第26話 カイ
翌日の夕暮れ、灯室に両当直が揃った。
交替の作法は静かだ。ランプ、レンズ、分銅、日誌。異常のないことを、一つずつ声に出して確かめ合う。ツギとゴヘイが、審査の立ち会いとして壁際に立っていた。
「油、八分。分銅、残り三目盛り。レンズ、曇りなし。日誌、昨夜分まで済み」
ウミの声は、震えていなかった。
「今夜一晩、ウミが灯を務める」
ゴヘイが言った。
「代行は、手を出すな。隣で見届けるだけだ」
「はい。見届けさせていただきます」
カイは灯室の隅に下がった。
ウミはランプの周りを1周して、手順を確認した。芯、油、レンズ、分銅。カイがいつもやるのと同じ順序で、だが、彼女自身の手つきで。
火打ち石を持つ手が、一瞬だけ止まった。カイの手が動きかけて、止まる。手を出さないことが、今夜の自分の務めだった。
火打ち石が鳴った。芯に火が点り、回転が始まる。明滅は乱れなかった。
夜半、分銅の巻き上げの時刻が来た。ウミは一人で石段を往復し、規則正しい明滅を保ち続けた。合間に日誌を開き、分単位で記録を書き足していく。カイの手は、膝の上で動かなかった。
夜明け前、消灯。日誌にはウミの字で一晩の記録が整っていた。
ゴヘイは日誌を最後まで読んで、頷いた。
「一晩、乱れなし。審査は、済んだ」
* * *
朝、改めて灯室に人が集まった。
ゴヘイ、ツギ、ゲンタ。そして、カイ。
「ウミ。お前は、この灯台の席に座る」
ゴヘイの声に、ウミは深く頷いて、灯台守の椅子の前に立った。
もう一度、ランプを1周する。それから、ゆっくりと腰を下ろした。
その瞬間、ランプの光がふわりと揺れた。ウミの首筋に、かすかな光が走り、刻印の紋が定まる。
「着席が、成立した」
ツギが静かに言った。
ツギは席帳を開き、ウミの名を書き入れた。新しい持ち主の名が、席の記録に定まる。
ゲンタが、扉の脇で小さく息を呑んだ。冬の間、誰も座れなかった椅子に、人が座っている。それだけで、灯室の空気が変わって見えた。
ウミは、黙ってランプを見つめていた。やがて、小さく呟いた。
「おじいちゃん。あたし、ここに座ったよ」
それは、誰に言うでもない言葉だった。自分に言い聞かせるように、彼女はもう一度、椅子の肘掛けを握り直した。
カイは腕に目を落とした。冬の間ずっと閉じきらなかった仮の刻印の輪が、すっと薄れ、消えていく。
(これで、私の役目は終わった。この席は、あの子の席だ)
灯台を下り、村役場の前を通りかかると、カイの足が止まった。
席紋板。裏返しのままだった灯台の紋が、元に戻っている。
「戻ったよ」
ツギが、隣で言った。
「あの席は、もう空いてない」
* * *
昼、浜に出ると、村人たちが集まっていた。
男たちも、女たちも、子供たちも、老人たちも。村の全員が、見送りに出ていた。
「あんた、行くのかい」
ツギが、先頭に立って言った。
「はい。お世話になりました」
カイは荷物を置いて、深く頭を下げようとした。
「……カイ」
ツギの声が、浜の空気を変えた。
カイの体が、確かに止まった。
「席帳には、ちゃんと残ってるんだよ。あんたが座った日の、あんたの名が。あんたは、名乗らなかったけどね」
ツギは、カイの目をまっすぐに見た。
「あんたは、灯台守さんでも、旅人でもなく、カイとしてここにいた。だから、この村はあんたを、カイと呼んで見送る」
村人たちの声が、重なった。
「カイ! ありがとうよ!」
デンジの声。
「カイ! 元気でな!」
ゲンタの声。
「カイ! あんたの灯で、冬を越せたよ!」
チヨの声。
「カイ、また来いよ!」
子供たちの声。そして、その中に混じって。
「カイ。……達者でな」
リュウゾウの声だった。
席の名でも、代行者でもない。ただ、彼の名を、村の全員が呼んでいた。
カイは動けなかった。足が根を張ったように、一歩も動けない。言葉が、出なかった。
(俺の、名だ。この人たちが、俺の名を)
やっと、震える声が絞り出された。
「カイ。……私の名は、カイです」
繰り返すように言って、カイは深く頭を下げた。
それ以上の言葉は、なかった。
背を向けて、峠へ続く道を歩き出す。振り返らなかった。振り返ったら、歩けなくなる気がした。
* * *
夜、峠道の途中で、カイは足を止めた。
振り返ると、遠くに村の灯台の光が見えた。規則正しい明滅。あの灯は今、ウミが守っている。
暗闇が、見えすぎた。
足元の石の角、波の形、沖の船の位置、遠くの灯の明滅の周期まで、昼のように読み取れる。試しに目を閉じても、明滅の間隔だけは数えられた。腕の刻印は、もう消えている。なのに、夜目と、灯への感覚だけが、体に残っていた。
(灯台守の、痕)
便利な目だった。これからの旅で、どれだけ役に立つか分からない。だが、もう俺の灯ではない。なのに、目が勝手にあの灯を追う。それが、嬉しくて、寂しかった。
カイは峠の向こうに目を向けた。
次の集落があるはずの闇の中に、灯が、点いていなかった。
家々の明かりも、何も。集落全体が、闇に沈んでいる気配だけがあった。
「……まあ、座るだけなら」
小さく呟いて、カイは峠を下り始めた。
背中で、村の灯が静かに明滅していた。




