第22話 周期を守る
嵐は、翌日の夕方から本格化した。
風が唸りを上げて海を叩き、波が防波堤を越えて白く砕ける。空は鉛色に沈み、雨が横殴りに降りつける。
灯室で、カイはランプを見つめていた。風の圧力で主灯の炎が不規則に揺れている。
「主灯が持ちません。予備灯に切り替えます。ゲンタ、記録をお願いします」
「はい」
ゲンタは記録用紙を手に、ペンを握った。顔は青ざめている。だが逃げていない。手が震えながらも、ペンを紙に当てている。
カイは主灯を静かに消し、予備灯に火を点した。小さな炎が灯室の中で確かに光る。回転装置に予備灯を据え付け、明滅の間合いを主灯と同じに整える。
「周期は維持します。間合いは、凪の夜と同じです」
ゲンタが記録を書く。手が震えて、字が乱れる。
「大丈夫です。書ける範囲で構いません。書けない時は、時刻だけでも残してください」
「いえ、書きます。俺がやるって決めたんで」
ゲンタはペンを握り直した。
「灯台守さん、分銅の巻き上げはどうします」
「嵐の夜は1時間ごとです。風の負荷で回転が重くなります。間隔を短くしないと、明滅が遅れます」
カイが分銅室へ向かおうとした、その時だった。灯室の入り口に人影が現れた。リュウゾウだった。雨に濡れ、風に煽られながら、灯台に上がってきたのだ。
「旅人! ゲンタを、灯の番の椅子に座らせろ!」
リュウゾウが叫ぶように言った。
「この嵐の中で席に座って灯を守れば、あの子は一人前になれる。後継者としての資格を、この夜に証明できる!」
「今、この嵐の最中にですか」
「今だ。嵐の夜こそ、灯台守の真価が問われる。ゲンタを座らせて、灯を守らせろ。あの子がこの夜を越えれば、村も認める」
リュウゾウの目は血走っていた。村のため、甥のため、自分の焦りを嵐に重ねている。
「ゲンタ、どうします」
「俺、やります」
ゲンタが立ち上がった。顔は青い。だが目に決意があった。
「座って、灯を守ります。叔父貴の期待に応えたい」
「よし。座れ」
リュウゾウがゲンタの背を押した。
ゲンタは灯台守の椅子に腰を下ろした。その瞬間、彼の体が強張った。夜の嵐がガラス窓の向こうで叫んでいる。予備灯の光が、彼の恐怖を映し出すように揺れている。
「どうした。灯を見ろ。明滅を維持するんだ」
リュウゾウが叫んだ。
「分銅の、巻き上げの間隔が……」
ゲンタの声が震えている。
「嵐の夜は1時間ごとだ。でも風が強すぎて、回転が遅れてる。いつ巻き上げればいいのか、今どのくらい回したのか、記録と頭の中で、ぐちゃぐちゃで」
ゲンタは椅子の上で硬直した。手が動かない。目がランプと窓の外の闇を交互に見ている。夜の海が怖い。嵐が怖い。そして何より、自分が灯を守れないことが怖い。
「ゲンタ、立ってください」
カイが静かに言った。
「責めているのではありません。今のあなたに、この椅子はまだ早い。嵐の夜の非常手順は、私がやります。あなたは補助をお願いします」
「でも、俺、座ったのに」
「座っただけでは、灯は守れません。灯を守るのは手順です。知らない手順のまま座り続けるのは、危険です」
カイはゲンタを椅子から立たせた。
「分銅の巻き上げの補助を頼みます。ハンドルを回す力が必要です。記録の補助もです。字が乱れても構いません。時刻だけでも書いてください。それが、今のあなたの仕事です」
ゲンタは唇を噛んで頷いた。目が潤んでいる。だが、泣かなかった。
「リュウゾウさん。ゲンタは、今夜は私が預かります。この夜を越えるための補助としてです。後継の話は、夜が明けてからにしましょう」
リュウゾウは、カイの静かな声に、それ以上言葉を重ねられなかった。
「……頼む。あの子を頼む」
リュウゾウは深く頭を下げて灯室を出ていった。
* * *
分銅室で、カイとゲンタはハンドルを回し続けた。
風が塔を叩くたびに、シャフトが軋む。風が強まった時は、間隔はもっと短い。
「次は45分後です。風が強すぎます。回転機構の負荷が増しています」
「45分、ですね。記録します」
ゲンタは震える手で記録用紙に時刻を書いた。字は乱れている。だが、書いている。
「灯台守さん、夜の海が怖いです」
ゲンタがぽつりと言った。
「今、すごく怖い。窓の外が真っ暗で、波の音が大きくて、足が震える」
「それでいいんです。怖いまま、手を動かしてください。怖さは消えなくていい。怖さと一緒に、ハンドルを回してください。それが、夜の海と向き合うということです」
ゲンタは黙ってハンドルを回した。涙が一筋、頬を伝った。だが手は止まらなかった。
* * *
夜半過ぎ。カイは灯室で予備灯の明滅を維持していた。
明滅の周期は凪の夜と同じ間合い。主灯が消えても、予備灯が同じ光の形を保っている。
その時、浜の方から叫び声が聞こえた。カイは窓の外を見た。入り江の中で、小さな船が流されている。嵐の中で舫いが切れたのだ。船の上に人がいる。浜では、男たちが小舟を出そうとしていた。
カイは窓を開けた。
「沖へは出ないでください! 入り江の中だけです! 灯の明滅を頼りに、流された船を引き寄せてください!」
(私は、灯を空けられない。この灯が消えれば、入り江の小舟も、沖の船も、道を見失う)
「ゲンタ。私は窓から浜へ声を届けます。あなたはここで、分銅と記録を続けてください。次の巻き上げは45分後です。周期は、絶対に変えないでください」
「俺、一人で、ですか」
「さっきまで一緒にやってきた手順です。怖くても、手は動きます。お願いします」
浜ではデンジたちが小舟を出した。カイは窓から声を張り上げ、灯が入り江を照らすたびに、流された船の位置を叫んだ。
「防波堤の近くです! 転覆した小舟に、人がしがみついています!」
小舟は嵐の入り江の中で揺れながら進んだ。沖へは出ない。明滅を頼りに、流された船へ近づいていく。
やがて、助け上げた男を乗せた小舟が浜へ戻ってきた。
カイは窓を閉め、予備灯の前に戻った。明滅は、一度も乱れていない。
* * *
嵐が弱まり、夜明けが近づいていた。
ゲンタは分銅室から上がってきた。顔は疲れ切っているが、目は開いている。
「明滅、守りました。巻き上げも45分ごとにやりました」
「記録は」
「書きました。字は、ぐちゃぐちゃですけど」
ゲンタは記録用紙を差し出した。乱れた字で、時刻と作業が書かれている。
「これでいいんです。あなたは、この夜を越えました」
「あんたのおかげです。俺、怖かったけど、やれました」
「あなたがやったんです。誇っていい」
カイは予備灯を主灯に戻す準備を始めた。ランプの周りを1周して、手順を確認する。
(先代の手順を、自分の判断として選んだ。予備灯への切り替えも、明滅の維持も、分単位の記録も。どれも、あの人の日誌に書かれていたことだ。だが今夜の俺は、それを思い出したのではない。場面ごとに、判断として選び取っていた)
火打ち石を手に取る。その手が、かすかに震えている。
(自分の手のはずなのに。この手は、誰の手だ)
指先が寒気で冷えている。嵐の緊張のせいだけではない。この手が、知らないはずの手順を迷いなく選び取っていく。
カイは首を振り、深く息を吐いて、ランプの前に立った。
「主灯に、戻します」
火打ち石を打つ。火花が散り、主灯に火が点った。
大きな光が回転を始める。明滅の間合いは、嵐の前と同じだった。
カイは回っていく光を見上げた。その光の下で、自分の手だけが、まだ冷えていた。




