第12話 困ったら、帖に書け
その夜、ツギは小屋の机の上に、二冊の日誌を並べていた。
左は棚の奥から出したジンペイの日誌。右は今の冊――先代の字の後ろに、カイの字が続いている冊だった。
同じ形式で書かれた、同じ灯台の記録。だが、その中身は似ているようで、確かに違う。
ジンペイの日誌は簡潔だった。必要なことだけを、短い文で書く。書かなくても、体が覚えているから。それがあの男の流儀だった。
今の冊の後ろの方の頁は、細かかった。波の周期、風向きの変化、雲の形、月の位置。見えるものすべてを言葉に残そうとする。書かなければ、忘れてしまうから。それがあの若者の流儀だった。
頁を繰るツギの指が、一箇所で止まった。その頁の書き出しの癖が、左の冊とどこか似ている。
(似ているようで違う。違うようで、同じ灯台の灯を守っている)
ジンペイの日誌の最後の頁は、あの嵐の前日の記録だった。その先の空白の日々を挟んで、今の冊では灯台の記録が続いている。途切れそうで、途切れていない。
ツギは二冊の日誌を静かに閉じ、棚に戻した。
(ジンペイ。あんたの灯台は、まだ続いているよ)
二月の終わり、港に小さな伝令船が入った。山の向こうの入り江の集落からの使いだった。
その集落には「見張りの席」がある。海の異変や沖を通る船の動き、天候の急変をいち早く察知して、周辺の村々に知らせる席だ。
「見張りの席の者が、先月、病で倒れた。席が空いたまま、もう1ヶ月になる。このままでは、海の異変に誰も気づけず、周辺の村が危険に晒される」
使いの男は番屋でそう告げた。
「見張りの席は、夜の海を読む力が要る。集落に適任者がいない。そこで、こちらの灯台守の代行に、出張代行を頼めないかという話になった」
「出張代行、だと」
ゴヘイが眉をひそめた。
「灯台守の代行は、あくまでこの村の灯台の仮の代行だ。山向こうの見張りの席まで、代行できるものなのか」
「席の仕組みとして、仮の代行が他の席の代行を兼ねることは、禁じられていないそうです。向こうの寄り合いも、そこは調べた上で話を持ってきている」
使いの男は丁寧に説明した。
「見張りの席の空席が長引けば、この村の漁にも影響が出ます。どうか、力を貸してほしい」
番屋の男たちはざわめいた。ゴヘイはしばらく考えてから、カイに話を通した。
「灯台守さん。山向こうの見張りの席の出張代行を、頼めるか」
カイは少し考えて、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。この村の灯台の務めに支障がない形でなら、引き受けます」
「助かる。向こうには、村の代表が同行する。旅の準備をして、明日にでも出発だ」
「明日、ですか。灯台の灯は」
「灯台の灯は、ゲンタが見習いとして守る。だが、今回はウミが補助につく」
カイは少し驚いた。ウミがゲンタの補助につく。あの少女が灯台の務めを手伝うことを、村の寄り合いが認めたのだ。
「ウミが、大丈夫ですか」
「あの子は先代の灯台守の孫だ。灯台のことは、誰よりも知っている。それに、あの子はあんたの仕事を見てきた。補助としてなら、十分に務まる」
「それに、あの子はこの村の灯台を守りたいと思っている。継ぐとは言わないが、守ることはできる。そういう子だ」
カイはゴヘイの言葉を胸に刻んだ。
出発の朝、カイは灯台の下で、ウミとゲンタに灯台のことを託した。
「ゲンタ。夜の海が怖いなら、怖いままで構いません。ただ、灯だけは消さないでください。明滅を止めないでください。それが灯台守の仕事です」
「分かってます。俺、一人でやります。ウミもいるし」
ゲンタはぎこちなく笑った。ウミは黙ってカイを見上げた。
「あんた、向こうで何かあったら、すぐに帰ってくるんでしょ」
「はい。ここの灯台が、一番大事ですから」
「……当たり前だ。ここが、あんたの席なんだから」
ウミはそう言って、くるりと背を向けた。その言葉に、カイは少しだけ胸が熱くなった。
ツギが小屋から出てきた。旅支度を整えた小さな包みを、カイに差し出す。
「これを持って行きな。干し魚と、硬いパンと、それから油の壺。向こうの備品は古いかもしれない。油は、自分で持っていくに越したことはない」
「ありがとうございます」
「それと、これ」
ツギは懐から小さな帖を取り出した。革の表紙の古い帖。頁は黄ばみ、角が擦り切れている。
「これは、空位帖だ。空いた席のことが書いてある。あたしが管理しているものだ」
「空位帖」
「ああ。この辺りの村々の、空いた席の記録だ。これから行く集落の見張りの席のことも、載っている。役に立つかもしれない」
カイはその帖を受け取った。ずっしりと重い。古い紙と革の匂いがした。
「困ったら、帖に書け」
ツギが静かに言った。
「空位帖は、空いた席のことを書くための帖だ。あんたが書けば、この辺りの管理人の誰かが読む。道に迷ったら、まず書け」
「書く、ですか。私がこの帖に」
「あんたは、灯台守の仮の代行だ。空位の管理に関わる資格がある。遠慮はいらない」
ツギはそれだけ言うと、小屋の中へ戻っていった。
カイは空位帖を鞄にしまい、灯台を見上げた。朝の光の中で、白い塔が静かに立っている。頂上の灯室では、ウミとゲンタが消灯の後の掃除をしているはずだ。
(俺は、この灯台を離れる。でも灯は残る。あの二人が、守っている)
カイは村の代表と共に、山道へ歩き出した。空位帖の重みが、鞄の中で確かに感じられた。
(困ったら、帖に書け、か。あの婆さんは、いつも肝心なことを最後に言う)
道は山の向こうへ続いている。その先の入り江に、見張りの席の空いた集落がある。海が、朝の光を浴びて銀色に輝いていた。




