第11話 手伝わせて
二月の海は、凪と荒れを繰り返しながら春へ近づいていく。ゲンタの見習いは続いていた。点灯も消灯も分銅の巻き上げも、体に馴染んできている。飲み込みは早い方だった。
「今夜、前半夜を一人でやってみませんか」
穏やかな凪の夕方だった。ゲンタはランプの覆いを磨く手を止めて、まばたきした。
「え、一人っすか」
「前半夜だけです。私は下の小屋で控えています。何かあったら鐘を鳴らしてください」
「で、でも、まだ分銅の巻き上げも一人で通しでやったことないし」
「今日は凪です。風も弱い。一番危険の少ない夜です。こういう夜に、一人でやってみるのがいいと思います」
ゲンタはしばらく迷って、やがて小さく頷いた。
「分かりました。やってみます」
前半夜。カイは灯台下の小屋で、ツギと向かい合っていた。暖炉の火が小さく揺れる。ツギは編み物をし、カイは油を濾していた。
「ゲンタ一人で大丈夫かね」
「大丈夫です。凪の夜ですから。何かあれば、鐘の音が届きます」
「ふん。あんたは若い子に甘いね」
「甘くはないです。必要な順番でやらせているだけです」
「夜が苦手なら、苦手なりに別の道があるかもしれない。あの子はリュウゾウの期待に応えようとしすぎる。若い子の頑張りは、時に壊れるよ」
その時、小屋の窓の向こうで、灯台の光の間合いがわずかに乱れた。
「あれ、間合いが少し乱れてないか」
ツギが顔を上げた。
「分銅の巻き上げが遅れていますね」
カイは立ち上がった。
「見てきます」
「待ちな」
ツギの声が飛んだ。
「あの子は今、一人でやってる。あんたがすぐ行けば、失敗を突きつけることになる。まずは、待ってやんな」
カイは小屋の入口で足を止めた。今夜は凪で、船は出ていない。チヨの読みがそう言っていた。それに、あの乱れ方は止まりかけの乱れ方ではなかった。遅れを取り戻そうとする乱れ方だった。
カイは椅子に戻った。明滅は不規則に瞬きながらも、消えはしない。やがて少しずつ、間合いが規則正しいものに戻っていった。巻き上げが間に合ったのだ。
「あの子、頑張ってる」
ツギが呟いた。編み物の手は止まったままだった。
「そうですね」
翌朝、ゲンタは灯室の隅でぐったりと座り込んでいた。目の下に薄い隈がある。
「お疲れさまです。よく持ちこたえましたね」
カイは隣にしゃがんで声をかけた。
「持ちこたえたなんてもんじゃないっす。分銅の巻き上げ、1回遅れました。明滅が乱れて、海に変な光を出しました」
「でも、立て直したでしょう。それで十分です」
「十分じゃないっす。あれじゃ、沖の船が迷う」
ゲンタは膝を抱えて、うつむいた。声が震えている。
「俺、やっぱり灯台守に向いてない。夜になると体が動かなくなる。ハンドルを回してても、外が暗いと手が止まるんす。子供の頃からそうなんす。夜の海が怖い。底が見えないのが怖い。馬鹿みたいっすけど、本気で怖いんす」
「馬鹿みたいじゃありません」
「夜の海が怖いのは、海で生きる人間として正しい感覚です。何も感じない者より、ずっといい」
「でも、ジンペイのじいさんは40年も夜の海と一人で向き合ってた。俺には、とても」
「ジンペイさんはジンペイさんです。ゲンタは、ゲンタのやり方で夜と付き合っていくしかない。今日はよくやりました。まずは、それを認めてください」
ゲンタは顔を上げた。目が赤い。悔しさと、少しの安堵が混ざった顔だった。
「……ありがとうございます」
「今夜は、私も一緒に上ります。分銅の巻き上げを、二人でやりましょう」
ゲンタは小さく頷いた。
だが、その挫折は思ったより早く村中に知れ渡った。灯台日誌を見た番屋の男が、昨夜の明滅の乱れに気づいたのだ。
「おい、昨夜の灯、途中で間合いが乱れたぞ。あれは、ゲンタが一人でやってた夜だな」
「日誌に、回転遅延の記録が残ってるらしい」
「真面目なのは知ってる。だが、夜の海と向き合うのはまた別の話だ」
ゲンタ擁立論は、ここにきて急速に勢いを失った。リュウゾウは唇を引き結んだまま、何も言わなかった。
ゴヘイが静かに口を開いた。
「ゲンタを責めるのは、やめよう。あの若者は夜への怖さと向き合いながら、逃げずに灯台に上がっている。それだけで大したものだ。灯台守の席は、無理に急いで決めるものではない」
「ですが寄り合い長。問屋の手代も言ってたでしょう。正式な席が埋まらなければ、信用回復にはならんと」
「信用は、日誌と記録で示した。契約は動き出している。後継者の話は、村の中でじっくり育てていけばいい」
「ゲンタは、これからも見習いを続ける。それでいいじゃないか」
リュウゾウは深く息を吐いた。
「……分かった。焦るのは、俺の悪い癖だ。あの子には、すまんことをした」
「後で、あんたの口から言ってやれ。あの子は思い詰めてる。そんな顔をしていたぞ」
リュウゾウは黙って頷いた。
その日の夕方、灯台の下にウミが立っていた。
「手伝わせて」
少女はいきなりそう言った。カイは点検の手を止めて、彼女を見た。
「手伝い、ですか」
「あたしはあんたを灯台守だとは思ってない。それは変わらない」
ウミはじっとカイを見上げた。
「だけど、おじいちゃんが守ってた灯台を、よそ者に好き勝手に使われるのも嫌。だから手伝いながら見張る。あんたがちゃんと仕事をしてるか」
「見張り、ですか」
「そう。文句ある?」
カイは思わず小さく笑った。
「文句はありません。でも、灯台の仕事は重労働ですよ。分銅の巻き上げなんかは、その細い腕では」
「やるだけやる。できないことは、見て覚える」
ウミは灯台の入り口に向かった。振り返りもしない。
灯室で、ウミは黙ってカイの作業を見ていた。一連の動作を食い入るように見つめている。
「おじいちゃんは、もっとゆっくり芯を切ってた」
ウミがぽつりと言った。
「あの人の手は大きくて、ごつごつしてた。でも芯を切るときだけは、すごく優しい手つきだった」
「そうですか。私の手は、まだあの人には遠く及びません」
「当たり前でしょ。あんたはまだ数ヶ月だ。おじいちゃんは、40年だ」
ウミは窓の外を見ながら言った。
「あんたの灯は、ジンペイさんの灯と寸分違わないって、村の人たちが言ってた。あたしも、そう思う」
「悔しい。だって、あれはおじいちゃんの灯だ。おじいちゃんが40年かけて作った灯を、あんたが簡単に真似てる。それが、すごく悔しい」
カイは、何も言わなかった。ウミの気持ちは痛いほど分かった。分かるからこそ、言葉にできなかった。
「あたしは、あんたを灯台守だとは思わない。でも、あんたの灯が海を守ってることは認める。だから手伝う。それだけだ」
「分かりました。見張り役、よろしくお願いします」
カイが軽く頭を下げると、ウミはふいと横を向いた。
「別に、あんたにお願いされる筋合いはない」
ウミは、その日から毎日のように灯台に通ってくるようになった。朝の消灯とレンズ磨き、夕方の点灯。分銅の巻き上げはできないが、灯室の掃除や油の管理を手伝った。
ある日、ウミは日誌を見て言った。
「内容はちゃんと書いてる。波の周期まで書いてる。おじいちゃんは、ここまで細かく書かなかった」
「先代の記録を読んで、自分なりに続けているだけです」
「あんたは、あんたのやり方で書いてる。それは、おじいちゃんの真似じゃない」
ウミは日誌の頁を繰りながら、小さく呟いた。
「それが、少しだけ、面白いと思った」




