第2話 座るだけなら
「ふうん。名乗らねえってわけだ。まあ、いい。席に座る時にゃ、必要になることもあるがね」
ツギは短く頷いた。手を伸ばし暖炉の火に当てながら、しばらく沈黙する。
「あんた、どこから来た」
「ずっと放浪してます。あちこち転々と」
「何か特技は」
「ありません。強いて言えば、力仕事くらいです。手先は器用な方だと思います」
「嘘は言ってないね。目が素直だ。だが、それだけじゃあ飯は食えないよ」
カイは黙った。ツギの言う通りだ。何か交渉材料があるわけでもない。ただ、この寒空の下で野宿するのは避けたかった。
「婆さん、一つ聞いていいですか」
「何だい」
「あの灯台、いつから点いてないんです?」
ツギの顔から、わずかに表情が消えた。
「先代の灯台守が、3か月前に死んだ。それからずっとだ。灯台守の席が空いてる間は、灯を点すことができん。席の承認がなきゃ、灯室の核が動かんのさ」
「核、って」
「ランプのことだ。あれはただの火じゃない。あの灯台の中心に据えられた、特別な代物だ。灯台守の席に座った者だけが、あれを点す資格を持つ」
ツギは暖炉の火を見つめながら、ぽつりと続けた。
「この時期、この海は荒れる。灯台が点いてないと、沖を通る船が危ない。漁に出たまま帰れない船も出るかもしれん。村の連中は入漁の契約で頭がいっぱいだが、本当の問題はもっと命に直結してるんだよ」
カイは暖炉の火を見ていた。
「あんた、今晩ここに泊まりたいんだろ。食い扶持と寝場所が欲しいんだろ」
「ええ。その通りです」
「なら、一つだけ条件がある」
ツギはカイの目を真っ直ぐに見た。その目は、先ほどまでよりもずっと真剣で、どこか底知れない光を宿している。
「灯台守の席に、座りな。――座るだけならあんたにもできるはずだ。正式な着席じゃなくて、仮の代行だ。飯と寝床をやる。悪い話じゃないだろ」
カイはしばらく考えた。この世界の「席」の仕組みは、そう単純じゃないはずだ。座るという行為には、何かしらの重みがある。首を突っ込んで、厄介なことにならないか。
「座る前に、一つだけ。いつまでですか」
「後継が決まるまでだよ。長くは、ないはずだ」
(でも、まあ。座るだけなら)
「分かりました。座るだけ、引き受けます」
ツギは満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ、飯を食わせてやる。その後で灯室へ案内する。いいかい、くれぐれも余計なことはするんじゃないよ。座るだけだ。点灯は、まだするんじゃない」
「点灯はしない。約束します」
「その言葉、信じるよ。嘘をついたらその首、ひねり落とすからね」
ツギはにこりともせずに言った。本気らしい。
夕食は干し魚の汁物と黒パンだった。胃に染みる。カイは夢中で食べる。何日ぶりかの、温かい食事だった。
食事を終えると、ツギはランタンを手に立ち上がった。
「行くよ」
2人は外に出た。夜の海が真っ暗な口を開けている。波の音が、昼間よりもずっと大きく聞こえる。
灯台の入り口の扉を開けて、螺旋階段を上っていく。石の壁に、足音が反響する。ツギのランタンが、2人の影をゆらゆらと揺らした。
「あの人はね、40年この塔を守ってきた、真面目な男だった。死んだのは嵐の夜だ。沖で転覆した船の乗員を、自分の命と引き換えに助けた」
螺旋階段を上り切ると、灯室の入り口があった。ツギは木の扉を開け、中へ入る。
灯室は思っていたより狭かった。ガラス張りの窓が四方を囲み、中央に大きなランプが据えられている。真鍮製の台座に、分厚いガラスの覆い。その内部に、何かが眠っている。
カイは息を呑んだ。ランプの周りに、何もかもが整いすぎていた。磨き上げられた真鍮。塵ひとつないガラス。床も壁も、手すりもすべてが丁寧に手入れされている。
「すごいな。3か月も点いてないのに、この状態か」
「先代の務めの跡だよ。あの人は、いつもこうだった。灯室を磨き上げて、ランプを整えてそれから点灯する。その順番を、40年間一度も変えなかった」
ツギはランプの前に立った。ランタンの灯りが、ガラスに反射して小さな星のように瞬く。
「さあ、座りな。あの椅子に」
窓際に、一脚の椅子があった。背もたれの高い、古い木の椅子だ。座面には長年の使用でできた窪みがある。先代の灯台守の、座り癖が刻まれている。
カイは椅子の前に立つ前に、ランプの周りをゆっくり1周した。真鍮の台座、ガラスの覆い、油の壺。手順を確かめるみたいに、一つずつ目で追った。
(座るだけ、か。座るだけで何かが変わるのか)
心臓が、少しだけ早くなっている。腹の底から、ぞわりと何かが這い上がってくるような感覚。この世界に来てから、何度か経験した「力」の気配だ。
カイはゆっくりと、椅子に腰を下ろした。
瞬間――どくんと、首筋が脈打った。
熱い。何かが皮膚の上を走る。焼けるような、でも痛くない奇妙な熱。カイは思わず首に手をやった。指先に、かすかな凹凸を感じる。何かの紋様だ。閉じきらない輪の形。途中で途切れた、不完全な円。
「着席が、成立したね」
ツギが静かに言った。その声には、かすかな驚きが混じっている。
「仮の刻印だ。輪が閉じきらないのは、あんたが正式な灯台守じゃない証拠だ」
カイは自分の首筋を触ったまま、目の前のランプを見つめた。あのガラスの向こうで、何かが眠っている。そして、それがほんの少しだけ、カイの存在に反応している。
ランプはまだ点いていない。
カイは黙って頷いた。首筋の熱がゆっくりと引いていく。残ったのは、閉じきらない輪の形をした、かすかな感触だけだ。
扉の前で、ツギが言った。
「明日は日暮れ前に上がるんだよ。今度は、あんたが灯を点す」




