守ではないと分かっていても、灯が点いている事実が何より大きかった。
だが紋は戻らない。そのことが、村の誰の目にも映っていた。
「暫定後継者を立てるべきだ」
番屋に集まった男たちの視線が、一斉に発言者へ向いた。
1月半ばの寄り合い。囲炉裏の火が赤々と燃え、部屋の中は熱気と潮の匂いで満ちている。網元のリュウゾウが、太い腕を組んだまま立ち上がっていた。年の頃は50前。長年の海仕事で鍛えられた肩幅と、深い皺の刻まれた顔。その目には、どこか焦りが含まれていた。
「灯台守の席に仮の代行が立って、村の決定は執行できるようになった。だがな、皆分かってるだろう。あの紋は空いたままだ。入漁の契約も、先代の弔いも進んだ。だが、本当の意味でこの村が元に戻るには、正式な灯台守が必要だ」
ゴヘイが静かに頷いた。寄り合い長としての落ち着きはあるが、その目はリュウゾウをまっすぐ見ている。
「リュウゾウ、続けろ」
「仮の代行のあの旅人は、確かに灯を点してくれている。感謝してる。だが、旅人はいつか去る。席が空いたままになれば、村はまた止まる。3か月前と同じように。それどころか、次はもっとひどいことになるかもしれん」
リュウゾウは一拍置いて、腹の底から絞り出すように言った。
「この村は、先代のジンペイが40年守った灯台に支えられてきた。灯が点かなければ船は帰れん。船が帰れなければ魚が獲れん。魚が獲れなければ、村は冬を越せん。それが3か月続いた。もう十分だ」
男たちの間にざわめきが広がる。誰もが同じ不安を抱えながら、口に出せずにいた言葉だった。
「そこでだ。俺の甥、ゲンタを暫定後継者として擁立したい」
ざわめきが一瞬で静寂に変わった。
「ゲンタは若い。だが、網子としての仕事は真面目で、腕も悪くない。何より、この村の生まれだ。よそ者じゃない。灯台守の席に村の者が就けば、紋も正しく戻る。これが一番の近道だと俺は思う」
「そりゃそうだ。村の若いもんが立つなら、それが一番だ」
「ちょっと待てよ、リュウゾウ」
声を上げたのは漁師のデンジだった。カイが初めて灯を点した夜、その光に導かれて無事に帰港した男だ。
「ゲンタは悪い奴じゃねえ。仕事も真面目だ。だが、灯台守ってのはそれだけで務まるもんか? 夜の海を見張る仕事だぞ。ジンペイのじいさんがどれだけ凄かったか、俺たちは知ってる」
「ゲンタじゃ、夜が持たんだろ」
誰かの小声が、囲炉裏の火のはぜる音に紛れた。
「デンジの言い分も分かる。だがな、誰だって最初は素人だ。ジンペイだって最初からああだったわけじゃない。40年かけて、あの域に達したんだ。ゲンタにはこれからがある」
「それはそうだが」
「それに、すぐに正式な灯台守にするとは言ってない。あくまで暫定後継者だ。旅人がいる間は、旅人が灯を守る。ゲンタはその間に、灯台の仕事を学べばいい」
「ゲンタ本人はどう思ってるんだ。ここにいないじゃないか」
「あの子は今、網の手入れで浜に出てる。だが、村のためになることなら嫌とは言わんだろう」
ゴヘイがぴしゃりと手を打った。場が静かになる。
「リュウゾウ。お前の言いたいことは分かった。停滞を恐れる気も、本気なのもな。だが、この席は村で一番重い。誰だろうが、審査なしでは決めん」
「審査、か」
「ああ。まずゲンタを候補として登録する。そのうえで審査だ。中身は昔から決まっとる。日暮れから夜明けまで、1人で灯を守り切ること。それができなきゃ、灯台守とは認められん」
リュウゾウが、一瞬だけ黙った。
「……分かった。手続きを踏もう。ただし、時間はかけられん。この冬の間に、目途をつけたい」
「冬の間には、な。よかろう」
ゴヘイが頷いたところで、寄り合いはひとまず収束した。ゲンタは候補として登録され、審査までに灯台の仕事を学ぶことになった。
その日の夕方、カイは灯台へ向かう途中でゲンタと会った。
港の倉庫前で、網を担いで歩いてくる若い男。年の頃は20前後。日に焼けた肌に、短く刈った髪。がっしりとした体つきは、漁師らしい力強さがあった。
「あんた、灯台守さんか」
「ええ。仮の代行ですが」
「俺、ゲンタです。リュウゾウの甥の。今日、寄り合いで俺の話が出たって聞いて」
「後継者の話ですね。聞きました」
ゲンタは網を地面に下ろし、手のひらを汚れたズボンで拭いた。その顔には、照れと戸惑いと、どこか諦めに似た色が浮かんでいる。
「俺、別に灯台守になりたいと思ったことはないんす。叔父貴が勝手に話を進めてて。でも、村のためになるなら、やるしかないかなって。……寄り合いが終わったら、灯台の仕事をよく見ておけって言われて」
「そうですか」
ゲンタがじっとカイを見る。
「灯台守の仕事って、夜に強い奴じゃないとダメっすよね」
「そうかもしれません。夜が長い仕事ですから」
「子供の頃、浜の見張りを任されて、居眠りしたことがあるんす。叔父貴にこっぴどくやられました」
ゲンタは自嘲気味に笑った。
「寝てしまうのは、疲れている証拠でもあります」
「慰めてくれるんすね」
ゲンタはため息をついて、再び網を担ぎ上げた。
「また話しましょう。あんたに聞きたいこともあるし」
「ええ、いつでもどうぞ」
カイは若者の後ろ姿を見送ってから、灯台への道を歩き出した。
風が強くなってきた。波の音が高くなる。今夜は荒れそうだった。
翌朝。夜明け前、カイは灯室で消灯を終えたところだった。
薄明かりが東の空を白く染め始めている。カイはランプの回転を止め、芯を下ろした。炎が小さくなり、やがて静かに消える。
だが灯台守の朝はこれで終わりではない。
カイは作業台の引き出しから磨き布を取り出した。レンズ磨きだ。ランプの光を遠くまで届けるため、灯室を囲むレンズの曇りを落とす。これが毎朝の日課になっていた。
カイは一番外側のレンズから磨き始めた。曇りを取ったら、布を四つに畳み直して、角で仕上げる。力加減は一定に。強く擦りすぎて表面を傷つけないように。
(この順序、誰かに教わったわけじゃない。なのに、体が勝手に)
(知らなかったはずなのに。……まあ、勘のいい旅人。それで通すと決めたんだ)
カイは首を振って作業を続けた。
ツギは灯室の入り口の影に立って、カイの作業をじっと見ていた。
布を四つに畳み直す。角で拭く。その癖は、ジンペイのものだった。レンズの磨き方も、順序も、40年この塔に立った男と寸分も違わない。
カイが振り返る気配はない。作業に集中して、無自覚に型をなぞっている。
ツギは声をかけずに、螺旋階段を下りていった。
小屋に戻ったツギは、棚の奥から古い日誌を取り出した。




