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空席代行者 〜勇者の席が空いているので、代わりに座っています〜  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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第27話 鐘のない集落




 峠を下りきると、山の斜面にへばりつくようにして、小さな集落が現れた。


 石を積んだ家々が段々に並び、その間を細い水路が縫っている。田の水入れの時期のはずだが、水の張られた棚田はまばらで、乾いた土の色を見せている区画もあった。水路の水も、どこか淀んでいた。


 美しい場所だった。だが、何かが決定的に欠けている。


 (鐘がない)


 カイは集落の入り口に立ち、耳を澄ませた。


 夕方だ。日が山の端に沈みかけている。この時間、どこの村でも夕げの支度が始まり、子供たちが家に帰り、一日の仕事が終わる。そして、それを告げる鐘や太鼓や、呼び合う声が響くはずだった。だが、この集落には、そのどれもない。


 家々の窓から、灯りが漏れていない。夕げの煙も、上がっていない。戸という戸がぴたりと閉ざされ、通りには人の姿もなかった。まるで、村全体が息を潜めているみたいだった。


「すみません。旅の者です。どなたかいませんか」


 カイは、一番近い家の戸を叩いた。


 返事がない。だが、戸の向こうに人の気配はある。息を殺して、こちらを窺っている。そういう気配だった。


 (いるのに、出てこない。いや、出てこられない。この村は、何かに怯えているのか)


 カイは、そのまま集落の道を歩いた。すれ違う人影が、一瞬だけこちらを見て、すぐに目を逸らす。畑の隅でしゃがみ込んでいた老婆は、カイの足音に気づくと、まるで見てはいけないものを見たかのように顔を背けた。


「あの、この村には、宿はありますか」


 カイが声をかけると、老婆はぶるぶると首を振り、家の中に逃げ込んでしまった。


 (誰も、鐘のことを口にしない。いや、口にできないんだ。この家々の沈黙は、そういう沈黙だ)


 村の中央の小さな広場に出ると、そこに鐘楼が立っていた。


 石造りの古い鐘楼だ。頂上には青銅の鐘が吊るされている。だが、撞木は外され、鐘は黒ずんだまま、動いていなかった。


 鐘楼の根元に、一枚の木札が打ち付けられていた。


「刻の鐘 朝・昼・夕。水門、開閉。共同作業、始まりと終わり。子供の帰宅」


 それは、この鐘がこの村のすべての段取りを司っていた証だった。朝に鐘が鳴り、昼に鐘が鳴り、夕に鐘が鳴る。水門を開ける時、閉める時。田の作業を始める時、終える時。子供たちが家に帰る時。すべてが、あの鐘の音に連動していた。


 (この鐘が止んで、どれだけ経つ。あの村の灯台と同じだ。席が空いて、営みが止まっている。でも、あの村と違って、誰も「止まっている」と言わない。言えないんだ。言えば、正式な空席になる。そうすれば、この村の大きな決定が、制度上、全部止まる)


 (口にしなければ、空席にならない。だから、この村は鐘の停止を「なかったこと」にしている。不気味なほど静かなのは、そのせいか)


 カイは、鐘楼の前に立ち尽くした。


「旅の人」


 突然、背後から声がした。


 振り返ると、小さな老婆が立っていた。腰は曲がり、白髪を後ろで一つに結んでいる。年の頃は八十を過ぎているだろうか。痩せた体に厚手の麻の着物を纏い、手には古い杖を握っていた。


「あんた、この村に何の用だい」


 老婆の目が、カイをじっと見つめている。その目は、年齢に似合わず、異様に澄んでいた。


「峠を越えてきた旅の者です。この村で一晩、休ませてもらえないかと思いまして」


「宿はない。だが、わしの家なら空いてる。来なさい」


 老婆は、カイの返事も待たずに歩き出した。その後ろ姿を、カイは慌てて追った。


 (この人だけは、目を逸らさなかった。それどころか、俺を見て、何か確信したような顔をした)


 カイは、老婆の背中を見つめながら、妙な既視感を覚えていた。


* * *


 老婆の家は、鐘楼からほど近い、石造りの小さな家だった。


 中に入ると、土間と板間がひと続きになった簡素な造りで、壁際の棚には古い書物や木箱が整然と並んでいる。囲炉裏の火は、細く燃えていた。


「座りな。飯は後で出す」


 老婆は、カイを板間に上げると、囲炉裏の火を大きくした。


「あの、お名前を伺っても、よろしいでしょうか」


 カイが言うと、老婆は顔を上げて、カイを見た。


「トメだ。この村の空位管理人をしておる」


「空位管理人」


「そうだ。空いた席のことを記録し、次の者が来るまで守る。この村では、わしがそれをやっとる」


「あの鐘楼は、死んだ亭主が若い頃に組んだものだ。その縁で、鐘のことも、席の記録のことも、長くわしが預かってきた」


 トメは、囲炉裏の火に手をかざしながら、静かに言った。


「あんた、カンジ」


 カイは、どきりとした。


「カンジ。この村の、前任の鐘つきの名だ。あんた、カンジに似とる。いや、カンジそのものだ」


「人違いです。私は、違います」


「そうか。だが、わしにはカンジに見える」


 トメは、それ以上追及しなかった。囲炉裏の火が爆ぜる音だけが、静かな家の中に響く。


 (カンジ。この村の鐘つきの名。この村の人は、俺をその名で呼ぶ。あの村では、灯台守さんだった。ここでは、カンジ。俺は、いつも誰かの代わりだ)


 カイは、自分の手を見つめた。その手が、かすかに震えている。


 漁村の浜で呼ばれた、自分の名が、まだ耳の奥に残っていた。なのに、ここで最初にかけられた名は、他人のものだった。

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