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空席代行者 〜勇者の席が空いているので、代わりに座っています〜  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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第28話 綺麗すぎる記録




「あの、トメさん」


 しばらくして、カイは口を開いた。


「この村の鐘は、いつから止まっているのですか」


 トメは、しばらく黙っていた。


「さあね。誰も、口にせん。口にすれば、止まっていることが本当になる。そうすれば、この村は正式に空席の村になる。だから、皆、黙っておる」


「でも、あの鐘楼の木札には、鐘がこの村の段取りを全部司っていたと、書いてありました。あれが止まって、村はどうやって動いているのですか」


「動いとらんよ」


 トメは、静かに言った。


「水門の開閉も、田の共同作業も、子供の帰宅も、全部あの鐘の音で決まっとった。あれが止んでから、村の段取りは崩れた。誰がいつ水を引くのか。誰がいつ田に出るのか。誰が子供を呼び戻すのか。全部、ばらばらになった」


「でも、村の人は、普通に暮らしているように見えますが」


「見えるだけだ。皆、黙って、普通のふりをしとる。あの家々の戸が閉ざされとるのも、そういうことだ」


 トメの声は静かだが、どこか痛みを帯びていた。


「あんた、カンジの引き継ぎ記録を見るか」


「見せてもらえますか」


 トメは、ゆっくりと立ち上がり、壁際の棚から古い木箱を取り出した。その中から、丁寧に折り畳まれた紙の束を取り出して、カイの前に置く。


「これが、カンジの引き継ぎ記録だ」


 カイは、紙の束を手に取った。日付、手続き、承認の印。すべてが、寸分の狂いもなく揃っている。誰がいつ鐘を鳴らし、誰がいつ席を空け、誰がそれを承認したか。記録の上では、すべてが完璧だった。


 紙は、どれも同じ調子で揃っていた。書き直した跡も、書き足した跡も、迷って止まった筆の跡もない。


 (綺麗すぎる)


 カイは、紙をめくりながら思った。


 (この記録には、生活の跡がない。あの村の灯台日誌には、ジンペイさんの癖や迷いや、日々の海の様子が滲んでいた。でも、この記録には、そういうものが何もない。ただ、手続きだけが整然と並んでいる)


「カンジは、手順どおり席を空けたことになっとる」


 トメが、静かに言った。


「記録の上ではな。この紙の束は、そう言っとる」


「記録の上では、ですか」


「ああ。あの夜のことはね、誰に聞いても、同じ答えが返ってくるんだよ」


 トメの声が、少しだけ低くなった。


「カンジが去った夜のことを、村の誰も、はっきり覚えとらん。わしも、覚えとらん。ただ、記録だけが残っとる。カンジは手順どおり席を空けた、と。そう書いてある。それだけだ」


 カイは、紙の束をじっと見つめた。


 (誰も覚えていない。でも、記録は完璧に揃っている)


 カイは、記録の最後の頁をめくった。そこに、席務院への届出の写しが挟まれていた。届出の末尾に、照会者の署名が、小さく書かれている。


「セラ」


 カイは、その名前を一瞬だけ目で追った。


 (聞いたことのない名前だ。だが、深く考えるのはよそう。今は、この村の鐘のことだ)


 カイは、記録を丁寧に畳んで、トメに返した。


「トメさん。この村の鐘の席は、今、空いているんですか」


「空いとる。だが、誰も口にせん。正式に空席と認めれば、この村の大きな決定が制度上、全部止まる。水門の改修も、田の配分も、祭りの段取りも。だから、皆、空席ではないことにしとる」


「でも、それでは、村が少しずつ壊れていきます」


「分かっとる。だが、どうにもならん。鐘の席に座れる者は、この村にはおらん。カンジが去ってから、誰もあの鐘楼に上がれん」


 トメは、囲炉裏の火を見つめながら言った。


「あんた、カンジ。あんたなら、あの鐘楼に上がれるかもしれん」


 カイは、黙ってトメの顔を見た。


 (俺は、この村の鐘の席に座れと言われている。でも、俺は頼まれていない。頼まれていない席に座るのは、あの村とは違う。あの村では、ツギさんに頼まれて、灯台の席に座った。でも、ここでは。トメさんが俺をカンジと呼んで、座れるかもしれないと言っているだけだ)


 カイは、深く息を吐いた。


「トメさん。私は、すぐには返事ができません」


「急かしはせん」


 トメは、静かに言った。


「あんたが、座るか座らんかは、あんたが決めることだ。わしは、あんたがカンジに見えると、言うただけだ」


「ありがとうございます。今夜は、少し考えさせてください」


「そうしな。飯を食って、休みな」


 トメは、立ち上がって土間に向かった。囲炉裏の火が、細く揺れている。


* * *


 飯を済ませ、カイは床に入った。


 鞄の中の空位帖に、手を触れる。


 (困ったら、帖に書け。ツギさんの言葉が、まだ残っている。まだ開いていない。でも、この村の空気は、俺に何かを問いかけている)


 (まあ、座るだけなら。でも、座るだけじゃ済まないのが、席ってやつだ)


 夜の山間の集落に、風が吹き抜けた。鐘のない鐘楼が、暗い空に向かって、黙って立っている。刻を告げる音のない夜は、どこまでも長かった。


 犬の声も、遅く帰る子を呼ぶ声もない。刻を失った村の夜は、ただ、静かなだけだった。


 (あの鐘が、鳴らない。この村の時間が、止まったまま。俺は、それを動かせるのか)


 カイは、その夜、なかなか寝つけなかった。

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