第16話 見張りの目
その夜、カイは見張り小屋で、灯台の明滅と見張りの合図の対応表を作った。
紙に図を描き、サキチに説明する。
「霧の夜の明滅は、短く3つで注意報。長く2つで警戒報。休みなく繰り返せば、危険報です。これは、こちらの鐘の合図と同じ意味になります。あちらの灯台が、この村の合図を中継する形です」
「あちらの灯台は、この山からも見える。浜からも、沖からも見える」
「はい。霧の中でも、光は届きます。これで、出漁の判断を止めずに済みます」
「だが、灯台の明滅を、ここの漁師が正しく読めるか」
「今夜、浜で説明します。明日の朝の判断に使えるように。漁師の皆さんは、海の男です。間合いの意味を伝えれば、すぐに覚えてくれます」
サキチは、カイの書いた図をじっと見た。
「あんたは、灯台守の仕事を、見張りの村のために使っている。それが正しいことかどうか、わしには分からん。だが、海の命を守るためなら、手段は選ぶな。わしは、そう思う」
「手段は選びません。でも、越えてはいけない線は踏みません。この合図は、あくまで応急です。霧の間だけの、臨時の伝達です。正式な合図は、サキチさんの鐘と旗です。それは変わりません」
「分かっとる。あんたは、よく分かっとる」
サキチは、小さく笑った。
「さあ、浜へ行こう。村の連中に、あんたの合図を教えてやれ」
夜の浜に、村の漁師たちが集まった。
霧はまだ深い。だが沖の方角に、かすかに灯台の明滅が見えた。短く3つ。長く2つ。その光が、霧の上を滑るようにして届いている。
「皆さん、あの灯台の明滅を、合図として使います」
カイは浜に立って、漁師たちに説明した。
「短く3つが注意報です。風が変わります。海が荒れます。長く2つが警戒報。船は早く戻ってください。そして、休みなく明滅を繰り返すのが危険報です。命に関わる異変です」
「旗と同じだな」
「そうです。旗の代わりに、灯が合図を出します。旗が見えない日は、灯を見てください」
「だが、灯台はあっちの村の灯台だろ。こっちの合図を、どうやってあっちから出すんだ」
「山の上から、鏡の光で伝えました。あちらの見習いが、日誌に残してある明滅の記録を読んで、間合いを変えてくれたんです。あの若者が、いま、あの灯台を守っています」
漁師たちの間に、どよめきが広がった。
「あんた、あっちの村の灯台まで動かせるのか」
「動かせるわけではありません。あちらの見習いに、頼みを聞いてもらっただけです」
「明日の朝、あの明滅が短く3つを繰り返していれば注意報です。長く2つなら警戒報。出漁は、その合図を見てから判断してください」
「分かった。あんたの言う通りにする」
「命を張るのは、俺たちだからな。合図が増えるのは、ありがたい」
漁師たちは、灯台の明滅をじっと見つめた。霧の夜に、光がまたたいている。
翌朝、霧はゆっくりと動き始めた。
カイは夜明け前に見張り小屋を出て、山の上から海を見た。霧の下から、海面がわずかに見える。風が南から北へ変わり始めている。波は、まだ低い。
「出られるな」
サキチが、隣に立って言った。
「風は北寄り。波は午前中は持ちそうだ。午後から、少し荒れる。出すなら午前中だ」
カイは、灯台の方角を見た。霧の上に、光がまたたいている。短く3つ。注意報。風が変わる。午前中なら出られる。午後からは荒れる。
「合図を出します」
カイは鐘楼の下に立った。撞木を手に取る。鐘楼の周りを1周して、鐘の状態を確認する。それから、大きく息を吸って鐘を打った。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
短く3つ。注意報。音が浜へ届く。霧を抜けて、海へと響く。
「今日は、午前中なら出られます。午後から風が変わります。早く出て、早く戻ってください」
カイの声は、鐘の音と共に山を下りていった。
浜では、漁師たちが顔を見合わせ、やがて一斉に動き出した。船を出す準備だ。灯台の明滅と鐘の音が、彼らの背中を押した。
「行くぞ。午前中で上がる」
「分かってる。無理はしねえ」
「灯台守さん、ありがとうよ」
漁師たちはカイに手を振って、船を押し出した。霧の海へ、何艘もの小船が滑り出していく。
カイは、山の上からその光景を見つめていた。
(旗も鏡も使えない霧の朝に、灯と音で合図を送る。これが、今の俺にできることだ)
サキチが、静かにカイの隣に立った。
「あんたの目は、見張りの目だ」
サキチが、ぽつりと言った。
「わしが50年かけて、ようやく手に入れた海を読む目を、あんたはもう持っている。しかも、それだけじゃない。灯台守の知恵も、合図の技術も、記録の習慣も持っている。あんたは、この山に来るべき男だったのかもしれん」
「私は、ただの代行です。ここにも、あの村にも、長くはいられません」
「分かっとる。だからこそ、あんたがここにいる間に、あんたの目を村に残していけ。記録に残せ。合図に残せ。それが、あんたにできる最高の置き土産だ」
カイは、黙って頷いた。霧がゆっくりと晴れていく。海が、朝の光を浴びて銀色に輝き始めていた。
その日の夕方、見張りの村に使いが来た。
灯台の村からの伝令だった。ツギからの文を携えている。
「灯台守さん、ツギ婆さんからです」
カイは文を受け取った。丁寧に折り畳まれた紙を開く。ツギの文字は、小さく几帳面だった。
「灯台の灯は、ゲンタとウミが守っておる。明滅の合図も、あの二人で続けておる。問題はない」
そこまで読んで、カイはほっと息を吐いた。
「だが、村では寄り合いが開かれ、後継決定の期限の話が出ておる。いつまでも仮の代行に頼っておるわけにはいかん。春の大市までに、灯台守の席をどうするか決める。そういう話に、なっておる」
カイは文を読み終えて、ゆっくりと顔を上げた。
「後継決定の期限、ですか」
「どういうことだ」
サキチが、カイの顔を覗き込んだ。
「あちらの村で、灯台守の後継者を決める期限の話が出ているそうです。春の大市までに、正式な席を埋めたい。寄り合い長たちが、そう言い出したようです」
「そうか。あんたの村も、空席に揺れておるんだな」
「はい。私が代行をしている限り、向こうの旗の空席表示は戻りません。村の人たちが正式な灯台守を求めるのは、当然のことです」
カイは文を折り畳んで、鞄の中にしまった。空位帖の隣に、ツギの文が収まる。
(後継決定の期限。春の大市まで。あと、どれくらいだ。俺は、あの村に帰らなければ。でも、ここの見張りも、まだ手放せない)
「焦るな。あんたがここにいる間は、ここの海を守れ。あっちの村のことは、あっちの村で動いておる。時期が来れば、道は開ける」
サキチの言葉は、静かで、力強かった。
「ありがとうございます」
カイは、夕暮れの海を見た。霧はすっかり晴れて、水平線がくっきりと見える。灯台のある方角に、白い塔の影が小さく浮かんでいた。
カイは、鞄の中の空位帖に手を触れた。
「困ったら、帖に書け」
出発の朝に聞いたツギの声が、耳の奥で聞こえた気がした。




