第15話 霧の合図
見張り小屋の窓を開けた朝、海がなかった。
村に来て5日目の朝だ。山肌を這うように霧が立ち込め、海面も、入り江の輪郭も、白い靄に溶けて消えている。波の音は聞こえる。だが、いつもより遠い。霧が音まで食っている。
「こりゃあ、重い霧だ」
隣でサキチが起き上がり、窓の外をじっと見た。老人の顔に、かすかな緊張が走る。
「この時期の霧は、昼まで晴れんことがある。下手すりゃ、夕方まで海が見えん」
見張りの要は「目」だ。海を見て、兆しを読む。だが、この霧では目が使えない。旗も見えなければ、沖の異変も読めない。
「サキチさん。こういう日は、どうするんですか」
「わしは、耳と鼻で読む。風の音、波の音、潮の匂い。だが今日の霧は、音まで食う。深い霧だ」
カイは外套を羽織って小屋を出た。霧が肌に張りつく。濡れた空気が、喉の奥まで入り込んでくる。
山道を下りて港へ向かうと、浜にはすでに漁師たちが集まり、船を出すか出さないか、顔を見合わせて迷っている。旗竿を見上げる者もいるが、山の中腹は霧に覆われて、旗の色も位置も判別できない。
「灯台守さん、今日は出られるかね」
「この霧じゃ、合図が見えん。旗が上がっとるのか、下がっとるのかも分からん」
「鐘も鳴らん。待つしかないのか」
漁師たちの声は、不安でざわついている。カイは浜に立って、海を見た。見えない。霧が全部を隠している。
「皆さん、今日の出漁は待ってください」
カイは、静かにはっきりと言った。
「いまは海の様子が読めません。旗は見えず、鐘の音も霧で鈍ります。無理に出て、沖で迷えば命に関わります」
「だが、待ってたら魚が」
「魚は逃げても、命は戻りません」
漁師たちは押し黙った。
「少し時間をください。霧の切れ間を探して、判断します」
カイはそう言って、山へ戻った。
見張り小屋に戻ると、サキチが机に向かっていた。
「どうだった」
「出漁は止めました。この霧では、判断ができません」
「正しい。無理に出して、霧で方角を失えば船は戻れん。だが、この霧が昼までに晴れるか、夕方まで続くかで、村の今日の仕事が変わる」
サキチは顔を上げて、カイを見た。
「あんた、どうする。旗は使えん。鐘を打っても、音は鈍る。出す合図は、どう伝える」
カイは、しばらく考えてから言った。
「灯台の灯と、鐘の音を使います」
「灯と音?」
「霧の中でも、光と音は届きます。あちらの灯台の明滅を、合図に変える。鐘は間合いを広げて、ゆっくり大きく打つ。霧の日は音が鈍る分、確実に届けるんです」
「あんた、見張りの合図を勝手に変えるつもりか」
「合図そのものは変えません。短く3つは注意、長く2つは警戒。意味は、サキチさんの鐘と同じままです。変えるのは、伝える手段だけです」
サキチは腕を組んで、しばらく考えていた。
「灯台の灯を、見張りの合図に使う。その発想は、わしにはなかった。あんたは灯台守の代行だ。だから、その手があることを知っている」
「理屈は通っている。旗が見えん霧の中で、灯は見える。鐘は鳴らせば、霧を抜けて浜まで届く。やるなら、徹底的にやれ。中途半端が一番危ない」
だが、とカイは言った。
「灯台の明滅は、こちらからは変えられません。あちらに伝える手段が要ります」
「伝令なら、村の若い衆がおる。だが、あの村まで半日かかる。往復で1日。今日の霧には間に合わん」
「鏡です」
サキチは、棚の奥から古い手鏡を取り出した。若い頃、沖の船へ合図を送るのに使ったものだという。縁が欠け、曇っていた。
「その鏡で、どうする」
「山の上から、灯台のある方角へ光を送ります。霧は深い。でも、薄い層の上までなら光が届くかもしれません。あちらの灯台からも、この山は見えるはずです」
「光の点滅で、何を伝える」
「明滅の間合い、そのものです。短く3つ、長く2つ。灯台の日誌には、明滅の間合いと、その意味を全部書いてきました。注意の間合い、警戒の間合い。船に伝えるための、灯の言葉です」
カイは、手鏡を握りしめた。
「見習いのゲンタは、その日誌を読んでいます。光の間合いに気づいてくれれば、灯の明滅をこちらに合わせて変えてくれるはずです」
(はず、では弱い。だが、ほかに手はない)
サキチは、カイの横顔を見て深く息を吐いた。
「あんたは、見張りの席に座ったばかりの代行だ。だが、もうこの村の海のことを考えておる。……わしは、あんたに任せる。好きにやれ」
「ありがとうございます」
夕方になっても、霧は晴れなかった。
カイは見張り小屋の前に立ち、灯台のある方角へ手鏡を構えた。山の上の空気は冷たく、霧が肌を濡らす。西の空が、わずかに明るい。日が沈む前に、光を送らなければ。
手首を返して、光を点滅させる。短く3つ。長く2つ。その繰り返し。
(見えているか。頼む、気づいてくれ)
腕が疲れる。指先が冷えて、感覚が鈍る。それでも、手を止めなかった。
同じ頃、灯台の灯室では、ゲンタが窓の外の光に気づいた。
「ウミ。あれ、見えるか。山の方で、光が……」
「霧で何も見えないよ。……あ、ほんとだ。点いて、消えて。何あれ」
短く3つ。長く2つ。また、短く3つ。
ゲンタは棚から日誌を取り出した。カイの字で、明滅の間合いと、その意味が並んでいる。注意。警戒。船へ伝えるための、灯の言葉だ。
「これだ。この間合い、日誌に残ってるのと、同じだ」
「じゃあ、あれは」
「合図だ。山の上から、あの人が送ってる。……灯の間合いを、この通りに変えろってことだ」
ゲンタの手が、わずかに震えた。夜は苦手だ。それでも、明滅の覆いに手をかけた。
「ウミ、時間を計ってくれ。俺が間合いを変える」
「見えた」
サキチが、突然言った。
「あの村の方角に、光が揺れた。灯台の明滅だ」
カイは息を呑んで、灯台の方角を見つめた。霧の上に、かすかに光がまたたいている。短く3つ。長く2つ。間合いを変えて、繰り返している。
「……届きました」
カイは、手鏡を下ろした。霧の向こうで、灯がまたたき続けている。




