第10話 先代より細かい
今日、問屋のブンシチが番屋で日誌を検分する。村の契約が動くかどうかは、カイの日誌にかかっていた。
昨夜、灯室で最後の突き合わせをした時、1箇所だけ合わない頁があった。
先週の大漁の夜だ。出漁記録の写しには「4艘帰港」とある。だが、カイの日誌には5艘分の灯を見た記録が残っていた。
カイは自分の字を指で辿った。最初に帰ってきた灯、続いて2つ、波間に消えては現れる灯が3つ。入港の順番まで、時刻と一緒に書いてある。
(5艘だ。港の写しが、1艘足りない)
カイは写しを正し、その頁に小さく印を付けた。
自分の日誌の最初の頁は、今見るとぎこちない。点灯の時刻と天候だけ。先代の日誌を読んで、波の具合と船の数を書き足すようになったのは、それからだ。
棚の1番下にはジンペイの最後の日誌があった。
最後の頁。「今夜は、星が異様に明るい。海は凪だが、風向きが明日には変わる。出漁の連絡を忘れずに」
その頁の日付は嵐の前日だった。翌日の頁は空白のまま終わっている。
空白の先に続いているのはカイの文字だ。形式は同じでも、書く手は代わった。
(灯は、続いている)
カイは日誌を閉じた。
朝、カイは机の引き出しから自分の今の日誌を取り出した。昨夜の頁。点灯の時刻、波の周期、帰ってきた船の数。書き方はまだ先代に及ばない。それでも、1日分ずつは増えている。
番屋へ向かう途中、浜では女たちが塩干しの支度をしていた。網の上に、魚がずらりと並んでいる。カイは日誌を抱え直して、歩いた。重さは変わらないのに、昨日より少しだけ重く感じた。
広場の席紋板の前を通る。灯台の紋は今日も裏返しのままだった。
番屋では、ゴヘイとリュウゾウが待っていた。
机に日誌を並べると、ゴヘイが1冊を開き、すぐに顔を上げた。
「おい、沖の波の周期まで書いてあるじゃねえか」
「灯台から見える範囲のことは、全部書くようにしています」
カイは短く答えた。
「判は、私の権限の外です。私にできるのは、記録をお見せすることだけです」
「分かってる。あとは、問屋がどう見るかだ」
昼前、ブンシチが番屋に来た。帳面を片手に、並んだ日誌を端から検分していく。
最初に開いたのは、先代の古い日誌だった。40年分、1日も欠けていない。それを確認してから、代行の記録に目を移す。新しい日誌は昨夜の頁まで埋まっていた。
頁を繰る乾いた音だけが響く。ゴヘイもリュウゾウも、口を挟まない。
ブンシチの指が1頁で止まった。
「ここ、直してありますね」
「昨夜、突き合わせで見つけました。港の写しが、1艘少なく数えていました。私の日誌では、大漁の夜に5艘、全部帰っています」
「写しの間違いまで、正したのか」
ゴヘイが呟いた。
「……なるほど」
ブンシチは帳面を開き、その頁と数字を見比べた。それから、静かに言った。
「この日誌、先代の時より細かい」
「先代は、波の周期までは書かなかった。体で覚えていたからでしょう。ですが、記録としては――こちらの方が、細かい」
リュウゾウが短く息を吐いた。
机の脇で、カイは日誌の革表紙に置いた手を、すぐには離せなかった。
「ありがとうございます。ただ、私は正式な後継ではありません。そこは、変わりません」
「ええ。分かっています」
ブンシチは顔を上げた。
「本店には、私から説明します。日誌は番屋に置いたまま、数字と要点は私の帳面に写しました。契約更新の保留は、取り下げられる可能性が高い。更新の方向で進めるに値する内容です」
「では、判は」
「本店の決裁が要ります。すぐには押せません」
リュウゾウが低い声で言った。
「……記録が細かくても、判は別か」
「別です。ですが、道は開けましたよ」
「ただし」
ブンシチの目が細くなった。
「本店は、灯台守の席が空いたままであることを、依然として懸念しています。正式な席が埋まらなければ、長期的な信用回復にはなりません。そこは、村の宿題ですよ」
「期待していますよ。この村の魚は、本当に質がいい。商売人として、手放したくないのは本音です」
ブンシチは帳面を閉じた。ぱたん、と小さな音がした。
先代より細かい――その言葉を、ツギは番屋の外で聞いていた。
戸に手をかけたまま、足が止まっていた。戸の隙間から男たちの声と帳面をめくる音が漏れてくる。中から聞こえる男たちの声。あの子の日誌が問屋の男に認められた。
「……先代より細かい、ね」
ツギは小さく呟いた。
(あの子の日誌は、あの子のものだ。ジンペイは必要なことだけ書いた。あの子は全部書く。まだ覚えきれていないから、文字に残すんだ)
目を閉じると、瞼の裏で灯が明滅した。
(ジンペイ。あんたは、どう思う。あの子のことを)
答えはない。あるはずがない。
その時、番屋の中からリュウゾウの声がした。
「なら、後継はゲンタで正式に進めるぞ」
「手続きを踏むと言っとるだろう」
ゴヘイの声が重なった。
ツギは戸から手を離した。
「ゲンタかい」
海風が白髪を揺らす。
「……あの子に、夜は無理だよ」




