第29話 締めの半拍
朝になると、集落のあちこちから言い争う声が聞こえていた。
田の水入れの時期だというのに、水門の開閉の刻が決まらない。どの田にどれだけ水を引くか、番水の順番をどう回すか。すべては鐘の音で決まっていた。だが、その鐘はもう何日も鳴っていない。
「こっちの田に水が来とらん! いつまで待てばいいんだ!」
「待つも何も、誰が何時に水門を開けるか分からんのや。鐘が鳴らんことには、順番も刻も決められん」
「だから言うとるだろ! うちの田はもう限界だ。このままじゃ苗が枯れる!」
広場の近くで、若い男が年寄りに食ってかかっていた。ゴロウという若手の百姓だ。色黒で、目つきは鋭いが、その声には焦りと疲れが滲んでいる。
「ゴロウ、落ち着け。お前の田だけじゃない。皆、同じだ」
「落ち着いていられるか! 水が来なきゃ、うちの田は終わりだ。あんたの田は上流だからいいかもしれんが、こっちは下流だ。水が回ってくるまで、いつもより倍かかる」
言い争いは、激しくなるばかりだった。周りの村人たちも、止めに入るでもなく、ただ黙って見ている。誰も、鐘のことを口にしない。口にすれば、この村は「止まっている」ことになる。だから皆、鐘の代わりに誰かを責めるしかない。
カイは、その光景を少し離れたところから見ていた。
(もう限界だ。この村の沈黙は、田の水と同じで、どこかで堰き止められなくなっている)
カイは、トメの家に戻った。
「トメさん。私、あの鐘楼に上がります」
トメは、囲炉裏の前で黙っていた。しばらくして、ゆっくりと顔を上げる。
「自分で、決めたのか」
「決めました。頼まれたわけじゃありません。でも、あの水の行き違いを見て、このままでは村が壊れると思いました」
「そうか」
トメは、短く言った。それ以上は何も聞かない。
「鐘楼の鍵は、あそこだ。持っていけ」
トメは、壁の釘に掛けられた古い鍵を指した。
カイは、鍵を手に取った。鉄の鍵はずっしりと重く、ひんやりと冷たい。
「行ってきます」
「ああ。行きな」
カイは、トメの家を出て鐘楼へと向かった。
* * *
鐘楼の入り口の扉は、固く閉ざされていた。
カイは鍵を差し込み、ゆっくりと回す。扉が開いた。中は薄暗く、埃っぽい空気が漂っている。階段が、上へと続いていた。
カイは、階段を上がった。最上階に、青銅の鐘が吊るされていた。撞木が、壁に立てかけられている。
カイは、鐘の周りを、ゆっくりと1周する。鐘の表面の傷、吊るす金具、撞木の先の摩耗を、一つずつ確かめた。
(鐘の状態は悪くない。撞木も、まだ使える。あとは打ち方だ)
カイは撞木を両手で持ち、鐘の下を狙った。足の構え、腰の入れ方、腕の振り。体が、自然に動く。
カイは、深く息を吸い、撞木を引いた。
ゴーン。
鐘の音が、夕暮れの空に広がっていく。撞木の引き方、余韻の聞き取り方。誰にも教わっていない手順が、体に馴染んでいる。
ゴーン。ゴーン。
そして、3打目の後、カイの手が勝手に動いた。4打目を、わざと半拍遅らせて打つ。
(今の、何だ。夕の鐘は3つのはずだ。なのに、俺の手は4つ目を打った。しかも、わざと半拍遅らせて)
(誰かの癖だ。俺の体が、勝手にそれをなぞった)
鐘楼の下で、トメの顔が青ざめていた。唇が、かすかに震えている。
鐘の音が、集落に響いた。何日も、何ヶ月も止まっていた音が、夕暮れの空に広がっていく。家々の戸が、少しずつ開いた。子供たちが顔を出し、老人たちが空を見上げる。
「鐘だ」
「鐘が、鳴ってる」
村人たちが、広場に集まってきた。その顔には、驚きと、安堵と、どこか戸惑いが混ざっている。カイは、鐘楼の上からその光景を見た。
首筋に、かすかな熱があった。席に触れた、というだけの感触だ。
(鳴った。これで、今日の段取りは動く)
カイは、撞木を置いて、深く息を吐いた。
(まあ、座るだけなら。……いや、もう座ってしまった)
カイは、鐘楼を下りた。広場には、村人たちが集まっていた。
「旅の人、あんた、あの鐘を打ったのか」
ゴロウが、カイに声をかけた。
「ええ。私が打ちました」
「あんた、何者だ。なんであの鐘が打てる」
「分かりません。ですが、この村の刻を戻すために打たせてもらいました」
カイは、静かに答えた。
トメが、その先頭に立っている。老婆はカイを見上げて、何も言わなかった。ただ、その目が少しだけ潤んでいるように見えた。
「トメさん。今の鐘……最後の1打、遅れましたね」
カイは、静かに言った。
「私の手が、勝手に」
「ああ」
トメは、短く答えた。
「カンジの打ち方だ」
「……そうですか」
「あの男は、いつも最後の1打だけ半拍遅らせた。余韻を聞くためだと言ってな。村の者は皆、知ってる。あの遅れが、夕の鐘の終わりの合図だった」
カイは、自分の手を見た。
(知らないはずの打ち方を、俺の手がなぞった)
それは、灯台の時と同じだ。いや、もっと直接的だ。手順だけじゃない。癖まで。
カイは、その先を考えないようにした。今は、村人たちの前だ。
「皆さん。今日の夕の鐘は、打ちました。明日からも、朝・昼・夕と打ちます。水門の開閉も、鐘に合わせてください」
カイの声は、丁寧で、静かだった。村人たちは顔を見合わせ、やがて小さく頷いた。誰も、カイを「カイ」とは呼ばなかった。
「カンジが、戻ってきた」
誰かが、そう呟いた。カイは、それを否定しなかった。否定すれば、この場が崩れる気がした。
(今は、それでいい)




