第13話 兆しを読む
隣村へ続く道は、海沿いの断崖を縫うように山側へ分け入っていく。潮の匂いが薄れ、落ち葉と土の匂いが濃くなった。
カイは村の代表のデンジと並んで歩いていた。デンジは荷物を背負い、慣れた足取りで山道を進む。
「この道、子供の頃に何度も歩いた。隣村の祭りがあると、村の若い衆で山を越えたもんだ」
「隣村は、山の向こうの入り江にある。海からは近いが、陸路はこの山道しかない。だから、あそこの見張りが上がると、この辺りの海の様子が一気に分からなくなる」
「見張りの席、というのは具体的にはどんな仕事なんですか」
「山の上の小屋から、海を見張る仕事だ。沖の異変、風向きの急変、怪しい雲、遠くの船の動き。そういうのをいち早く察知して、合図を出すんだ」
「合図は、鐘ですか」
「鐘と旗だ。あの鐘が鳴ると、この辺りの村々はみんな海に出るのをやめる。旗の色で、風向きや波の高さを知らせる。あの鐘と旗があるから、この辺りの漁師は安心して沖に出られるんだ」
カイは鞄の中の空位帖の重さを思い出した。出発の朝、ツギに渡された帖だ。「困ったら、帖に書け」と言われたが、まだ開いていない。
「見張りの席の人が倒れたのは、先月でしたね」
「そうだ。サキチっていう山見の老人だ。もう70を過ぎてる。50年近く、あの山の上から海を見てきた。だが、年には勝てん。先月の寒波で体をやられた」
「今は、どうしているんですか」
「だいぶ持ち直して、小屋には戻っとる。頭も口も達者だ。だが、見張りの務めそのものには、もう戻れん。鐘楼に上がって撞木を振る体力がないし、何より、務めを離れた者の合図では村は動かん。席の者が打ってこそ、鐘は鐘になる」
デンジは苦い顔で続けた。
「後継者はいない。あの村は、ここよりも小さい。若い衆はみんな海に出るか、町へ出稼ぎに行くかで、山の上で一人、海を見るような仕事をやりたがる奴がいない」
「サキチの見張りがなきゃ、この辺りの海は目隠しで泳ぐようなもんだ。あんたの灯台と同じでな」
カイは黙って山道を進んだ。落ち葉を踏む音が、静かな森に響く。
山を越えると、小さな入り江が見えた。集落は、カイのいる漁村よりもさらに小さく、家々が斜面にへばりつくように建っている。港には小船が数艘浮かび、浜では女たちが海藻を干していた。
「着いたぞ」
村を見下ろす山の中腹に、小さな小屋と鐘楼が見えた。灯台はない。代わりに、あれがこの村の海を見張っている。
まずは寄り合い長への挨拶だった。小さな家だったが、土間には囲炉裏があり火が赤々と燃えている。寄り合い長はカイの顔を見ると深々と頭を下げた。
「遠いところを、よう来てくれた。わしがこの村の寄り合い長をしておるモサクという。見張りの席の代行、本当に助かる」
「灯台守の仮の代行をしております。どこまで務まるか分かりませんが、力になれることはやります」
「うむ。まずは、山へ上がってサキチに会うてくれ。あの老人が、見張りのすべてを教えてくれる」
カイとデンジは、山道を登って見張り小屋へ向かった。
見張り小屋は、山の中腹の開けた場所に建っていた。木造の小さな小屋。海に向かって大きく窓が開けられていて、そこから入り江と沖の海が一望できる。小屋の横には石造りの鐘楼が立ち、大きな真鍮の鐘が吊るされていた。そのさらに横には、高い旗竿が空に向かって伸びている。
(あれが、見張りの核か)
「核って言い方をするか。まあ、そうだな。あの鐘とあの旗竿が、この村の見張りの要だ」
小屋の中からしわがれた声がした。
「おお、来たか。灯台守の代行どの」
振り返ると、老人が立っていた。腰は曲がり、痩せ細った体を厚い毛織物で包んでいる。だが、その目は異様に鋭くカイの顔をじっと見据えていた。
「サキチさん、ですか」
「そうだ。わしが、この村の山見をしておるサキチだ。中へ入れ」
小屋の中はこぢんまりとしていたが、壁一面に海図や天候の記録が貼られ、机の上には望遠鏡や方位磁石が整然と並んでいた。長年の仕事が染みついた空間だった。
「あんた、若いな。灯台守の代行と聞いていたが、もっと年寄りだと思っておった」
サキチは、カイを上から下まで眺めて、ふむ、と頷いた。
「まあ、若い方がいい。夜の山は足腰が要る。わしはもう、この冬で山を下りるつもりだった。鐘を打つ務めには、もう戻れんからな。だが、教えることはできる。あんたに全部、教える」
「見張りの務めは、たった3つだ。兆しを読む。合図を出す。記録する。それだけだ」
「その3つが、難しいんでしょう」
「そうだ。海の兆しは、読める者にしか読めん。あんたは灯台守の代行をしておるなら、海を見る目はあるはずだ。それをわしが、この山の見方に直してやる」
サキチは窓の外を指さした。
「見てみろ。あの海を」
カイは窓の外を見た。入り江が光り、その向こうに広い海が広がっている。風が、山肌を撫でて小屋の板壁を小さく鳴らした。
「今は凪だ。だが、あの水平線の上の雲を見ろ。あれは、夕方までに風が変わる雲だ。海の色も、朝より青が強い。魚は深場にいる。今日は、漁には向かん」
カイは、黙ってサキチの言葉を聞いた。海は、確かに朝見た時よりも青く、水平線の上に細長い雲が浮かんでいる。言われてみれば、風の匂いが少し変わっている気がした。
(言われる前に、気づいていた。雲も、色も)
それを口に出す気にはならなかった。
「あんたの村のチヨという日和見は、空と海を読む。わしの見張りも似たようなもんだ。だが、チヨが読むのは漁のための海だ。わしが読むのは、命のための海だ。嵐の前の海。危険の前の海。それを、誰よりも早く読む」
サキチは机の上の望遠鏡を手に取った。
「これで、沖を見る。船の動き、波の形、雲の流れ。全部目で読む。読んだら、合図を出す。鐘を鳴らし、旗を上げる。それが、見張りの仕事だ」
「記録は、どうするんですか」
「あそこに、見張り日誌がある」
サキチは、机の下から革表紙の帖を取り出した。カイの持っている空位帖よりは新しいが、やはり長年の使用で角が擦り切れている。
「見たこと、読んだ兆し、出した合図。全部ここに書く。字は汚いが、勘だけに頼らず記録を残す。それが、わしの流儀だ」
カイは、その日誌を一瞥して自分が灯台で書いている日誌のことを思い出した。あれと同じだ。読んだことを書き、書いたことで次の読む力を養う。
「あんた、名前は何という」
「名乗るほどの者じゃありません。好きに呼んでください」
サキチは、カイの顔をじっと見た。
「名乗らんのか。まあ、いい。わしも若い頃は名を捨てて山に籠もったこともある。あんたのことは、灯台守どのと呼ばせてもらう」
「それで、結構です」
「よし。では、今夜から始める。見張りの務めは夜が本番だ。あんた、夜の山は平気か」
「夜は、平気です」
「ほう。なら、いい。夕方までここで海を見ていろ。わしが、兆しの読み方を教える」
サキチは、そう言うと、窓辺の椅子にどっかりと座った。カイも、その隣に立って海を見た。
(夜の山か。灯台とは違う夜だ。でも、海を見るという点では同じだ)
その時、板壁を鳴らす風の向きが、ほんの少し変わった。
「もう始まったな」
サキチが、目を細めて笑った。
「今夜が、楽しみだ」




