第23話 席ってのは、そういうもんだ
嵐が去った朝、村は静かだった。
空は青く澄み、海はまだ白い波を立てている。だが、風はもう唸っていない。浜には流れ着いた海藻や木片が散らばり、港では何艘かの小舟が斜めに傾いていた。
カイは夜明けの消灯を終えて灯台を下りると、まず灯台の基部を確認した。石垣に崩れはないか。扉に歪みはないか。分銅室に浸水はないか。一通り見て回る。幸い、大きな損傷はなかった。
「灯台守さん、浜の被害を見てくれ」
デンジが駆け寄ってきた。
「小舟が2艘、舫いが切れて流された。1艘は見つかったが、もう1艘は防波堤にぶつかって舷が割れてる。直せるか見てほしい」
「分かりました。でも、まずは港全体の確認を」
カイはデンジと一緒に浜へ出た。村人たちが散らばって、流れ着いたものを片付けている。女たちは浜に上がった海藻を集め、子供たちは木片を運んでいる。
「番屋の屋根が少し剥がれた」
「倉庫の戸が外れてる」
「網が1張り、流された」
被害はあちこちにあった。だが、致命傷はない。カイは村人たちと一緒に、壊れたものを直していった。倉庫の戸を直し、番屋の屋根を応急で塞ぎ、浜の漂流物を片付ける。
「あの夜、あんたの灯があったから、皆落ち着いて動けた」
デンジが、カイの隣で言った。
「主灯が消えた時は、どうなるかと思った。だが、予備灯の明滅がすぐに続いた。あれで、浜の連中も慌てずに済んだんだ」
「ゲンタがよく補助をやりました。私一人では、あの夜は越えられなかったと思います」
カイは、そう言って港の方を見た。ゲンタは倉庫の前で、壊れた戸を抱えて四苦八苦している。その顔にはまだ疲れが残っているが、昨日までよりずっとしっかりしている。
「あの若者、変わったな」
デンジがしみじみと言った。
「夜の海が怖いのは、変わらん。だが、怖さから目を逸らさなくなった。えらいこった」
カイは静かに頷いた。
* * *
午後、番屋で寄り合いが開かれた。
嵐の夜の被害報告と復旧の確認。そして、カイが残した分単位の当直記録が、村の男たちの前で読み上げられた。
「灯台の当直記録だ。旅人が、あの夜の灯台の様子をすべて記録している」
ゴヘイが、記録用紙の束を手に立った。
「夕刻、主灯が風の圧力で不安定になる。19時22分、予備灯に切り替え。主灯の明滅の周期を維持。以後、分銅の巻き上げを45分ごとに実施」
ゴヘイの声が番屋に響く。
「夜半、入り江で小舟の漂流を確認。灯台守は灯室に留まり、窓からの指示と明滅で浜の小舟を誘導。ゲンタ、分銅の巻き上げと記録の補助を継続。未明、救助完了。以後も明滅の周期を変えず、予備灯を維持」
男たちは黙って聞いていた。その記録の細かさに、誰もが息を呑んでいる。
「明け方4時30分、風が弱まる。予備灯から主灯への切り替え準備を開始。5時12分、主灯を再点灯。以後、通常の明滅に復帰」
ゴヘイは用紙を机の上に置いた。
「これが、あの夜、灯台で行われていたことのすべてだ。何時に何をして、どう灯を守ったか。すべて書いてある」
「すげえ。まるで、船乗りの航海日誌だ」
「ここまで細かく書けるもんかね。嵐の最中に」
「あんた、一人でこれ全部やったのか」
「いえ、ゲンタが補助を。分銅の巻き上げも、記録の補助も、あの若者がやりました」
カイは静かに言った。
「私一人では、あの夜は越えられなかった。ゲンタの力と記録があって、灯を守れたんです」
ゲンタは番屋の隅で小さくなっていた。男たちの視線が集まり、顔を赤くしている。
「ゲンタ。よくやった」
リュウゾウが、ぽつりと言った。
「お前が、あの夜、灯台にいたから、灯は消えなかった。俺はお前に無理を言った。だが、お前は逃げなかった」
「叔父貴……」
「後継の話は、まだ早い。だが、お前が灯台の仕事を続けることを、俺は誇りに思う」
ゲンタは涙をこらえて、深く頭を下げた。
* * *
寄り合いの後、カイは番屋の外でツギと会った。
「あんた、また無茶をしたね」
ツギが、カイの顔を見て言った。
「あの嵐の中で、予備灯に切り替えて明滅を維持して、分単位の記録まで残す。普通の代行がやることじゃない」
「やるべきことを、やっただけです」
「そういうのを、無茶って言うんだよ」
ツギは呆れたように笑った。
カイは、その「あんた」という呼び方に、妙に救われる自分がいた。
(村人は、俺を「灯台守さん」と呼ぶ。それは敬意であり、信頼だ。でも、どこか距離がある。ツギさんの「あんた」は、もっと近い。俺を旅人として扱い、それでいて放り出さない。その呼び方に、俺は救われている)
「どうした。ぼんやりして」
「いえ。ツギさんに、あんたと呼ばれると、少し楽になるんです」
「何だい、気持ち悪いことを言うね」
ツギは、ふんと鼻を鳴らした。
「あんたは、あんただ。灯台守さんでも、代行でも、ただの旅人でもない。あたしにとっては、小屋の居候で、薪を割るのが妙に上手い若い衆だ。それで十分だよ」
カイは小さく笑った。
「そうですね。それで十分です」
* * *
夕方、カイは灯台に上がり、点灯の準備に取りかかった。
ランプの周りを1周して、覆いの状態、芯の長さ、油の量、火打ち石の位置を確認する。この癖は、もう完全に体に染みついている。
「あんた、その1周には何の意味があるんだい」
ツギが、灯室の入り口で聞いた。
「なんとなくです。核の周りを回ると、手順が頭に入る。確認しないと、落ち着かないんです」
「ふうん。あんたは、なぜその手順で灯を守れたんだ」
ツギの声が、少しだけ低くなった。
「嵐の夜の予備灯への切り替えも、明滅の維持も、分銅の巻き上げの間隔も。あんたは、なぜそれを迷わずにやれた」
カイは、しばらく考えてから答えた。
「先代の日誌に、書いてありました。嵐の夜の手順も、非常時の記録の取り方も。それを読んで、自分なりに整理して頭に入れていた。だから、迷わずに動けたんです」
「そうか」
ツギは、それ以上追及しなかった。
「座った者に、知恵をくれるのが席だ。あんたが読んだ日誌も、あの席が繋いだ知恵の一部だよ。あんたは、それを自分のものにした。それでいい」
カイは、黙って頷いた。
「席ってのは、そういうもんだ」




