第七章 二本のオーボエと、私
月曜日の校門が、いつもより入りにくい。土曜日のことを日曜日じゅう考えても恋人の人数は減らず、二人がいる学校へ来てしまった。
陽菜も先輩も、何度か体調を尋ねてくれたし、自分のしたことを少し反省しているらしい。けれど付き合うことを取り消すとは、どちらからも言われない。
私からも言っていない。そこが一番困る。
門の向こうから、陽菜が駆けてきた。
私の前で足を止め、顔を覗き込む。
「大丈夫ですか」
「もう大丈夫」
「ふらふらしません?」
「してないよ」
「本当に?」
頷く私よりも、陽菜の方がほっとした顔をする。昨夜から用意していた小言が、その顔に触れた途端、少しだけ勢いを失う。
「土曜日、ごめんなさい」
陽菜が言った。
私は少し驚いた。
「私が、勝手に決めたから」
「うん」
「でも、約束だったので」
そこまで言って、陽菜は口を閉じた。
私は陽菜を見た。
「約束したのは二人で、私は、あとから聞いたんだよ」
「……はい」
「私のいないところで、私がどうするかまで決めないで」
陽菜は頷いた。
いつもみたいに勢いで返事をせず、少し待ってから、はい、と言った。
私たちの横を、登校してきた生徒たちが通る。
私は話を切り上げようとした。
でも陽菜は、その前に小さく尋ねた。
「利香先輩と付き合うの、嫌ですか」
私は言葉に詰まった。
嫌ですか、と聞かれるたび、答えがなくなる。
陽菜はそれを見て、少しだけ目を伏せた。
「……私、ずるいですね」
「何が」
「先輩が、嫌って言わないの、分かって聞いたので」
袖をつまむのはいつも陽菜の方なのに、今朝は私が手を伸ばしている。目を伏せたままにしておきたくなかった。
「陽菜と付き合うのも、嫌じゃないよ」
陽菜が顔を上げる。
「嫌じゃないだけですか」
私は息を吸った。
「一緒にいたい」
言ったあと、耳が熱くなった。
陽菜は口元を押さえた。
「……今、そういうこと言うの、卑怯です」
「聞いたの、陽菜でしょ」
そう答えると、陽菜は少し笑った。
話は何一つ簡単になっていない。
それでも、門の前で一人で立っているよりはよかった。
昼休み、利香先輩が私の教室の前へ来た。
教室の中の何人かがこちらを見たので、私は急いで廊下へ出る。
先輩は小さな紙袋を持っていた。
「これ、土曜日に借りたハンカチ」
「貸してました?」
「覚えてないか。陽菜ちゃんが、鞄から出してくれたの」
紙袋の中には、綺麗に畳まれた私のハンカチが入っていた。
どうして先輩が洗ってくれたのだろう。紙袋を受け取りながら土曜日の顔の近さまで思い出してしまい、頬が熱くなる。
先輩は私の顔を見て、少し眉を下げた。
「急に、ごめんね」
何を、とは聞かなかった。
「びっくりしました」
「うん」
「すごく」
「うん」
私は紙袋の口を閉じた。
「次は、返事、待ってください」
先輩の目が大きくなってから、自分の言った「次」に気づく。取り消す言葉を探す間にも口元が緩んでいくから、もう間に合わない。
「待つ」
「あと、陽菜にも言いましたけど、私のいないところで話を決めるのは」
「もうしない」
すぐ返ってきた答えに頷けば、この話は終わるはずなのに、先輩の視線はまだ離れない。
「ひかりは、私と付き合ってもいいと思ってる?」
廊下の先で、誰かが教室を間違えて笑っていた。
私はその音を聴きながら、紙袋の角を指で押した。
「……嬉しいんです」
先輩の表情が変わった。
「先輩に、好きだって思ってもらえるのは、嬉しい。でも、陽菜がいるのにって思うし、こんなの、どうしたらいいか分からないです」
言っているうちに、声が小さくなった。
先輩は私の手へ触れようとして、途中で止めた。
その指は、私の返事を待つところで止まった。
「ちゃんと、ひかりにも決めてほしい」
「先に決めたの、先輩たちなのに」
思わず言うと、先輩は少し困った顔をした。
「その通り。ごめん」
言い返せずに困っている先輩は、少し格好悪い。いつも余裕のある顔ばかり見ていたかったはずなのに、今の先輩を前にすると、こちらも正直に話していい気がする。
「……付き合って、みたいです」
今度は自分で言った。
「でも、分からないこと、いっぱいあります」
「私も、ある」
先輩は答えた。
そんなことを、あの余裕のある顔で言うのはずるい。
でも私は、少しだけ息を吐けた。
三重奏の練習が始まると、先生は私たちに録音機を渡した。
「自分たちで聴いて、自分たちで直す。私が全部決めると、三人で吹く意味がなくなる」
最初の週は、短い区間ばかりだった。
私はイングリッシュホルンの重さにも、音の返り方にも慣れてきた。指はもう迷わない。でも低い音を柔らかく出そうとすると、思ったより息が要る。かといって強く押すと、二本のオーボエの後ろで音が固くなる。
学校の長いケースが、自分の席の横に置かれている。
それを見るたび、私はまだ少し嬉しかった。
陽菜は、私が初めて低い音をきれいに出したとき、大げさなくらい頷いた。
「今の、好きです」
「ありがとう」
「今の音も、先輩も」
「練習中」
「休符でした」
「私が」
利香先輩が隣で笑った。
次の合図を出すと、二人が同時にこちらを見る。
息を吸う。
利香先輩の音が少し先へ出て、陽菜が追いかける。
私は止めた。
「今、二人とも私しか見てなかった」
「合図を見るんでしょう?」
利香先輩が尋ねる。
「見るけど、音も聴いてください」
次の陽菜は利香先輩を見すぎている。とうとう先輩まで気になったらしく、目が合った瞬間に二つの音が揺れて、私は楽器を下ろすしかない。
「そんなに見なくていい」
「難しいです」
陽菜が真剣な声で言ったので、三人で笑ってしまった。
笑ったあとに合わせた音の方が、なぜかよく揃った。
二人の視線が譜面へ戻ると、私も、自分の音を先へ出せた。
利香先輩の音を陽菜が受け取り、陽菜が進めた先で私が戻す。
私が歌うところでは、二人が少し引いてくれる。
そうすると、三人でいることが窮屈ではなくなった。
その感覚を、練習室の外へ持っていけたらよかった。
帰る前にケースを棚へ戻していると、隣の部屋からピッコロが聞こえた。すぐにフルートが続き、下からファゴットが動く。
扉が開いていたので覗くと、香帆が手を上げ、吹き終わった四人を見回している。
「今の、私はクラリネットを待ってました。皆さんは、どこを聴いてましたか」
それぞれ違うところを答えたので、ホルンの先輩が笑った。もう一度、と急がずに、五人で譜面へ指を置いていく。
海香先輩は途中で私に気づき、ピッコロを下ろしたまま顔を明るくする。
「ひかりが聴いてる」
「今は香帆の話を聴いて」
聡美先輩の言葉に、部長はすぐ前へ向き直った。香帆も笑ったけれど、鉛筆を持つ手は止めない。
「じゃあ、私が動くところから、一回合わせたいです」
先輩二人を前にしても、そう言える。私だったら同じように頼めるだろうかと思ううちに、五人が息を吸った。
今度は高い音が先へ行きすぎず、下から来る動きに乗って、旋律がひとつにつながる。
香帆がこちらを見たので、私は扉の外で小さく頷いた。
部活の帰り、利香先輩に文房具屋へ誘われた。
「鉛筆、短くなりすぎちゃって」
見せられた鉛筆は、先輩の掌にすっぽり隠れるほどだった。
「そこまで使ったんですか」
「まだ書けるから」
何でも綺麗に揃える先輩が、掌に隠れる鉛筆をまだ使おうとする。その意外さを引きずって文房具屋へ入り、隣で消しゴムを眺めながら、先輩がどの鉛筆を選ぶか気にしてしまう。
「ひかり、どっちがいいと思う」
振り向くと、先輩は二色の小さな鉛筆キャップを持っていた。
青と白だった。
「白、先輩に合いそうです」
「じゃあ白」
先輩はすぐに決めた。
「青はひかり」
「私、鉛筆まだ長いです」
「長くてもつけられるよ」
それはそうだった。
会計を済ませると、先輩は青い方を私へ渡した。
「お揃い、嫌?」
私は首を振った。
「ありがとうございます」
「今日は、デートだから」
さらりと言われて、私は店の入口で立ち止まった。
先輩が振り返る。
「そうでしょう?」
「文房具を、買いに」
「一緒に出掛けてる」
「部活の、帰りに」
「ひかりがそう思わないなら、私だけデートしてることになるけど」
そんな言い方をされたら、否定できなかった。
私は青いキャップを手の中で転がした。
一年前にも先輩とこの道を歩いた。
同じ街灯、同じパン屋の看板、改札までの曲がり角。
でも今日は、先輩が私の恋人だという。
嬉しかった。
嬉しいと思うと、そのまま陽菜の顔が浮かぶ。
先輩は、私の歩く速さに合わせていた。
「ひかり」
「はい」
「難しい顔してる」
「難しいので」
先輩は少し笑ったあと、笑うのをやめた。
「うん。そうだね」
手の近くまで来て、先輩は待ってくれる。その隙間を自分の指で埋めると、重なった指がそっと握り返してきた。
改札の少し手前まで、先輩は何も聞かない。難しい顔の理由をうまく話せない私には、その静けさがありがたい。
翌日、私は二人を練習室へ呼んだ。
大事な話、と言うと、二人とも真剣な顔をした。
「部では、付き合ってること、内緒にしたいです」
陽菜が頷き、利香先輩も、いいよ、と答える。思ったよりあっさり受け入れられて、少し肩の力が抜けた。
「なので、恋人って呼ぶのも、人がいるところでは」
「分かりました」
「手をつなぐのも」
「はい」
「あと、その、キスも」
陽菜の視線を受けた先輩が、無言で頷く。
私はそれ以上、項目を増やすのをやめた。恋人を前に注意事項を読み上げているようで、悲しくなってくる。
陽菜が私の方へ向き直る。
「二人きりなら、いいですか」
私は目を逸らした。
「その時に、聞いて」
陽菜が嬉しそうな顔になり、先輩も少し笑う。二人に同じような顔をされると、やっぱり大変なことになったのだと思い知らされる。
部屋を出ると、廊下の向こうに茜がいた。
ファゴットのケースを肩に掛け、もう片方の手に楽譜を持っている。
私たちを見て止まった茜の目が、私の手元の青へ、それから先輩の持つ白へ移る。鉛筆キャップを持ったままだったことに、ようやく気づく。陽菜が何か言うより早く、茜は顔を上げた。
「……練習、終わりました?」
「うん。部屋、使う?」
茜は頷き、すれ違いざま、いつもより少しだけ長く私の顔を見た。
気づかなかったふりをしたけれど、上手くできた自信はない。




