第九章 来年は
数学の問題集を開いたまま、私は夏休みの予定表を見ていた。
県大会、ホール練習、全体合奏。鉛筆で囲まれた日付の間に、学校説明会という文字がある。私の予定ではない。利香先輩が、日曜日は少し遅くなるね、と教えてくれただけの日だ。
先輩がどこへ行くのか知りたいと思っていた。
知ったら、今度は知らなかったときへ戻りたくなる。
問題集の同じ行を三度読んでから、私は携帯へ手を伸ばした。
『明日も、朝からいらっしゃいますか』
文を打つ。予定は、今日聞いたばかりだった。
消して、画面を伏せる。
机の上には、楽譜も広がっている。「雪の川」の入りに、自分で書いた丸が三つあった。大きく書き直すたび、肝心の音符が見にくくなっていく。
眠る前に何をしていたかと聞かれたら、勉強と練習、と答えられる格好だった。
どちらも、ほとんど進まなかった。
翌朝は教科書を忘れ、昼休みには買ったパンを机へ置いたまま立ち上がった。
「ひかり、食べないの」
香帆に呼び止められても、どこへ行くつもりだったか答えられない。音楽室か、三年生の教室か。戻って座ると、彼女は向かいで弁当を開いた。
「寝てる?」
「昨日は、少し遅く」
箸が止まる。
「合奏だけが忙しいんじゃないなら、誰かに言いなよ」
今ここで話して、とは言われなかったので、パンの袋を開けられた。
「ありがとう」
「うん。まず食べて」
放課後の合奏で、利香先輩はいつもと同じように私の左側へ座った。
先輩が譜面へ書き込む間も、陽菜へ説明する間も、つい目で追ってしまう。声を掛けてもらえない時間まで長く感じるのだから、我ながら困っていた。
課題曲を吹き始める直前、私はリードの先を見つめていた。
出だしが遅れた。
すぐに入ったので、曲は止まらない。でも隣の陽菜には分かったらしく、休憩になった途端、こちらへ身体を向けてきた。
「具合、悪いですか」
「ううん。少し眠くて」
笑ってごまかそうとしても、陽菜の顔は緩まなかった。
「先輩、昨日から、ずっと別のところにいるみたいです」
私は利香先輩を見る。
クラリネットの列へ楽譜を届けに行っていて、今はここにいない。
陽菜もそちらを見る。そのあと、私へ戻ってきた目が少し細くなる。
「……利香先輩と、何かあったんですか」
「何もないよ」
喧嘩も、約束を破られたこともない。何も起きていないのに苦しいと、どう話せばいいのだろう。
陽菜はしばらく待ってから、自分の椅子を引き寄せる。近すぎると言いかけるより先に、私の手元の譜面を覗いた。
「ここの丸、消していいですか」
「どうして?」
「音符、見えなくなってるので」
私は鉛筆を渡した。
陽菜は丸を二つだけ消し、残った一つの脇へ、息、と小さく書く。
「ここだけ、覚えておけばいいと思います」
字は強くて、少し右上がりだった。
上手に吹いてくださいとも、元気を出してくださいとも言われなかったので、私はようやく頷けた。
自由曲でも「雪の川」の息が続かなかった。
きれいに吹かなければ。私が失敗したせいで先輩の夏が終わったら、どうしよう。考えるほど、昨日は歌えた旋律まで狭くなっていく。
先生は最後まで聴き、指揮棒を下ろした。
「今日は、ここを繰り返すのはやめましょう」
「すみません」
「謝る話ではありません。同じやり方で続けても、苦しくなるだけだと思う」
次の指示へ移る声を聞きながら、楽器を膝へ下ろす。利香先輩に見られても、大丈夫な顔を作る余裕はもうなかった。
合奏のあと、聡美先輩に残るよう言われた。
叱られるのかと思ったけれど、聞かれたのは、眠れているか、だった。
「寝ようとは、してます」
答えると、聡美先輩は責めずに頷いた。向かいへ座った海香先輩が、お茶と水、どっち、と尋ねる。
「水筒、あります」
「そう。じゃあ私はお茶」
自分が飲みたかったらしい。蓋を閉めた部長は、私を見て、いつもより静かに続けた。
「最後って言葉、私、今日も使った?」
思わず顔を上げると、部長は困ったように笑った。
「三年生、最近よく言うから。自分たちを頑張らせるつもりで、何にでもつけちゃうんだよね。でも、私たち、明日も来るよ。日曜日は模試で遅れる人もいるけど、辞めたわけじゃないからね」
私は膝のケースへ目を落とす。
何も言っていないのに、どこまで分かっているのだろう。
「先輩たちに、いい思いをしてほしくて」
やっとそれだけ言えた。
海香先輩が、うん、と頷く。
「でも、そればかり考えてたら、私、何もできなくなって」
「いい思い、させてもらってるよ」
返事が早くて、私は顔を上げた。
「朝、後輩が来て挨拶してくれるだけでも。私が変なことを言ったら、聡美が止めてくれるのも」
「それは仕事を増やされてるの」
「ほら、こういうの」
先輩たちが笑う。
私は笑おうとして、うまくできなかった。
聡美先輩が、その顔を見て言った。
「本当に話したい相手がいるなら、私たちに上手く説明するより、そちらへ話してみたら」
私は水筒から手を離し、頷いた。
昇降口で、利香先輩が待っていた。
壁にもたれず、鞄を持って立っている。私を見つけると、片手を上げた。
「一緒に帰ろう」
「待ってたんですか」
「うん。ひかりを」
誰を、と聞いたわけではないのに、そこまで言ってくれた。
靴を履き替える間、先輩は急かさない。私が立ち上がると、先に扉を押してくれる。
外へ出るだけで、まだ暑い。
私は先輩の半歩後ろを歩きながら、話すための言葉を探した。最後の夏、という言い方をした途端、先輩まで悲しくさせてしまう気がして、喉で止まる。
「先輩」
「うん」
「明日、練習のあと、少しだけ」
その先を言えない私へ、先輩が歩幅を緩めた。
「二人で、どこかに寄る?」
頷くと、先輩も頷いてくれる。
「じゃあ、そうしよう」
何のためかを聞かれなかった。
私は並んで歩けるところまで追いつき、鞄の持ち手を握り直す。
明日の予定が一つ増えた。
終わりまでの日を減らすためではなく、先輩に会うための予定だった。




