第八章 いちばん番長い夏
私の夏は、利香先輩の名前の横にある、小さな数字から始まった。
三年。
提出する名簿なのだから、書かれていて当然のことだ。自分の名前の横にも二年とあるし、その下には陽菜の一年が続いている。先輩と私が一学年違うことなど、去年から分かっている。それなのに、海香先輩がその紙を指で押さえ、「三年生は最後だから、確認してね」と言った途端、利香先輩の名前だけが少し遠くなった。
「藤沢さん、そこ、回して」
聡美先輩に呼ばれて、私はようやく紙から手を離す。
「あ、はい。すみません」
「名前、間違ってた?」
「いえ」
間違っていてくれたら、直せたのに。
譜面台を直すふりをして顔を隠す。隣で陽菜が落とした鉛筆を拾うと、ありがとうございます、といつもの声が返ってきた。
七月の音楽室は、窓を開けても暑い。合奏前には必ず誰かが消しゴムを借り、外からは蝉の声が入り込んでくる。
変わったのは、壁の予定表だった。
三重奏に使っていた枠が小さくなり、その上へ全体合奏と書かれた紙が重ねてある。冬のアンサンブルに向けて決まった三人の席とは別に、夏は、部員みんなで同じ舞台へ上がる。
譜面台の上段に、課題曲Ⅳ。
その下に、真島俊夫の《三つのジャポニスム》。演奏時間に合わせて抜粋し、春から譜読みを進めてきた自由曲が、ようやく毎日の真ん中へ来ようとしていた。
「自由曲、今日は持ち替えも含めて通します」
三枝先生の声に、私は足元のスタンドを確かめた。
利香先輩と陽菜が第一オーボエ、私は第二オーボエとイングリッシュホルンを受け持つ。三重奏で手になじんできた楽器も、大勢の中で吹くと、隣の音ばかり聴いてはいられなかった。
「雪の川」の旋律。
そこを担当すると言われた日のことを、まだ覚えている。
先生は、できるでしょう、とも、君なら安心だ、とも言わず、一度吹いてみて、と譜面を渡した。私が終えると、しばらく総譜を見てから、ここをお願いします、とだけ。
この楽器に慣れてきた自分を頼りにしてもらえたようで、その短い言葉が嬉しかった。
「ひかり、リードの水、近すぎない?」
利香先輩の声に足元を見ると、小さな容器が椅子の脚のそばにあった。動けば倒しそうな位置だ。
「ありがとうございます」
「本番は置ける場所も違うから。今のうちに決めておこう」
先輩が楽器を構え直す横で、陽菜は容器をよけようと伸ばした手を引っ込めた。
「陽菜も、ありがとう」
「まだ何もしてません」
「じゃあ、これから?」
聞き返した私へ、陽菜は少し困った顔をした。
「先にお礼を言われると、やりにくいです」
先輩が笑う。陽菜も、釣られたのを隠すようにリードへ口を寄せる。
ずっとこんなふうでいい、と思った。
思った直後、さっきの数字が戻ってくる。
私は楽譜を一枚、余計にめくった。
合奏は、思っていたほど先へ進まなかった。
課題曲の途中で止まり、同じ場所から三度やり直す。大きな間違いはないのに、誰かが少し先へ行き、取り戻そうとした人の音が強くなって、また別のところが遅れる。
「急いでいるのは、どこでしょう」
三枝先生が尋ねても、すぐには手が上がらない。
私も、さっきまでは隣だと思っていた。けれど先生がこちらの列を見たので、自分のことかもしれないと急に不安になる。
休憩前、海香先輩がフルートを膝へ置いた。
「次、やり直すとき、各パートで一つだけ、変えることを決めておいてください」
よく通る声に、一年生たちが顔を上げる。
「急いでしまうところなら、誰の音を聴いて合わせるか、相談してみてね。では、五分休憩。みんな、水を飲んで」
部員たちが楽器を下ろす中、海香先輩は自分の譜面へ鉛筆を走らせる。その横から、聡美先輩が水筒を差し出した。
「海香も」
「うん。ここだけ書いたら」
「部長、一人だけ休憩の指示を聞いてないよ」
海香先輩の鉛筆が止まる。
「……はい」
さっきまで全員へ指示を出していた人が、今度は素直に水筒を受け取っている。つい笑ってしまった私は、隣から差し出された楽譜へ目を落とした。
陽菜が、鉛筆で一か所を指している。
「私、ここで先輩を追いかけたら、遅くなりました」
「私、先に行ってた?」
「多分。利香先輩の音より」
三人の譜面を並べ、まず私と陽菜だけで吹いてみる。間違えたくないところほど、確かめるより先に指が動いていた。
「私の方を見て拍を確かめなくても大丈夫。陽菜ちゃんの音、聞こえてるでしょう」
先輩に言われて吹き直すと、今度は隣の音がよく聞こえた。陽菜が私を追うのをやめた分、私も落ち着いて次の音へ息を渡せる。
先輩が頷いた。
嬉しかったはずなのに、その頷きを受け取るたび、いつまで見てもらえるのだろう、と考えてしまう。
私は楽器から口を離し、少しだけ長く水を飲んだ。
自由曲では、さらに息が詰まった。
「鶴が舞う」から「雪の川」へ入り、私はイングリッシュホルンに持ち替える。先生の手がこちらへ開くと、周りの響きの中に、私の音を置く場所ができた。
音は出た。高さも、入りも間違っていない。
それなのに、一音ごとに確かめているうち、旋律が短く切れてしまう。利香先輩に聴いてほしかったはずの曲を、今は、無事に終えることしか考えられなかった。
「藤沢さん、一度、楽器なしで歌ってみて」
小さく歌い始めると、さっき詰まった場所を通り過ぎられる。
「その長さで、吹いてみましょう」
二度目は最後まで行けた。それでも、楽器を下ろした途端に確かめたのは、利香先輩の顔だった。
片づけの時間にも、茜は自由曲の譜面を開いていた。
「茜、その続きは明日。水、残ってない?」
香帆に言われて、茜が水筒を持ち上げる。私も同じくらい残していると気づき、鞄へ隠しかけたら、こちらまで見られてしまった。
「ひかりも」
「はい」
「そんな返事しなくていい。私、先生じゃないから」
苦笑した香帆のファイルには、別の五重奏の譜面も挟まっている。夏の全体合奏が増えても、冬に吹く曲が消えたわけではない。
まだ、先輩と演奏できる機会はある。
そう思って顔を上げたところで、利香先輩が教室の入口に立っているのが見えた。先生と話しながら、大学の案内らしい封筒を受け取っている。
知らない学校名が、遠くからでも読めた。
「ひかり先輩?」
陽菜が呼ぶ。
私は水筒の蓋を閉めようとして、少し傾けたまま回してしまった。閉まらない。やり直せば済むことなのに、指がうまく力を入れてくれない。
陽菜は取り上げず、下の方をそっと支えた。
「ゆっくりでいいです」
その声で、ようやくねじ山が合った。
私は、ありがとう、と言って立ち上がる。
先輩はまだ、教室にいる。
それだけのことを、自分へ言い聞かせなければならない夏が始まっていた。




