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空席代行者 〜勇者の席が空いているので、代わりに座っています〜  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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26/30

第26話 カイ

 翌日の夕暮れ、灯室に両当直が揃った。


 交替の作法は静かだ。ランプ、レンズ、分銅、日誌。異常のないことを、一つずつ声に出して確かめ合う。ツギとゴヘイが、審査の立ち会いとして壁際に立っていた。


「油、八分。分銅、残り三目盛り。レンズ、曇りなし。日誌、昨夜分まで済み」


 ウミの声は、震えていなかった。


「今夜一晩、ウミが灯を務める」


 ゴヘイが言った。


「代行は、手を出すな。隣で見届けるだけだ」


「はい。見届けさせていただきます」


 カイは灯室の隅に下がった。


 ウミはランプの周りを1周して、手順を確認した。芯、油、レンズ、分銅。カイがいつもやるのと同じ順序で、だが、彼女自身の手つきで。


 火打ち石を持つ手が、一瞬だけ止まった。カイの手が動きかけて、止まる。手を出さないことが、今夜の自分の務めだった。


 火打ち石が鳴った。芯に火が点り、回転が始まる。明滅は乱れなかった。


 夜半、分銅の巻き上げの時刻が来た。ウミは一人で石段を往復し、規則正しい明滅を保ち続けた。合間に日誌を開き、分単位で記録を書き足していく。カイの手は、膝の上で動かなかった。


 夜明け前、消灯。日誌にはウミの字で一晩の記録が整っていた。


 ゴヘイは日誌を最後まで読んで、頷いた。


「一晩、乱れなし。審査は、済んだ」


* * *


 朝、改めて灯室に人が集まった。


 ゴヘイ、ツギ、ゲンタ。そして、カイ。


「ウミ。お前は、この灯台の席に座る」


 ゴヘイの声に、ウミは深く頷いて、灯台守の椅子の前に立った。


 もう一度、ランプを1周する。それから、ゆっくりと腰を下ろした。


 その瞬間、ランプの光がふわりと揺れた。ウミの首筋に、かすかな光が走り、刻印の紋が定まる。


「着席が、成立した」


 ツギが静かに言った。


 ツギは席帳を開き、ウミの名を書き入れた。新しい持ち主の名が、席の記録に定まる。


 ゲンタが、扉の脇で小さく息を呑んだ。冬の間、誰も座れなかった椅子に、人が座っている。それだけで、灯室の空気が変わって見えた。


 ウミは、黙ってランプを見つめていた。やがて、小さく呟いた。


「おじいちゃん。あたし、ここに座ったよ」


 それは、誰に言うでもない言葉だった。自分に言い聞かせるように、彼女はもう一度、椅子の肘掛けを握り直した。


 カイは腕に目を落とした。冬の間ずっと閉じきらなかった仮の刻印の輪が、すっと薄れ、消えていく。


(これで、私の役目は終わった。この席は、あの子の席だ)


 灯台を下り、村役場の前を通りかかると、カイの足が止まった。


 席紋板。裏返しのままだった灯台の紋が、元に戻っている。


「戻ったよ」


 ツギが、隣で言った。


「あの席は、もう空いてない」


* * *


 昼、浜に出ると、村人たちが集まっていた。


 男たちも、女たちも、子供たちも、老人たちも。村の全員が、見送りに出ていた。


「あんた、行くのかい」


 ツギが、先頭に立って言った。


「はい。お世話になりました」


 カイは荷物を置いて、深く頭を下げようとした。


「……カイ」


 ツギの声が、浜の空気を変えた。


 カイの体が、確かに止まった。


「席帳には、ちゃんと残ってるんだよ。あんたが座った日の、あんたの名が。あんたは、名乗らなかったけどね」


 ツギは、カイの目をまっすぐに見た。


「あんたは、灯台守さんでも、旅人でもなく、カイとしてここにいた。だから、この村はあんたを、カイと呼んで見送る」


 村人たちの声が、重なった。


「カイ! ありがとうよ!」


 デンジの声。


「カイ! 元気でな!」


 ゲンタの声。


「カイ! あんたの灯で、冬を越せたよ!」


 チヨの声。


「カイ、また来いよ!」


 子供たちの声。そして、その中に混じって。


「カイ。……達者でな」


 リュウゾウの声だった。


 席の名でも、代行者でもない。ただ、彼の名を、村の全員が呼んでいた。


 カイは動けなかった。足が根を張ったように、一歩も動けない。言葉が、出なかった。


(俺の、名だ。この人たちが、俺の名を)


 やっと、震える声が絞り出された。


「カイ。……私の名は、カイです」


 繰り返すように言って、カイは深く頭を下げた。


 それ以上の言葉は、なかった。


 背を向けて、峠へ続く道を歩き出す。振り返らなかった。振り返ったら、歩けなくなる気がした。


* * *


 夜、峠道の途中で、カイは足を止めた。


 振り返ると、遠くに村の灯台の光が見えた。規則正しい明滅。あの灯は今、ウミが守っている。


 暗闇が、見えすぎた。


 足元の石の角、波の形、沖の船の位置、遠くの灯の明滅の周期まで、昼のように読み取れる。試しに目を閉じても、明滅の間隔だけは数えられた。腕の刻印は、もう消えている。なのに、夜目と、灯への感覚だけが、体に残っていた。


(灯台守の、痕)


 便利な目だった。これからの旅で、どれだけ役に立つか分からない。だが、もう俺の灯ではない。なのに、目が勝手にあの灯を追う。それが、嬉しくて、寂しかった。


 カイは峠の向こうに目を向けた。


 次の集落があるはずの闇の中に、灯が、点いていなかった。


 家々の明かりも、何も。集落全体が、闇に沈んでいる気配だけがあった。


「……まあ、座るだけなら」


 小さく呟いて、カイは峠を下り始めた。


 背中で、村の灯が静かに明滅していた。

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