第21話 出すな
三月下旬の海は、夕方になると不気味なほど静かになった。
波が引くように穏やかになり、空の色が薄紫に濁る。遠くの水平線が、いつもよりくっきりと見える。凪の前の海は美しい。だが、海で生きる者たちは知っていた。この静けさが、嵐の前触れだということを。
リュウゾウの家の台所で、チヨが窓の外を見つめていた。
「出すな」
チヨが、ぽつりと言った。
「明日は海に出るな。いや、明後日もだ。大きなのが来る」
リュウゾウは囲炉裏の前で酒を舐めていた。その手が止まる。
「大きなのが来るだと。今日の海はあれほど穏やかだ。問屋との契約も動き出したところだ。この時期に休んでいられるか」
「あの穏やかさが危ないの」
チヨは振り返らずに言った。
「空が、海の底を舐めるように低くなってる。雲の流れが、二日前から逆巻いてる。風が生ぬるい。全部、大きな嵐の前の顔だ」
「日和見の読みが外れたことは、あるか」
「ある。でも、外れて笑い話で済む読みと、外れたら人が死ぬ読みは違う。今日のは、死ぬほうだ」
「だが、チヨ。村の事情も考えてくれ。冬の間、あれだけ止まっていたんだ。今、獲れる時に獲っておかなければ、春の大市に間に合わん。若い衆の暮らしにも関わる」
「命あっての暮らしだ」
チヨは初めてリュウゾウを振り返った。その目は静かで、鋭かった。
「あんたは網元として、村の稼ぎを考える。それは分かってる。でも、あたしは日和見として、命を守る。漁のための読みじゃない。命のための読みをしてる」
「出なければ、村がまた止まる。問屋の手代は、記録で信用が戻ったと言った。だが、実績が伴わなければ、契約はまた揺らぐ」
「信用は、生きてる者が作るものだ。死んだら何も残らない」
チヨの声は低く、しかし有無を言わせないものがあった。
「あんたがどう言っても、あたしは明日は出すなと言う。それを聞くか聞かないかは、あんたの判断だ」
リュウゾウはぐっと黙り込んだ。夫婦の間に重い沈黙が落ちる。囲炉裏の火が爆ぜて、小さな火花が散った。
「……分かった。明日の出漁は見合わせる」
リュウゾウは絞り出すように言った。
「だが、明後日は出るぞ。嵐が過ぎれば魚が浮く。その時に船を出せなければ、村は春を越えられん」
「明後日は、海が落ちる。でもすぐには出ない。濁りが取れるのを待つ。それが、あたしの読みだ」
チヨはそう言って、また窓の外を見た。空はますます低く、暗くなっていた。
その夜、村の船は一艘も出なかった。浜に引き上げられた船の影だけが、暗い空の下に並んでいた。
* * *
同じ夜、カイは灯室で非常手順を確認していた。
灯室の棚には予備灯が収められている。主灯が消えた時に使う小型のランプだ。灯台守が嵐の夜に最も恐れるのは、主灯の消灯だった。あの大きな光が消えれば、沖の船は方角を失う。予備灯は、そのための保険だった。
カイはランプの周りを1周してから、予備灯を取り出した。ガラスの覆いを外し、芯の状態を確認する。油を足し、火打ち石の位置を確かめる。
(予備灯に替える時も、主灯の明滅の周期は変えない。同じ間合いで光を回す。灯の「形」を守ることが、船を守る)
机に向かい、灯台日誌とは別の記録用紙を整える。嵐の夜の記録は分単位で書く。点灯の時刻、明滅の間合い、分銅の巻き上げの間隔、風向きの変化、波の音の高さ。何が起きても書けるように、用紙を重ねて石で押さえた。
(分銅の巻き上げは、普段は2時間おき。だが嵐の夜は短くなる。風が強いと回転機構に負荷がかかる。1時間ごと。もっと強まれば、45分)
間隔の組み立ては、頭の中で迷いなく決まった。カイは分銅室に下りて、ハンドルの状態を確認する。今夜はまだ凪だ。だが明日の夜は違う。歯車が風の負荷に耐えられるか、巻き上げが間に合うか。すべてを頭に入れた。明日の点灯は、日暮れを待たずに早める。沖の船が、嵐の入り口で灯を頼るからだ。
壁の気圧計に目をやる。針は昨日よりはっきりと下がっていた。カイは記録用紙の頭に、今の針の位置と時刻を書き付けた。嵐が来れば、針がどこまで落ちるかが、手順を繰り上げる合図になる。
「あんた、まだ起きてたのか」
ツギが灯室の入り口に立っていた。
「明日の嵐に備えて、手順を確認していました」
「チヨが、出すなと言ったそうだ。大きなのが来る。あんたも覚悟しておきな」
「はい。灯は守ります」
「ジンペイも、こういう夜は、手順を全部並べてから寝たもんだ。あんたの手つきを見てると、思い出すよ」
ツギはそれだけ聞くと、頷いて下りていった。
カイは窓の外を見た。夜の海は嘘のように静かだ。星が異様に明るい。だが、その瞬きが何かを告げている。
(来るな。大きなのが)
カイはもう一度、気圧計の針と、組み終えた手順の用紙を見比べた。
針は下がり続けている。手順に、抜けはない。予備灯、周期、巻き上げの間隔、記録の割り振り。考えるより先に、手が全部を並べ終えていた。
その迷いのなさに、カイはかすかに首を傾げた。だが確かめる間もなく、遠くで風の音が変わった。




