第4話 戻らない紋
カイが薪を抱えて番屋に入ると、寄り合いの真っ最中だった。中は男たちの熱気でむっとしている。抱えてきた薪を、壁際に下ろす。
中央の机に契約書が広げられ、寄り合い長のゴヘイが判を手に取っていた。60がらみの大柄な男だ。印面を布でひと拭いし、ゆっくりと押し下げる。
朱い判が紙に残った。男の1人が机を軽く叩き、別の男が契約書を大事そうに巻き取る。
「これで、入漁の契約は執行できる。灯台守の席が関わる案件以外はな」
男たちの間に安堵の息が広がる。
「よし。明日から、沖に出られる」
「長かったな。3か月だ」
だが1人が言った。
「ジンペイさんの弔いはどうなる。供養は」
ゴヘイは判を置いた。
「弔いの判だけは、まだ押せねえ。あれは灯台守の席の案件だ。代行じゃ、足りねえんだ」
場が静まる。
その時戸が開いた。
ウミが立っていた。両手に小さな包みを抱えている。供えの干し魚と、蝋燭の束だ。
「……じゃあ、おじいちゃんは、まだ弔ってもらえないんだ」
ゴヘイが判を握ったまま言った。
「後継が決まれば、真っ先に押す。それまで待ってくれ」
誰も答えなかった。ウミは包みを机の端に置くと、くるりと背を向けた。
「待て、ウミ」
誰かが声をかけたが、少女は振り返らなかった。
戸口でウミの足が一瞬止まった。視線がカイの首筋の刻印に触れて、すぐ逸れる。それだけだった。
カイは声をかけられなかった。
ゴヘイが包みを両手で持ち上げ、番屋の棚の上に置いた。
(俺が座っても、これは動かない)
少しして誰かが笑い話を始めた。重い空気を変えたかったのだろう。
「そういや、勇者の席だって、もう何年も空いてるそうだな」
「魔王でも出てきたら、どうするつもりだ」
「はは、魔王なんて絵本の中の話だろ」
弔いを言い出した男だけは笑わず、棚の上の包みを見ていた。他の男たちは笑い合った。カイは黙って聞いていた。
(勇者の席、か。――でも、俺には関係ない)
「おい、灯台守さんもそう思わんか? 勇者の席なんて、空いてる方が平和でいいってもんだよな」
「そうですね。いないで済むなら、その方が」
カイは肩をすくめて、番屋を後にした。
戸口で1人の男に呼び止められた。
「灯台守さん。あんたの当直の分の飯は、うちで持つことになったからな」
「ありがとうございます。助かります」
カイは頭を下げた。
夕方。カイは灯室で、2度目の点灯の準備をしていた。
磨く。芯を切る。油は、指がもう適量を知っている。火打ち石を打つ。手順はもう体に馴染んでいる。
炎が育ち、ランプが回転を始める。光が海を照らすたび、首筋の刻印がほんの少し熱くなった。昨日は光の戻りと熱がずれていた気がする。今日はほぼ同時だ。一度だけ、光が戻るより先に首筋が熱くなった。
(弔いの判は押せない。供養も出せない。それでも、灯だけは点く)
(この輪が閉じたら、何が変わるんだろうな)
港には漁船が戻り、村の家々に灯りが点いていく。帰ってきた船の男が、灯を見上げて手を振っていた。
夜が更けて、カイが灯台を下りると、ツギの小屋の窓から灯りが漏れていた。
扉を開けると、ツギが机に向かって何かを書いていた。筆を走らせる手が、カイの気配に気づいて止まる。
「遅かったね」
「海が荒れてきたので、少し長く灯を見ていました」
「ああ、今夜は風向きが変わる。チヨの言い方だと『明け方は海が咳をする』そうだ。あたしも夕方の雲でそう思ってた。灯台の灯が頼りになる夜だよ」
ツギはそう言って、手元の紙をさっと袖の下に隠した。紙の端に、朱い印の滲みが見えた。カイは見ないふりをした。
「手紙ですか」
「あんたには関係ない」
「そうですね。すみません」
カイは暖炉の前の椅子に座った。ツギが湯呑みに茶を注いで、カイの前に置く。火の熱が冷えた体に染みる。
ツギは立ち上がり、暖炉に薪を1本くべた。しばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「あんたの首の刻印は、まだ閉じない。だろうね」
「ええ。昨日も今日も、変わらない気がします」
「当然さ。あんた、広場の席紋板を見たかい」
「ええ。灯台の紋だけ、裏返しでした」
「あの紋はな、刻印が閉じて正式な後継が座るまで、表を向かん。席紋の上では、あんたはまだ灯台守じゃないんだよ」
ツギの声は静かだった。突き放すようでも、慰めるようでもなく、ただ事実を述べていた。
「……それでいいんです。もともと、長居するつもりはありません」
カイは暖炉の火を見つめた。炎がランプの光とは違う揺らぎ方をしている。家庭の火だ。人が生きるための火。
その時、風が戸を叩いた。さっきより、強い。
カイは立ち上がった。
「今夜は、灯室に泊まります。明け方まで、灯を見ます」
「長居するつもりはないんじゃなかったのかい」
「……今夜だけです」
ツギは少しだけ目を細めた。
「寝な、とは言えんな。行っといで」
カイは灯室に戻った。風がガラスを震わせる。
光が回る。海を照らし、村を照らし、広場の席紋板を照らす。
魚と網と船と塩の紋が並ぶ石盤。その一番上で、灯台の紋だけが裏返しのまま、光の中に浮かび上がった。
風がガラスを震わせた。炎が一度だけ、小さく傾く。
カイは椅子にもたれ、目を開けたまま夜を見張った。




