第1話 灯のない村
十二月の海風は、刃物みたいに頬を削っていく。岬の灯台に、灯がなかった。
カイは背負った鞄の紐を引き上げながら、夕暮れの漁村を見下ろしていた。入り江にへばりつくように建ち並ぶ石造りの家々。煙突から夕餉の煙は立ちのぼっているのに、集落は薄暗かった。
(腹減ったな)
ここ数日、まともな飯らしい飯を口にしていない。野草と、運よく捕まえた小魚を炙った程度だ。冬の街道は厳しい。特に、無一文の旅人にとっては。
カイはのろのろと坂道を下りていく。潮の匂いと、干した魚の匂いが混ざった空気が鼻をつく。犬が1匹、塀の陰から顔を出してカイをじっと見つめた。
「お前も腹減ってるのか」
犬は答えず、ふいと顔を引っ込めた。
村の中に入ると妙な静けさがあった。人がいないわけではない。網を繕う老人も、表で火を焚く女たちもいる。だが、どこか落ち着かない空気が漂っている。薄暗い。灯りがないのだ。
日はもう山の端に沈みかけているというのに、家々の窓から漏れる明かりは心許ない。街灯も、港の誘導灯も何も点いていない。
白い塔の頂上で、灯室だけが黒い影になっていた。
(なるほど。こりゃあただ事じゃないな)
カイは首をひねりながら、村の広場へ足を踏み入れた。
広場の真ん中に奇妙なものを見つけた。石碑のような石盤が据えてあり、その表面にいくつもの紋様が彫り込まれている。魚の紋、網の紋、船の紋、塩の紋。それぞれが小さな円の中に収まっていて、村の役職か何かを示しているらしい。
そして、その石盤の一番上にある紋様だけが、ぱっくりと裏返しになっていた。灯台の紋だ。波の上に立つ塔の図柄が、ひっくり返されて見えない。まるで、その席だけが「誰も座っていません」と叫んでいるみたいに。
その並びの奥には、村のどの紋よりも大きな紋様が、やはり裏返しになっていた。誰の目もそこへは行かなかった。
「なんだ、ありゃ」
カイが呟くと、ふいに後ろから声がした。
「あんた、旅の人かい?」
振り返ると痩せた男が立っていた。年の頃は四十過ぎだろうか。漁師らしい厚手の上着を着て、無精ひげを生やしている。男はカイの風体を上から下まで眺めて、小さくため息をついた。
「見ての通りだ。悪いが、この村に泊まるのはやめとけ。今は、ちいとばかり込み入っててな」
「込み入ってる?」
「ああ。――まあ、番屋に来れば分かる」
男はそう言うと顎で広場の脇にある大きな建物を示した。漁村の寄り合い所、いわゆる番屋だ。中からは複数の男たちの声が聞こえてくる。どうやら、言い争いをしているらしい。
カイは男の後について番屋の中へ入った。
途端、むっとする熱気と男たちの怒声が飛び込んでくる。
机に手をついた男が声を荒らげた。
「だから、判が押せねえって言ってんだろうが!」
向かいの男が書類の白い欄を指で叩いた。
「分かってる! 分かってるが、いつまで待てってんだ。向こうの村はもう契約を打ち切りたいって言ってきてるんだぞ!」
窓際の年嵩の男が低く言った。
「打ち切られたら、冬場の入漁ができなくなる。網を入れられる漁場が半分になるんだ。この時期にそれは、村が干上がるのと同じだ!」
中央の机を囲んで、5人の男たちが額を突き合わせている。机の上には、羊皮紙の書類が広げられていた。契約書らしい。朱肉の乗った印判が、所在なさげに転がっている。
カイを連れてきた男が、声を張った。
「おい、皆。旅の人が来てる。よそ者だ」
一瞬、その場の視線がカイに集まった。値踏みするような、あるいは面倒事が増えたとでも言いたげな目。すぐに興味を失って、男たちは再び言い争いに戻る。
誰かが言った。
「だいたい、灯台守の席が空いてからもう3か月だぞ。いくらなんでも空きすぎだ」
別の声が重なった。
「先代が急にいなくなったのが悪いんだ。心の準備も何もあったもんじゃない」
最年長らしい男が、締めるように言った。
「灯台守の席が空いてる限り、村の正式な決定は執行できねえ。掟だ。先代の弔いも、入漁の契約更新も何もかもが止まったままだ」
カイは壁際に立って、黙ってその様子を眺めていた。
(なるほどな。さっきの石盤あれが「席紋板」ってやつか。あの裏返った灯台の紋様が、この村の決定を全部ストップさせてるってわけだ)
カイは壁にもたれかかりながら、小さくあくびを噛み殺した。
その時、1人の老人がカイに気づいた。先ほどまで黙って話を聞いていた、白髪の老人だ。おそらく村長か何かだろう。
「旅の人。すまないが、見ての通りだ。この村は今身動きが取れん。泊まるところも、飯を出す余裕もない。できれば、隣村まで行ってくれると助かる」
カイは軽く肩をすくめた。
「隣村まで、歩いてどのくらいです?」
「半日といったところか。だが、この時間からだと夜道になる。おすすめはできん」
「でしょうね。できれば今日は、どこかで休みたいんですが」
老人は困ったように眉をひそめた。カイは続ける。
「灯台の下に、小屋がありましたよね。あそこ、空いてませんか」
老人の顔色が、わずかに変わった。
「あそこには、空位管理人がおる。ツギ婆さんだ。あんたが泊まれるかどうかは、婆さんの判断次第だな」
「分かりました。聞いてみます」
カイは番屋を後にした。背後から、男たちの言い争いが再び激しくなる音が聞こえる。
(あの様子だと、明日には村の空気がもっと悪くなってるかもな)
夕闇が深まっていた。カイは灯台へ続く道を歩く。波の音が近い。潮風が冷たい。
灯台のふもとに、小さな石造りの小屋があった。窓からは、かすかな灯りが漏れている。カイは二度、三度、木の扉を叩いた。
「何だい、こんな時間に」
中から出てきたのは、小さな老婆だった。腰が曲がっている。白髪を後ろで一つに束ね、厚手の毛織物の肩掛けをしている。顔には深い皺が刻まれていたが、目だけが異様に若々しくぎらりと光っている。
「あんた、旅のもんかい。見ない顔だね」
「ええ。隣村まで行く途中で、日が暮れまして。番屋でここの小屋のことを聞いたんです」
ツギはカイをじろりと睨んだ。上から下まで、品定めするように。値踏みするように。三十路前後の男。継ぎだらけの旅装に、擦り減った靴。伸びた鬚と、空っぽの鞄。
「ふん。番屋の連中が寄越したのかい。面倒事を押しつけやがって」
「泊めてもらえませんか。金はないんですが、何か仕事をさせてもらえれば」
「金がないのは見れば分かる。そのみすぼらしい格好で、よく冬の街道を歩けるもんだね。無謀なのか、馬鹿なのか」
ツギはそう言って、ふんと鼻を鳴らした。だが扉を閉めはしない。
「入りな。話だけ聞いてやる」
小屋の中はこぢんまりとしていたが、よく手入れされていた。壁際の棚には、壺や瓶が整然と並んでいる。暖炉の火が小さく燃えていて、部屋を仄かに温めていた。
カイは促されるまま、木の椅子に腰を下ろした。ツギは向かいに座り、再びカイをじっと見つめる。
「あんた、名前は?」
カイは一瞬だけ、答えを遅らせた。
「名乗るほどの者じゃありません。好きに呼んでください」
ツギの目がわずかに細くなる。老婆はそれ以上聞かず、窓の外を見た。灯の点かない灯台が、夜の海の上に黒く立っていた。




