第14話 大席の笑い話
夕方、サキチはカイを鐘楼の下に立たせた。
「見張りの合図は、鐘だ。まず、鳴らし方を覚えろ。――打ってみろ」
サキチは鐘楼の柱の撞木を指さした。自分では、もう振れない手だ。カイが撞木を取り、真鍮の鐘を打った。ゴーン、という澄んだ音が入り江を越えて海へ広がっていった。
「この音で、漁師たちは海の異変を知る。だが、むやみに鳴らせばいいってもんじゃない。数と間合いで、意味が変わる」
「間合いですか」
「短く3つが注意報。風が変わるぞ、という合図だ。長く2つが警戒報。海が荒れる、船は早く戻れ。そして、休みなく打ち続けるのが危険報。命に関わる異変が起きた、という合図だ」
サキチの指示で、カイは間合いを変えて鐘を打った。ゴーン、ゴーンゴーン。音が、夕暮れの空に吸い込まれていく。
「それから、旗だ。南風なら緑、北風なら青。波が高ければ、旗を竿の半分に下げる」
「あんた、灯台では点灯の前に何をする」
サキチが、突然聞いた。
「核の周りを1周して、手順を確認します。ランプの覆い、芯の状態、油の量、火打ち石の位置。全部、自分の目で見てから点灯します」
「そうか。なら、ここでも同じようにしろ。鐘を打つ前に鐘楼の周りを1周しろ。旗を上げる前も同じだ。それから、小屋の窓から海を一望する。それが、見張りの着席前の確認だ」
サキチは、カイの目をまっすぐ見て言った。
「席に座る前に、核の周りを回る。その癖がある奴は、どこへ行っても仕事ができる。わしは、そう思う」
(……まあ、座るだけなら)
見張りの席も、座るだけならできる。でも、座ったからには仕事をしなければならない。灯台と同じだ。
「今日は、ここまでだ。夜はわしと一緒に小屋で海を見る。あんたが、どこまで兆しを読めるか試させてもらう」
サキチは小屋の中へ戻っていった。夕日が沈み、海が茜色に染まっている。
(あの鐘の音が、海の命を守る。灯台の光と、同じように)
その夜、二人は小屋の窓から海を見ていた。
月のない夜だった。星が異様に明るい。海は暗い鏡のように星を映して、静かに呼吸している。
「今夜は静かだ。こういう夜は、かえって気を抜けん。凪の夜に、海の底で何かが動くことがある」
「灯台でも、凪の夜は遠くの波の音がよく聞こえました」
「そうか。あんた、凪の夜の海を、どれだけ見てきた」
「まだ、3ヶ月ほどです」
「3ヶ月か。わしは50年だ。だが、あんたの目は3ヶ月の目じゃない。もっと深い海を見てきた目をしとる」
カイは、サキチの言葉にどきりとした。
「あんた、この山に来る前、どこで海を見ておった」
「ずっと放浪していました。海ばかり見ていたわけではありません」
「ほう。なら、あんたの海を見る目は天性のもんか。あるいは、あんたが座った席が、あんたに海の見方を教えとるのか」
サキチはカイの横顔をじっと見た。
「まあ、どっちでもいい。今夜は、まず星を見ろ。星の瞬きが、明日の風を教える」
カイは空を見上げた。星がまたたいている。その瞬きの強さと間合いを、カイの目が勝手に拾い上げていく。
(星の瞬きが強い。空気が乾いている。風は、北から南へ変わる。明日の午後には、海が少し荒れる)
自分の内側に湧き上がる「読み」に、カイ自身が戸惑った。理屈ではなく、体の奥からやってくるものだった。
「あんた、何か読んだな」
サキチが、にやりと笑った。
「読んだことを、声に出してみろ」
カイは少し迷ってから、静かに言った。
「明日の午後、風が北から南へ変わります。海は夕方にかけて少し荒れるでしょう。波は、それほど高くはなりません。船が出るなら、午前中がいいと思います」
サキチはしばらく黙って、それから深く頷いた。
「わしと同じ読みだ。あんた、やはり只者じゃないな」
「勘です。ただの勘です」
「勘で星の瞬きを読める奴がいるか。まあいい。あんたの勘とやらが、この村の海を守るなら、それで十分だ」
サキチは満足そうに笑った。その笑顔が、これまでで一番柔らかかった。
翌日から、カイは見張りの務めを本格的に叩き込まれた。
朝起きると、まず海を見る。読んだことをサキチに報告すると、読みを吟味され、間違いを正され、足りない部分を教えられた。
「鳥を見ろ。海鳥が陸に逃げる時は、風が強くなる。沖に集まる時は、魚が浮いている」
「雲を見ろ。夕方に西の空が真っ赤に焼けると、翌日は風が強い」
知らないはずのことが、体の中に流れ込んでくる。自分の「勘」と、サキチの教えが、するりと融合していく。
「記録は、どうだ」
サキチは、カイの書いた見張り日誌を覗き込んだ。
「字は汚いが、読める。波の周期まで書いとるのか。わしは、そこまで細かく書かん」
「灯台の日誌で、そう書くようにしていたので。こちらの日誌でも、同じように書いています」
「ふむ。あんたの流儀だ。続けろ。あんたが山を下りた後も、この日誌は次の見張りの道しるべになる」
集落の人々は、カイのことを「灯台守さん」と呼んだ。
「灯台守さん、今日の海はどうだい」
「灯台守さん、明日は船を出しても大丈夫かい」
カイは、そのたびに丁寧に答えた。人々はその合図で、海に出るかどうかを決めた。
「サキチのじいさんと同じくらい当たる。いや、時々もっと細かいことを言う」
ある者はカイを神様の使いのように扱い、ある者は腕のいい山見として敬い、「仮の代行だからこそ、遠慮なく頼める」と気軽に声をかける者もいた。
「あんた、ここにずっといてくれたらいいのに」
浜で海藻を干していた老婆が、カイに言った。
「そうもいかないんです。あちらの村の灯台も、放ってはおけませんから」
「そうか。あっちの灯台も、大事だものな。でも、寂しくなる」
(ウミとゲンタが、あの灯を守っている。俺はここの見張りを守る。それが、今の俺の席だ)
夜、サキチとカイは小屋の囲炉裏を囲んで茶を飲んでいた。
サキチは、若い頃の昔話を語った。
「わしがこの山に上がったのは、まだ20の頃だ。先代の山見が突然死んで、席が空いた。それから50年、一人で海を見てきた」
「寂しくなかったんですか」
「寂しくないと言えば、嘘になる。だが、あの鐘の音で船が助かることがある。旗の色で、命が救われることがある。それだけで、十分だ」
サキチは茶をすすって、遠い目をした。
「そういや、昔、旅の坊主が来て面白い話をしていったな。この世界のどこかには、『大席』と呼ばれる大きな席があるそうだ。王の席や、勇者の席、賢者の席がな」
「大席、ですか」
「ああ。大席はめったに空かない。空いたら世界が揺らぐ。だが今は、あちこちで空いたままになっているそうだ。勇者の席も、賢者の席も、誰も座っていない。だから世界は、ゆっくりと傾いている」
サキチは、笑いながら言った。
「まあ、わしらみたいな辺境の村には関係ない話だ。大席が空いていようが、鐘を打つのは勇者じゃなくて山見だ。王都の連中が、何とかする話だ」
(勇者の席。あの村の寄り合いでも、誰かが同じ話をして笑っていた。遠い世界の笑い話のはずなのに、どうしてこう、耳に残るんだろう)
「あんたも、灯台守の代行として、足元の席を守ってきたんだろ。それが、何よりの仕事だ」
サキチは、そう言って静かに笑った。囲炉裏の火が、小さく爆ぜる。
だが、カイは笑えなかった。
(大席が、あちこちで空いたまま)
その言葉だけが、囲炉裏の火よりも長く、耳の奥に残った。




