第30話 水門の声
翌日も、カイは朝の鐘を打ち、昼の鐘を打った。手順は、もう体に馴染んでいる。誰にも教わっていないのに、すべてが自然にできる。
だが、昨夜からカイの中に妙な感覚が残っていた。
水門の音。人の声。濡れた石の感触。夢の中のようでもあり、昼間ふと蘇るようでもある。鐘を打つ手を止めて水門の方を見たときに、その感触が強くなった。指先が冷たい石に触れているような気がする。耳の奥で、水が流れる音がする。そして、人の声。言葉にはならない。誰かが何かを叫んでいるような、響きだけ。
(鐘の鳴らなかった夜の、かけらだ)
それは自分の記憶ではない。席に座ったことで流れ込んできた、カンジの夜のかけらだ。
(記憶の混線、か)
灯台の席でも、同じことがあった。だが、あれはジンペイの癖や手順という「所作」だった。今回は違う。音と、感触と、声の響きが、自分の記憶のように感じられる。
(これは、まずい)
カイは、額の汗を拭った。自分の記憶と、他人の記憶の境目が、曖昧になっていく。
(落ち着け。断片は、断片だ。それだけで、全体は分からない)
水の行き違いが起きたことは、昨日の村人の話で分かった。番水の交替がずれて、ゴロウとヤスジの田に水が回らなかった。だが、その夜、水門で何があったのか。誰がそこにいたのか。断片だけでは分からない。
(記録と、証言だ)
カイは、そう決めた。断片に頼らず、残された記録と、生きている人の言葉を突き合わせる。
* * *
翌日の昼、カイは水門のそばでヤスジと会った。ゴロウの隣の田を持つ、あの夜水が回らなかったもう一軒の当事者だ。
「ヤスジさん。あの夜のことを、聞かせてもらえますか」
「あの夜? ああ、カンジが去った夜か」
ヤスジは、田の水を見ながら言った。
「俺はあの夜、家にいた。鐘が鳴らなかったから、水門の交替が分からなくて、困ったよ」
「水門には、行かなかったんですか」
「行かなかった。鐘が鳴らないのに、水門に行っても仕方ないと思ってな」
カイは、ヤスジの声を聞いた。
(この声だ)
カイの背筋が、ぞくりとした。断片の中の声と、ヤスジの声の響きが似ている。低く、少し掠れた声。水門の音と一緒に、耳に残っていた声だ。
(ヤスジさんが、あの夜、水門にいたのか)
カイは、思わず言った。
「ヤスジさん、あの夜、水門にいましたね」
ヤスジの顔が、強張った。
「何を言う。俺は、行ってないと言っただろう」
「でも、声が」
「声? 何の話だ」
ヤスジの声が、険しくなった。周りにいた村人たちも、二人を見ている。
(しまった)
証拠も、記録もない。声の響きが似ている気がしただけだ。
「……すみません。今のは、忘れてください」
カイは、慌てて頭を下げた。
「私の勘違いです」
ヤスジは、しばらくカイを睨んでいたが、やがて、ため息をついて田に戻っていった。
(断片を、真実だと思い込んだ)
カイは、自分に言い聞かせた。断片は手がかりにはなる。だが、それだけで人を決めつけてはいけない。
* * *
「トメさん、すみません。私の勘違いでした」
カイは、トメの家で深く頭を下げた。
「あの声は、ヤスジさんじゃありませんでした。私が、断片を勝手に解釈したんです」
トメは、静かにカイを見た。
「そうか」
「申し訳ありません」
「謝るのは、わしじゃない。ヤスジに謝りな」
「はい」
カイは、ヤスジの家へ行き、深く頭を下げた。ヤスジは、驚いた顔をして、それから困ったように笑った。
「いや、いいんだ。あんたが謝りに来てくれるなんて。あの夜のことは、皆、よく覚えてないんだ。あんたが気にすることじゃない」
「でも、間違ったことを言ってしまいました。すみません」
カイは、もう一度頭を下げた。
* * *
その後、カイは改めて記録と証言を集め始めた。まず、トメの家で鐘番の記録を見せてもらう。
「トメさん。鐘番の記録を見せてください。あの夜の前後の、番水の記録です」
「あるよ」
トメは、棚から古い帳面を取り出した。鐘番の記録。水門の開閉、番水の交替、田の配分が、日付と時刻と担当者の名で記録されている。カイは帳面をめくった。カンジが去った夜の記録には、こう書かれていた。
「夕の鐘、通常通り。水門、第一から第二へ交替。番水、ゴロウの田へ」
(通常通り、か)
記録の上では、何も起きていない。だが、実際には水が回らなかった田がある。ゴロウの田と、ヤスジの田だ。
「トメさん。この記録の『通常通り』は、誰が書いたんですか」
「カンジだよ」
「カンジが、自分で」
「そうだ。鐘番が、自分の仕事を記録する。それが、この村のやり方だ」
「あの夜、実際に水門を操作したのは、誰だったんでしょう」
「記録では、カンジだ。だが、実際に水が回らなかった田があるなら、話は別だ」
トメは、静かに言った。
「証言を、集めるしかないね」
* * *
カイは、村の寄り合い所で、当時の番水の担当だった男たちに話を聞いた。
一人の男は、こう言った。
「あの夜は、鐘が鳴らなかった。それだけは、覚えてる。鐘が鳴らないから、水門の交替が分からなかった」
「水門には、誰かいましたか」
「分からん。暗かったし、鐘が鳴らないから、皆、家から出てこなかった」
別の男は、水門まで見に行ったという。
「俺は、水が来ないから、水門まで見に行った。だが、着いた時にはもう誰もいなかった。水門は、半分だけ開いてた」
「半分」
「そうだ。第一の水門が閉まりきらず、第二の水門も開ききってない。だから、どっちの田にも水が十分に回らなかった」
カイが声のことを聞くと、男は首を振った。声は聞いていない。水の音がいつもと違った、それだけだという。
別の男にも、声を聞いた者はいないかと尋ねた。
「さあ。ゴロウなら、何か知ってるかもしれん。あの若者はあの夜、自分の田に水が来ないからって、ずいぶん騒いでた」
カイは、ゴロウを探した。ゴロウは、田の隅で鍬を振るっていた。
「ゴロウさん。あの夜のこと、聞かせてもらえますか」
「あの夜?」
ゴロウは、鍬を止めてカイを見た。
「カンジが去った夜です。あなたの田に、水が回らなかった夜」
ゴロウの顔が、少し強張った。
「ああ、あの夜か。俺と、もう一軒、ヤスジの田に水が来なかった。番水の交替がずれたせいだって、後で聞いた」
「その夜、あなたは水門に行きましたか」
「行ったよ。水が来ないから、様子を見に行った」
「その時、誰かいましたか」
ゴロウは、しばらく黙っていた。
「……いなかった。誰も」
「声は」
「聞いてない」
ゴロウは、そう言って、また鍬を振り始めた。だが、その手つきが、どこかぎこちない。カイは、それ以上聞かなかった。
(何か、隠している。いや、言えないことがあるのか)
カイは、寄り合い所に戻り、もう一度、記録と証言を突き合わせた。水門が半分だけ開き、交替が途中で止まった。鐘が鳴らなかったから、誰も正確な刻が分からず、二軒の田に水が回らなかった。そこまでは辿り着ける。だが、水門で何があったのかは、まだ分からない。
カイは、内側の断片を思い出した。水門の音。人の声。濡れた石の感触。
(あの声は、誰だったんだ)
その時、背後から声がした。
「カンジ」
振り返ると、ゴロウが立っていた。鍬を置いて、追いかけてきたのだ。
「あんたに、言わなきゃいけないことがある」
ゴロウの顔は真剣だった。
「あの夜、水門で声を聞いた」
カイは、息を呑んだ。
「俺、あの夜、水門で、誰かの声を聞いたんだ」




