第3話 あんたが灯を点す
ツギの足音が遠ざかり、灯室には波の音だけが残った。
(灯を点す、か)
カイは首筋に触れた。閉じきらない輪の刻印が、まだかすかに熱を持っている。
「……どうなることやら」
誰にともなく呟いて、カイも灯室を後にした。
翌日、カイは朝からツギの小屋の手伝いをした。薪割り、水汲み、樽の手入れ。ツギは一つ一つに細かい注文をつけた。
「あんた、薪の割り方が雑だね。大きさを揃えないと乾きが偏る。そう、親指くらいだ」
「こうですか」
「まだ太い。親指だよ。やれやれ、都会の子はこれだから」
カイは黙って薪を割り続けた。ツギは余計な詮索をしてこない。
昼を過ぎると、空の色が変わり始めた。
「さあ、上がるよ」
ツギはカイの手から斧を取り上げ、顎で灯台を示した。
螺旋階段を上る。80段は老婆には応えるらしいが、ツギは一度も休まなかった。
灯室は西日に染まっていた。海が銀色の鱗みたいにきらめいている。
ツギはランプの前で立ち止まり、カイを振り返った。
「いいかい。点灯の手順を言う。まず――」
「大丈夫です。なんとなく分かります」
ツギの目がぎらりと光った。
「待ちな。あんた、勝手な真似は――」
だが、カイの手はもう動いていた。棚の布を取り上げ、真鍮の台座を磨き始める。決まった順番で、迷いなく。点灯の前に、まず整える。それがこの席の順番らしかった。
(なんで、磨くんだ)
ツギは口を開けたまま、その手つきを見ていた。
「勘です。こういうの、昔から妙に勘が働く質でして」
ランプの側面の金具に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、覆いの留め具がするりと外れた。まるで最初からカイの手を知っていたみたいに。
(ああ、やっぱり。この感覚は初めてじゃない)
ガラスの覆いを持ち上げ、脇に置く。太い綿の芯が現れた。先端が僅かに焦げている。3か月前の最後の点灯の痕跡だ。
「芯切り鋏は……これか」
台座の下段の鋏を手に取る。刃先が芯の焦げを挟み、小気味よい音を立てて切り落とす。
カイは油差しを手に取り、芯に油を染み込ませた。3か月経っても、油は蒸発していなかった。指先の感覚が適量を教えてくれる。
「……点火は、どうするつもりだい」
「マッチは……ありませんね。先代は火打ち石を使ってたはずです」
台座の下段から火打ち石を取り出した。これも、手が勝手に知っている。
(なんでだ? 俺は灯台守になったことなんて一度もない。なのに体が先に動く)
火打ち石を打つ。火花が散り、芯に燃え移る。
小さな炎がランプの中に生まれた。
その瞬間――どんと空気が震えた。音じゃない。世界の底が揺れるような感覚だ。炎がふわりと膨らみ、黄金色に輝きを増す。
炎が育っていく。ただの火じゃない。光が意思を持っている。光が歓んでいる。
「……回転装置」
カイはランプの基部に手を伸ばした。真鍮の歯車が噛み合う音。死んでいた機械が、動き出した。
ランプがゆっくりと回転を始める。光が灯室を巡り、ガラス窓を通して外へ放たれていく。
明滅。一定の間隔で、光が強まり、弱まり、また強まる。
灯台の光だ。
「……どうして」
ツギの声が震えていた。
「どうしてあんたが、そんなに手順を知ってる。磨き方から、ジンペイのやり方と寸分も違わない。油の含ませ方も、火打ち石の打ち方まで、あの人の癖そのままだ」
カイは答えられなかった。
(座った瞬間からだ。知らないはずの手つきが、勝手についてくる)
「……あんた、何者だい」
ツギの目に、昨夜とは違う色が宿っていた。値踏みする目ではない。警戒とも恐れともつかない色だ。
「ただの旅人です」
カイは短く頭を下げた。
「さっきは、止めていただいたのにすみません。手が、勝手に動くんです」
ランプの光が、老婆の皺深い顔を照らしては消えた。
「……ああ。今日はそれでいい。だが明日も明後日も同じだ。灯を点し、夜明けに消す。仮の代行でもな」
「分かりました」
カイは窓際に立ち、沖を見つめた。
(あれは)
遠くに小さな影が見えた。1艘の漁船が、波間を縫ってこちらへ向かってくる。
「ツギさん。船が来てます」
「何だって?」
ツギが窓に駆け寄った。
「……デンジの船だ。あの阿呆、この時期に沖まで出とったのか」
「灯が点いたから、帰ってこられた。あの馬鹿がこれで命拾いしたよ」
近づいてくる船の舳先で、男が片手を掲げていた。声は届かないが、その仕草は感謝か歓喜か。
翌朝。夜明けに灯を消して灯台を下りてくると、男たちが網を手入れし、女たちが魚を干し、子供たちが走り回っていた。
「灯台守さん!」
誰かが叫んだ。カイは足を止めた。心臓が一瞬、跳ねる。
(灯台守さん。俺を呼んだのか)
「灯台守さん! 昨夜はあんたの灯に助けられた!」
網の間から、日に焼けた男が顔を出した。デンジだ。深々と頭を下げる。
網を繕っていた中年の女が、顔を上げた。
「何を言ってるんだい。あんたが灯を点してくれたおかげだ。灯が点いたのは3か月ぶりだよ。昨夜は村中の者が浜に出てたんだ。涙が出たよ」
「いえ、ただ座っただけです」
女の目がうるんでいる。カイは返す言葉に困った。
「灯台守さん、ありがとうよ!」
「灯台守さん!」
あちこちから声が飛んでくる。カイはそのたびに頭を下げた。だが、皆が皆笑顔ではなかった。少し離れたところで、腕を組んだ男が、止まったままの契約書類のほうを見ていた。
(俺は灯台守なんかじゃない。ただの仮の代行で、よそ者で、名前すら名乗ってない。なのに、あんたらは)
カイは早足でツギの小屋へ向かった。
小屋の前で、1人の少女が立っていた。
年の頃は16くらい。濃い色の髪を肩で切りそろえ、手入れの行き届いた古い外套を着ている。大きな目がカイを見ていた。
(ああ、これは)
歓迎されていない。あの目は明らかに敵意を持っている。
「あんたが、例の旅人?」
「ええ。あなたは?」
「ウミ。先代の灯台守の孫だ」
ジンペイの孫だ。ツギから名前は聞いていなかった。
「あんたが、おじいちゃんの席に座ったって本当?」
「本当です。仮の代行ですが」
「代行でも、座ったことに変わりはない。だって、あの席はおじいちゃんの席だ。物心ついた時から、あそこにはおじいちゃんが座ってた。あの椅子にはおじいちゃんの40年が染みついてる。あんたが座ったら、それが消えちゃう気がする」
ウミは一気にまくし立てた。
「消えませんよ」
カイは静かに言った。
「消えるもんですか。あの椅子の窪みは、あの人のものです。座ったくらいで消えるような、薄い歴史じゃないでしょう」
ウミは一瞬、言葉に詰まった。
「……おじいちゃんはね、座る前に必ず椅子の背を2回叩いてた。『今日も頼む』って。あたし、それを見て育ったの。あんたは、何も知らない。おじいちゃんがどんな人だったかも、灯台守がどんな仕事かも知らないくせに」
「ええ、知りません。あなたの祖父がどんな人だったか、何も知りません」
「知らないのに、座るの?」
カイは、次の言葉を探した。
「……すみません。でも、座れる者が座らなければ、灯は点きません」
「……あんたなんか、すぐにいなくなる。どうせ旅人でしょ。村をめちゃくちゃにして、知らん顔で出ていくんだ」
カイは視線を落とした。
「……めちゃくちゃには、していないつもりです。昨日の灯で、船が1艘帰ってきました」
「……覚えてて。あんたは、あくまで仮。仮の代行者。あたしは、あんたが灯台守だなんて絶対に認めないから」




